第2話 奥様の黒歴史


「PR企画は、ほぼ固まってきているようだが、商工会だけでは少し薄いな。他のPR方法も検討が必要だ」


「はい。ホームページのみでなく、その他の媒体や学校、文化施設等、市民の誰もが目に入るようなPRを考えています」


「わかった。形になったら報告」


「はい」


 大堀は笑顔で頷いた。


「次は市制100周年テーマ記念曲だな。田口、どうだ」


「はい。歌詞は市出身の若手詩人の坂之上さかのうえかおる先生に依頼中です。先生は執筆に時間を要するので有名ですので、コンセプトをお伝えして早々に取り掛かってもらっています」


「坂之上先生の遅さは有名だからな」


 保住は頭をかいた。


「しかし、それと合わせて……」


「そうですね。神崎かんざき先生もインスピレーションがわくまで時間がかかります」


 市制100周年を記念して今回は、オリジナルの曲を作成することになった。もともと梅沢市には市歌がある。昭和時代に作曲されたものだ。その曲は市民なら慣れ親しんだものであることには違いないが、今回は、新たに作成するのだ。この特別な時を記念してだ。

 象徴となるものが一つあることで企画はまとまりやすい。そもそも音楽で町おこしに取り組んでいるため、記念ソングは外せない企画の一つでもあった。


 その記念ソングは、オーケストラ、ピアノ、合唱、独唱と様々なバリエーションで編曲されることになる。そうすることでイベントの要所で演奏することが可能になるからだ。


 曲の作成については、もちろん梅沢市出身の作詞家と作曲家にその依頼をかけている。作曲家の神崎と言えば、保住や田口が文化課振興係時代、オペラ制作で関わった作曲家だ。彼女はその道では売れっ子で、テレビCMの曲や、ドラマのサウンドトラックなどを手掛けている。更にはオペラやクラシック曲の作曲にも明るく、幅広く活躍している人気の女性作曲家だった。


 田口からしたら、そんな売れっ子の作曲家とはどんなにか素晴らしい女性なのかと思っていたのだが——。しかし実際に彼女と面会してみると、かなり驚くべき事実が次から次へと発覚したのだった。


 昨年の話である。あれは忘れられない過去でもあった。彼女はゴミ屋敷に住み、身の回りのことはだしのない女性だったのだ。昨年、梅沢市オリジナルオペラの作成を依頼した際は、なかなかインスピレーションが下りてこない神崎の要望で、田口が住み込みで彼女の世話をした経緯があった。


 あの時のことを考えると、踏んだり蹴ったりの辛い気持ちを思い出した。あの時は保住から住み込みをして神崎の手伝いをするように言われた。当時は仕事だと言い聞かせながら頑張って、彼女の家の掃除や洗濯、調理をこなした。神崎から何度となく誘われ、しかし自分を保って彼女の作曲活動の助力になればと頑張ったものだ。


 あれは男性としてはかなり厳しい環境だった。それなのに自分が留守にしている間に、保住を澤井に寝取られた。きちんとしていなかった自分が悪かったのだ。保住への気持ちを押し隠してそばにいられればいい——そんな甘い考えをしていたおかげで、澤井に先を越されたのだ。


 あれは田口にとって苦い思い出でしかない。だから今回、「神崎の担当」を任された時には唖然とした。


 ——これは……保住さんの嫌がらせだ。そうに決まっている! 神崎先生にからかわれるおれを見て楽しんでいるのだ。


 不本意な気持ちで過去の記憶に飲み込まれそうになった時、ふと保住の声が聞こえた。


「神崎先生はどうだ?」


「昨日お会いしてきましたが……相変わらずです。本腰を入れる気分にならないようでした」


「入れてくれると早いのだがな。またお前、

 

 保住は意地悪そうに田口を見た。


 ——さっきの仕返しなのだろうか? 「ぬいぐるみが好きなのか」と問うたことが、そんなに嫌だったのか。


「……勘弁してください。室長」


「どういうこと?」


 大堀が尋ねてくる。田口は言いにくそうに口ごもるが、保住はしれっと答えた。


「以前、神崎先生に作曲の依頼をした時、インスピレーションがわくまで、田口が住み込みで先生の身の回りのお世話をした経緯があるのだ」


「え? 住み込みって」


「神崎って女だろう?」


 安齋も田口を見る。


「ち、違う。奇異な目で見るなよ。おれは、そんなんじゃない。職務としてだな——」


「しかし」


「ねえ」


 ——意地悪。


 田口は保住を見るが、彼は助ける気もなさそうだ。知らんぷりだ。


 ——酷い。


「……あれは、室長の指示だったじゃないですか」


 田口は小さい声で助けを求めるが、保住は冷たい。


「おれの指示かも知れないが……エプロンをして、ずいぶんな奥様ぶりをさらしていたのはお前の意思だろう?」


「そ、それは……」


「エプロン!?」


「田口が~? 似合わないの」


「大堀、失礼だね」


 保住を敵に回すとロクなことにならない。


 ——人前で平気でこの件を口にするなんて……っ!


 昨日、神崎のところに挨拶に行くと「銀太〜」と嬉しそうに田口に抱き着いてきた。彼女は田口が保住と付き合っているのを知っている上で、執拗にスキンシップを図って来る。あれはあれで嫌がらせに他ならない。田口をからかって愉快がっているのだ。


『また、お世話してくれる? 銀太がいない間にゴミ屋敷に戻っちゃったもん。片付けしてよ~』


 彼女の言葉が、悪夢のように蘇ってきた。そんなこと保住の耳にでも入ったら、きっと——。


 ——またやられる。


 背筋が凍る思いだった。


「そうだな。神崎先生に挨拶に行かねばな」


 保住の言葉に田口は、顔色が悪くなった。


「大丈夫です。おれから丁重にお願いしておきました。室長のこともの先生ですから、あえてご挨拶は不要だと思います」


「そうだろうか? そんなわけにはいくまい。お願いする立場なのに、ご挨拶もないとは……」


「大丈夫です! 完成した折にご挨拶に参りましょう」


 あまりにも譲らない田口を見て大堀は、愉快そうに笑った。


「そんなに室長と先生を会わせたくないって、なにかあるんじゃないの~?」


「違う」


「嘘だ」


「だからっ」


 田口が声を荒上げるなんて珍しいから、大堀は執拗にからかってくる。


 ——不本意だ!


 田口が抗議しようと口を開いた時、低い声色に一同は動きを止めた。


「遊んでいるな」


「すみません」


「副市長」


 一同の視線の先、カウンター越しに立っているのは副市長である澤井。そして、その後ろに副市長付秘書係の天沼が困った笑顔を浮かべて立っていた。三人はかしこまるが保住は、面倒な顔をする。


「わざわざ来ないでくださいって言っているじゃないですか」


 澤井はあからさまに口を捻じ曲げて不機嫌そうな表情をした。


「出向いてきてやっているのだ。そういう言い草はないだろう」


「すみませんね」


「書類が遅れているから。わざわざ取りに来てやったのだ。さっさと出せ!」


 カウンター越しに仁王立ちしている彼を見て、一同は大きくため息を吐いた。仕事は思うようにはいかない。そういうことだった。




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