第6話 プライド
「今回の件は、きちんとあなたに相談しませんでした」
しかし保住は振り返ることなく、淡々と低い声で続けた。
「お前の企画書を、おれは見ていなかった」
––––違う。それはおれが見せていない。
「きちんと向き合おうとしなかったおれのミスだ」
「室長……」
––––自分を責めないのか? 元を正せばおれの責任なのに。
なんだかイラついた。
「室長、おれのせいだってはっきりと言ってくださいよ」
それでも安齋の言葉に保住は答えない。彼はただ真っ直ぐに前を見て歩くだけ。苛立ちと不安が募った。責められて罵られた方がマシなのだ。沈黙は一番キツイ。
人の途絶えた廊下で、保住の肩を捕まえて引き寄せた。
「室長!」
「……っ」
弾かれたように顔を上げた保住は驚いたのか一瞬目を見開いた。しかしそんなことはお構いなしだ。
自分を見て欲しくて。保住に言って欲しくて救いを求めてすがってしまう。
壁に手を付いて彼を逃れられないようにした。
「なんとか言ってくださいよ」
自然と声が低くなった。必死だったのだ。しかし保住の視線はなんの色もなく、ただ自分を見上げていた。
「お前はなにを求める? 罵声を浴びせられたいようだがそんなことは無意味だと知れ」
「なにを……っ」
いつもの冷静さを欠く安齋の方が、分が悪いことは一目瞭然だ。
「お前の気の済むことを叶えるつもりはない。おれが望むのは明日までに企画書を再考することだけだ。お前の自己満足的なお遊びに付き合う暇はない」
「な、」
生まれて初めてだ。自分の心のうちを読まれたのは。
いつも冷静沈着。人よりも少し離れたところで見ているたちだから、誰よりも客観的。「合理的で、理論的に物事を進める男」だと、周りの人間は思いがちだが、根は自己中心的。自分の思うように場面を支配し、自分が有利に立つように振る舞う。それが安齋だ。それなのに……。
「わかったか? 安齋。お前が今すぐにすべきこと、やらなくてはいけないこと。理解しろ」
今度は逆に胸ぐらを掴まれたかと思うと一気に引き寄せられた。
「お前は本能が強すぎる。その場面、時間、人など様々なものを自分の支配下に置きたいのかも知れないが、そう行かないこともを知れ。冷静になれ。お前はその本能を押さえ込んで自分で制御しない限り成長はない」
図星だ。なんだか気が抜けてふと身体が緩んだ。
「どうして、室長はそれを……」
「澤井の言うことも一理ある。
安齋は黙るしかない。図星、図星、図星。自分だって知っていた。星野や水野谷が自分よりも優秀だって。あの人たちが一歩引いて好きなことをやらせてくれたから自分の能力を伸ばすことができたってことを。
「しかし今回の件はおれが悪い。お前のそういうところを把握しながらも野放しにしすぎた。いや目を背けていたのだ。お前ならできるだろうと理由をつけて」
保住は安齋から手を離し俯いた。
「すまない。素直に言うと、おれはお前をどう取り扱ったらいいのか戸惑っていた」
「室長……」
「おれの心の問題だ」
瞳を伏せて保住はじっと黙り込んだ。
「役所とはなにを進めるにも周囲の合意が必要だ。係長、課長、次長、部長、副市長、市長。そして議会、市民だ。どんなに能力が高くとも、周囲の合意が得られないものは形にはならないのだ。意味がわかるだろう? それが面倒だと思うならこの仕事は辞めろ。お前一人の能力がいくら高くても、そんなことは無意味だ。役所でうまくやるには、周囲とどう付き合うかだからな」
保住の言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるような差し迫ったものであった。
星音堂という狭い世界でぬくぬくと育てられた自分は、いきなり世間の荒波に放り込まれたということだと安齋は理解した。
本庁という場所は、星音堂よりもたくさんの人との利害関係があるのだ。我が道を行くでまかり通る場所ではないのだということだった。
田口が自分より劣っていると思っていたのに、一緒に仕事をしてみて、印象が変わったのはそういうことだったのだ。
個人の能力だけ見ていた自分が浅はかだったのだ。田口には自分にないものがある。人とうまくやる協調性だ。保住に指摘されないと気が付かないだなんて。やはり自分はまだまだであると痛感した。
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