第11話 名前
「そんなに怒るなよ。お前が言い出したんだぞ。いいぞ。さあ、その格好でやるがいい!」
田口は散々だった。そう堂々と言われると、気持ちは萎えるものだ。自分から言いだした事とはいえ、保住のデリカシーのなさに本気で呆れた。そういう人だということは理解していたはずだ。少しみんなとずれているって。しかし、こうも突き付けられると、なんだか自分自身が不憫に思えてきてならなかった。
「保住さん……あの。雰囲気を重視してもらえませんか?」
「そうか? いい雰囲気だぞ?」
「どこがいい雰囲気なんですか」
「そうか? お前の裸エプロンなんて、そうそう拝めるものでもないだろう?」
それはこっちのセリフだ。なんのために「裸エプロン」なんて思いついたのかわからない。もう泣きたくなってきて、田口は保住をぎゅっと抱き寄せた。
「田口?」
「あの。一つだけお願いきいてくれませんか? 保住さんの裸エプロンは諦めますから」
「なんだ。言ってみろ」
「あの。二人だけの時でいいので……あの。な、」
「な?」
「名前で呼んでもらえませんか?」
——言ってしまったっ! ずっとお願いしたかったこと。
親しい人間はみんな自分のことを「銀太」と呼んでくれる。ずっと思っていた。
保住にはそう呼んでもらいたいと。恥ずかしがり屋の保住がそれを叶えてくれる確率は低い。そう踏んでいたから今まで黙っていたのだが、もう我慢の限界。
じっと保住をまっすぐに見据えて、懇願するように視線を向けた。すると保住は吹き出した。
「な、なんで笑うんですか」
「だって。お前。そんな。泣きそうな顔して言うなよ」
「でも、だって……」
もうなんて言ったらいいのかわからない。田口はしっぽも耳も丸めたようにしゅんと沈み込んだ。しかしふと保住の手が頬に触れた。温かい手のぬくもりだった。
「銀太」
「……はい」
「ふむ。呼びやすいようだ。確かにおかしい。田口なんて他人行儀だ。いいではないか。銀太」
保住の口から自分の名前が飛び出すだけで、田口は嬉しい気持ちになる。なんだかじんとして涙が零れそうだ。心臓がドキドキと拍動して幸福な気持ちに包まれた。
「お、おい。泣くな。どうした? 大丈夫か? 裸エプロンで泣かれても、目も当てられないのだが」
「嬉しいです。保住さん。ありがとうございます」
「本当に、お前にはやられる」
頬笑みを浮かべた保住はそっと田口の頬にキスを落とす。
「好きです。保住さん」
「そうか」
保住は田口への気持ちを口にしてはくれない。だけど知っている。それは照れ隠し。保住がここまで心許して他人を側に寄せることはない。自分を除いては。
だけどいつも不安なのだ。保住の心の内を疑うわけではないのに、常に不安。マイナス志向の悪い癖が強くなっているのが分かる。心が惑うのだ。
だから保住にすがりたい。体の関係だけが全てではないにしろ、彼とのつながりがないと不安になる。別な手段で彼との関係性を確固たるものにしたいと思ってしまうのだろうか。
「銀太」
保住が触れてくる場所が熱い。耳元で名前を囁かれるだけで心が震えた。
「もう一度、呼んでください」
「銀太」
「もう一度」
「……銀太」
何度も飽き足らずにねだる自分の要望を叶えてくれる保住が好きだ。
「おれ、保住さんが好きです」
何度も同じことを重ねて意味のないことであるとわかっても口にしたくなる。保住の首に腕を回して引き寄せ、それから床にもつれ込んだ。
***
「は、はっくしゅんッ!」
豪快なくしゃみに保住は「ぷ」と吹き出した。田口は身支度を整えてはいるが、完全に風邪を引いたらしい。
「裸エプロンなんかするからだ」
お弁当を詰め終わってから保住は、ニヤニヤと笑った。
「だって……」
「無理するな。休んでもいいぞ。熱は?」
「七度ちょっとです。大丈夫です」
鼻をかみながら彼はグズグスとしている。田口と知り合って彼が体調を崩すのは初めてのことで、心配するというより珍しいものを見ているという感覚のほうが強かった。それに、昨日の裸エプロンは自分で言い出したことだ。自業自得なのだ。
「まだまだ朝晩は寒い。自重しろよ」
「……すみません」
「まったく手のかかるバカ犬め」
保住はお弁当を彼の目の前に突き出す。
「ありがとう、ございます」
ソファに座っている田口の隣に腰を下ろして、保住は彼を見上げた。
「いいか。お前はお前の仕事をしておけ。余計な気を回すな」
「ですが」
「部署をまとめるのはおれの仕事だ。だが、こういう仕事には不慣れ。時間がかかっていて申し訳ないと思っているが、なんとか辛抱してくれ。だから、お前は、あいつらと適当にしておけ。深入りするなよ」
「保住さん……」
拒否しているのではない。田口だけを守ることが出来ないからだ。自分たちの関係性が露呈していたとしても、保住は上司として三人を平等に扱わなくてはいけない立場にある。
「おれもまだまだだ。今までは恵まれていた。みんなおれに協力してくれる年上の人たちばかりだったからな。すまないな。試行錯誤中で」
「気にしません。すみませんでした。おれが悪いんです。保住さんに心配かけるようなことばかりで。本当は、おれがなんとかしなくちゃいけないんです。いつまでも守られてばかりではいけないって。安齋に言われました。一人前になりたくないのかって。そう思います」
田口は言葉を切ってから、軽く息を吐いた。
「だけど、それは核心を突いた言葉なのです。おれは心のどこかで、いつも保住さんに頼っています。保住さんと一緒なら大丈夫だって。だから、なにも言い返せない。おれの心の問題もあります。いい加減に自立しないと」
自分にとっても上司としての資質が問われているのは重々承知だ。だが田口にとってもこれはまた、成長の一つのステップなのだろう。
「銀太」
「はい!」
「おれはお前を信じている。ずっと信頼している。心配な気持ちは変わりがないが、お前だったら大丈夫だと思っている」
保住の言葉に田口はうなずいた。
「おれもです。保住さんだったら、この室をまとめ上げられると確信しています。だから、おれにもやれることさせてください」
「わかった。お前を信じる」
「ありがとうございます」
少し笑みの戻った田口を見て内心ほっとした。田口の笑顔は保住に取ったら、心を支えてくれる癒し効果があるようだ。保住も釣られて笑みを浮かべてから立ち上がった。
「よし。仕事に行くぞ」
「はい」
まだまだ先の見えない暗闇の中を道標もなしに旅しているような感覚はいがめないが、お互いを信じて、そして前に進むしかなかった。
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