第10話 裸エプロン



「大丈夫か? 田口」


 隣でぼんやりとしている大型犬を横目に保住は声を上げた。


 ——相当、疲れているのだろうな。


 残業は早々に切り上げた。どうせ切りのない仕事だからだ。帰り道に食材を購入して、夕飯づくりの手伝いをすると言い張っていたくせに、正直言うと役に立っていない。


 田口は先ほどから、レタスをちぎっては洗い、ちぎっては洗いと、なんとも面倒な無駄な作業を繰り返しているだけだからだ。


 なんだか申し訳ない気持ちになった。田口を巻き込んだのは自分だからだ。多分疲れているだろうに、田口は笑みを浮かべて「大丈夫ですよ」と答えた。


「本当にお前には苦労かけるな」


 保住はじっと彼の横顔を見つめる。と、田口は手を拭いてから保住の腰に手を回したかと思うと一気に体を引き寄せられた。


「な、なんだ。大丈夫か? ……大丈夫そうではない様子だが」


「すみません。あの、こうしたら疲れが取れるかなって思って」


「思って、て……」


 話している内容が曖昧になるのは珍しい。思考が停止している状態の現れだと思った。

 田口の腕の中でじっと大人しくし、次の言葉を待っていると、彼は低い声で弱弱しく呟いた。


「保住さんを守るって偉そうに言っていたくせに。おれのほうが先にやられています」


 田口の腕にそっと触れた保住は「すまないな」と呟く。


「あなたのせいではないのです。おれが不甲斐なさすぎて」


「そんなことはない。お前はよくやってくれている」


 耳元で囁かれるとくすぐったい。身を竦めてじっとしていると、田口が頭に顔を寄せるのがわかった。田口はすぐにこうして保住の匂いを嗅ぐ。一番やられて嫌なことだ。自分の体臭は自分がよくわかっていない。それを「好き」と言われても、一体どんな匂いなのかと疑問になるのだ。

 

『くんくんとすると、幸せな気持ちになります』


 先日、咎めた際にそんなことを言うものだから、説教をしたばかりだというのに。


「お、おい! 匂いを嗅ぐなと言っているだろう?」


「え? ダメですか? 少しだけですから。我慢します」


「いやいや、我慢するのはおれのほうだろう? なんでお前が我慢するのだ?」


 さすがに田口の腕から抜け出そうと暴れてみるが、彼の拘束は固い。思い切り田口の頭を引きはがそうと試みる。


「や、やめないか……っ」


「嫌です。いい匂い」


「だから……っ!」


「心が落ち着きます。ずっと嗅いでたい」


「お前な……っ」


 必死に抵抗をしていると、ふと田口の腕の力が抜けた。諦めたのかと、ほっとしたのもつかの間。田口は聞き捨てならないことを言い始めた。


「そうだ。保住さん。裸エプロンしてくださいよ」


 ——この、変態野郎!


 保住は開いた口が塞がらない。


「は、はあ?! お前馬鹿か? あれは、豊満な女性だからエロティックなのだろう。こんな真っ平らなおれがしてどうする!」


 しかし思いついた田口は引く様子もなく、ぐいぐいと保住のシャツを鷲掴みにして引っ張り始めた。


 ——なんなんだ! このバカ犬っ! 


 彼は疲労で瞳の焦点が定まらない。


 ——意識が朦朧としているのではないか? 冗談だろう?


 引っ張っている腕を無視して、彼は田口の頬を軽く叩いた。


「おい! しっかりしろっと言うか、夕飯の支度をさせろ! おれは、腹が減っている!」


「少しだけ。お願いですから……」


 ——少しとか、たくさんとかの問題ではないっ! このままだと負ける!


 大体、体格が違いすぎるのだ。まっとうにやりあったらが悪いに決まっている。保住は必死で打開策を算出した。そして出た結果。


「お前……っ! そ、そうだ! お前がなれ! 裸エプロンに、お前がなれ」


「え! それは嫌ですよ……」


「嘘だ! なりたそうな顔してるぞ」


 ——名案だ。守りでは負ける。だったら攻めに出る!


 保住は田口のシャツをぐいぐい引っ張って反撃に出る。二人はバタバタともつれあい、キッチンの床に倒れ込んだ。


「やめてくださいよ! 保住さん」


「うるさい! お前が言い始めたことだ。責任を取れ」


 そして揉めること数分後。保住は額に滲む汗を拭ってから田口を見下ろしていた。

 彼は保住の目の前に小さくなって座り込んでいた。


「いや。想像はしていたが、やはり実物を目の当たりにすると」


「すると、なんですか?!」


「……お前、だな」


 自分で言い出したこととは言え、自分がそれにされると何とも言えないくらいの羞恥心なのだろう。


「これに懲りたら、変なこと言うなよ」


 保住はぷっと吹き出した。


「わ、笑わないでくださいよ!」


「お前の妄想は現実味がない。その格好をおれがしているのを想像してみろ。絶対におかしいぞ」


「おかしくなんて……」


「無理するな。恥ずかしいのだろう?」


 意地悪な笑みの保住に田口は気恥ずかしそうに俯いていた。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る