第2話 プライベート詮索


 夜の六時を過ぎた。庁議に出かけた保住と大堀が帰ってくる気配はなかった。

 配属された時はまっさらな状態だったので、なにから手を付けたらいいのだろうか? と言う感じだったが推進室だが、一ヶ月がたってみると想像以上に忙しい毎日だった。

 なにもなく閑散としていたデスクは、書類や資料で埋め尽くされている。田口の隣の空いているデスクからは、気を抜くと雪崩のように書類が落ちてきた。


 嘱託職員しょくたくしょくいんが一人もいないのは痛い。文化課振興係には配属されていなかったが、忙しい部署には大概、雑用をこなしてくれる属託職員がいるはずなのだ。しかし準備しかしていない部署に、余計な職員をおいてくれるつもりはないらしい。


 ——この忙しさだと、嘱託の一人も置いてくれたらいいのに。


 ごちゃごちゃになってきているのは環境だけではない。職員自身も然りだった。

 残業が多く、難解な企画立案に職員の容貌はくたくたになってきているようだ。

 前職である星音堂せいおんどう勤務時代は、きりりとして整っていた安齋も顔色が悪かった。

 かくいう田口も同様だ。残業をしたいわけではないのだが、庁内調整が多い保住はほとんどの時間を会議に費やされている。資料を作っている暇もない彼のために会議で使用する資料を作成を担うのは田口たちだった。


 何事にもメリットデメリットは付き物だ。サブ担当者がいることでうまく進む場合が多い反面、なに事も相談をしてから進めるというスタイルは時間を要した。

 複数の事業を重複して担当しているものだから、なにがなんだかわからくなって一瞬見失う時もある。


「田口、取り込んでいるところ悪いが、おれの企画の相談に乗ってくれ」


 安齋に声をかけられて、ふと顔を上げた。

 この部署では「相談に乗ってくれ」という文言は合言葉のようになってきている。安齋が示した資料はメインイヤーに梅沢市内で開催される音楽祭の企画だった。


「わかった」


 書類作成の手を休め、田口は空いている大堀の席に移動した。


「出演者の選定をしているところなのだが。少し悩んでいる」


「……悩むとは?」


「このリストのメンツを入れるか入れないかだ」


 安齋に渡された書類を眺めていると、ふと彼の視線を感じた。


「なんだ?」


「いや……」


 安齋は「やめようか」という雰囲気だったが、首を横に振ってから、もう一度田口を見つめ返した。


「室長……今日みたいな時は、人の話を聞いていないのだな」


「え?」


 田口は昼間の出来事を思い出した。自分が配慮したあのこと。


「ああ。そうなんだ。上の空の空返事は大概聞いていない。多分ちゃんと目の前に出さないと、意識にも上っていないから、そのまま忘れ去られるだけだ」


「なるほど。いつもあちらこちらに気を使っているタイプなのかと思ったが」


「夢中になるとそのままだ。放っておくと、明日の朝になっても同じ仕事をし続ける」


「それは面白いな」


「周囲がハラハラするものだ」


 微笑を浮かべると、安齋は目を瞬かせる。


「お前」


「え?」


「あんまり表情変わらないけど、よく見るとわかるものだな」


「なに?」


 安齋は愉快そうに頷く。


「なるほど、なるほど。明日からよく観察してみることにしよう」


「やめろ」


「面白いじゃないか」


「おれは面白くないぞ」


「お! そんな怒った口調も出すのか」


「安齋、からかうなよ」


 彼は笑う。


「前回はたった二日の研修で一緒に課題をこなしただけだったからな。同じ部署にいるとまたイメージが変わるものだな」


「それはそうだろう。一日の大半はここで、このメンバーで過ごしているんだし、研修とはわけが違う」


「そうだな。プライベートでの人間関係よりも、か」


「家族の話か」


「おれは一人暮らしだ」


「じゃあ」


 田口はふと言葉を切った後に聞きたいことを続けた。


「お前、恋人いるのか?」


 田口は意外だった。彼から「プライベート」という言葉を聞くとは思ってもみなかったからだった。


「いるように見えるか」


「見えない」


 正直に答えると安齋は笑い出した。


「お前は本当に馬鹿正直」


「それだけが取り柄だ」


「だろうな」


 彼はクツクツといつまでも笑っている。田口の問いに素直に答える気はないのだろう。そう判断したので、仕事の話に戻ることにする。田口は書類を安齋に渡した。


「全て入れたほうがいいと思う。おれだったら入れる」


「そうか。ではそのようにしよう」


「いいのか。おれの意見で」


「室長の好みを重々承知しているのはお前だ。そのお前がそう判断するのだから間違いない」


 安齋はそう頷くが田口は唸るしかない。


「おれの書類なんて添削ばっかりだ。当てにするなよ」


「そうか。おれたちよりは断然少ない。室長に育てられてきたのだろう? お前があの人を一番理解している」


 そういう風に見られているのか。確かに保住に育てられてきた。彼が言いそうなことは、理解しているつもりだ。


「それにしても、わざわざ一緒に連れてくるくらいだ。お前のことは、ずいぶんな可愛がりようだな」


「落ちこぼれだ。心配してくれているのだろう」


「落ちこぼれなんか連れてこられるほど、余裕のある部署ではないがな」


 安齋の言うことは最も。田口は黙り込んでから自席に戻った。



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