第2話 上司のオファー
保住は資料を抱えてノックもそこそに副市長室に入り込んだ。ついさっきまで内線をジャンジャンかけてきてのだ。いないわけがない。
——外勤にでも行ってくれっ! 天沼はどうしたというのだ。
「なんなんですか。今日は。朝から電話ばかり寄越すのは止めてください……」
勢いよく中に入ると、保住は目を見張った。いつもの副市長室ではない。応接セットまで資料が山積み。イラついている様子の澤井が腕まくりをして仏頂面で座っていた。
「電話はしたが、来いとは言っておらん。お前の相手をしている暇はないのだ」
「相手をしている暇がないって。では、なぜ数分おきに内線を寄越すんですか。『暇はない』は、こちらの言い分ですよ。いちいち細かいところの問い合わせがあるなら、一度に済ませてもらいたいものですね! ……しかし、なんです。この有様は? 天沼はどこです?」
天沼の席に彼はいない。彼が副市長付きになってからというもの、副市長室は大変整頓されるようになったはずだったのに。今日のこの有様は、昨年度のようだった。保住は呆れて澤井を見つめる。
——まさか。もう彼を自分の秘書から解任したのではあるまいな。
澤井は保住の意図を汲み取ったのか「休ませただけだ」と、ふてくされて言った。
「休ませたって……?」
「
彼の言い訳がましい返答に思わず笑ってしまう。彼は部下の体調を心配して休ませたくせに、自分の首を絞めているのだ。
——素直じゃないな。
「自分で休ませておいて、一人で抱え込んでパンクなんて、目も当てられない失態ですね」
ここぞとばかりに嫌味を言ってやるが、澤井はさほど気にしない様子だ。それよりも、そんなことは「無視」とばかりに手伝いを要求してきた。
「暇ならさっさとおれの仕事を手伝え」
「業務から逸脱いたします」
「そんな堅いことを言うな。お前はおれの部下だ。上司の命令を無視する気か」
自分の業務のことで来ただけなのに目測を誤ったようだ。澤井はこうなることを予測して内線をかけて寄越していたのだ。
してやられた感にイラつく。この様を目の当たりにしてしまうと無視もできない保住の性格を澤井はよく知っているのだ。
ここで突っぱねることもできるのだが……。保住は諦めて澤井に視線を戻した。
「……承知しました。どこからお手伝いいたしましょうか」
「そこ。決済の書類。適当にハンコを押しておけ」
澤井は感謝の言葉もなく、ぶっきらぼうに天沼の席を見た。なにもかもが彼の予想通りなのだろう。保住に手伝わせるための仕事は、すでに用意されていたということだ。
——面倒な仕事だ。
そう思いながら天沼の席に腰を下ろす。
大概の書類は部長クラスで止まるが、澤井のところにまで上がってくる書類となると重要性が高いものばかりだ。それに判を押せということだ。
「ああ、言い忘れた。今日は忙しい。そこにある書類は、まだ目を通していないものだからな」
「目を通していないのに。よろしいのでしょうか? おれが決済するんですか」
「お前が目を通せ。変なのがあったら持ってこい。それにお前の名で決済するわけでもない。安心しろ」
「そんな無茶な」
「お前でも判断がつく案件だ」
「澤井さん、まさか天沼にもこんな無茶な仕事押し付けているのではないでしょうね?」
天沼の席に積み上がっている書類を一つずつ眺める。大丈夫なものなど一つもない。真剣に目を通さないといけないものばかりだ。
保住にはまだ全てを網羅できるほどの経験がない。スムーズに上に取り立ててくれるのはありがたいことだが、あちこちの経験値を蓄積する暇がないのだ。
「無茶言ってくれる」
「
この無茶ぶり。
——おれ限定かっ!
新人の頃のいびりを思い出した。
「澤井さん。なんだか新人の頃を思い出しました。また相当な嫌がらせですね」
「そうだ。おれがお前にいい思いをさせるとでも思っているのか? まだ面白味のある仕事だろう? それとも、昔のような度胸はないということか」
澤井は老眼鏡の間から愉快そうな視線を向けてきた。
「悪い冗談ですよ。本当に」
「そうだろうか。新人の頃のお前はあちこちに噛み付いて、躾のなっていない野良猫だった。昔のお前だったら、そんなものは直ぐに取り掛かったろう」
「おれもそれなりに学んできた成果ですよ。褒めてください」
「慎重になるのはいいことだが、それは良し悪し。まあ良かろう。そう言えば当時、大嫌いだったのは単純作業だったな。書類の精査よりも単純作業のほうがいいか? おお、そうだ。明日の庁議で使う資料作りがまだだ。そこに印刷されている資料を綴じて……」
「それは、勘弁してください」
「だろうな」
彼はにやにやとしたまま、自分の手元の資料に視線を落とした。無駄口を叩けるほど余裕があるわけではないらしい。これ以上の話はないということだ。
保住は書類に目を通し始めた。
引っかかったり首を傾げてしまったりするようなものは、資料を閲覧しながら却下の箱に入れていく。
その間にも澤井は頻繁にかかってくる電話の対応をしながら、書類を眺めてはくしゃくしゃにして捨てる。
——却下ならそのまま返せばいいのに。
そんなことを思いながら判子を押す作業に取り掛かっていると、ふと澤井が保住を呼んだ。
「おい」
「なんでしょうか」
「別に」
「用がないなら呼ばないでください。おれも暇じゃありません。さっさと終わらせたいのですが」
「そうか? 終わったら昼飯でもおごってやろう。せいぜい頑張れ」
澤井は嬉しそう。
「結構です」
ため息しかない。悪さをするなと置いてきた部下たちが心配なのに、諦めるしかないのだ。
——銀太が巻き込まれないといいのだが……。
そんなことを考えながら、保住は決済書類の精査を続けた。
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