第9話 結(ゆい)

 まだ日も昇りきっていない早朝。最近徐々に暑くなってきたとはいえ、まだこの時間は気持ちがいい爽やかな風が吹く。アユムが寝ぼけ眼を擦りながら窓を開けると、そこへ風とともに、どこともなく話し声が聞こえてきた。


 その日は朝から村全体がそわそわと、落ち着かない雰囲気に包まれているようだった。


「今日はとても、大切な日なんです」


 少し眠そうな目をしながら、ユウは嬉しそうにそう言った。一体何が起きるのだろうと横を見れば、すぐ傍には緊張した面持ちをしたサリナがいる。

 アユムたちはどこかへと向かう村人たちの列の先頭集団にいた。前を向けば先頭には長老のルジアが、後ろを向けばぞろぞろと見たこともないような数の村人がいる。

 

 今日は『田植えの日』ということだった。


 田植えならアユムも田舎で祖父が田植え機に乗ってしているのを見たことがあった。

 祖父が独り黙々と大きな機械を動かし、その後を何条もの苗が追うようにして綺麗な列をつくっていたのを覚えている。だがアユムはここに来てからというもの、それらしき機械を見たことはない。

 それに、田植えをするだけなのに続々と村人が集まっているのもおかしな話だ。


 誰も楽しそうに話をしていて、まるで祭りのようだった。


 列はそのうち、とある田んぼに辿り着いた。ぞろぞろと人が集まる中、これから何が始まるのだろうと不思議に思いながら周りを見渡すアユム。すると気のせいか、ちらちらと見られているような気がした。

「あれが噂の」、「稀人」。そんな言葉が会話の端々で聞こえてくる。

 なんだか気味が悪いや。アユムはユウの後ろに隠れるようにしていた。

 

「それではこれより、今年の田植えを執り行う」

  

 そこへルジアの高らかな宣言が響き渡り、村人たちは水を打ったように静まりかえった。


「今年は稀人たるアユムを迎えて初めての田植えとなる」

 

 村人の視線がちらりちらりとアユムに集まる。アユムはびくりと体を強張らせた。一体なんなんだろう。アユムは突然のことに泣きたくなる気持ちを必死でこらえながら、内心ルジアを恨めしく思っていた。


「皆の中には今後を憂うものもおるかもしれん。しかし見ての通り、どこにでもいる普通の子どもじゃ。儂らと何も変わらん。儂らとは知らんことを知っている、ただそれだけの。

 儂はこの出会いが良きものとなることを信じておる」


 それを聞いた村人の反応は様々だ。何でもないことのように笑っているひともいれば、中には顔をしかめ横目でこちらを伺い見るひともいて、ひそひそと何かを話していた。


 周りの視線が怖い。アユムが怯えながら下を向いていると、両手をぎゅっと握る手があった。見上げればそこにはにっこりと笑うユウがいて、隣を見ればそこにはじっとこちらを見つめるサリナがいる。だからアユムは勇気を振り絞って前を向くことができたのだった。


「さぁ儂の話はここまでにしておこう。早くせんと日が暮れてしまうでな。

 田植えを始めよう、いつものように。今年もつつがなく終えられるように、皆の働きを期待しておる」

 

 ルジアの言葉を皮切りに、村人たちはさっきまでの雰囲気が嘘のように慌ただしく行動を起こすのだった。作業を指示する声や、楽しそうに話をする声で田んぼはわっと賑やかだ。


 その田んぼは一見すると、隙間を空けて何列もの芝生が生えているようだった。アユムの拳大ほどの背丈の苗がいくつも密集して、1mほどの幅の芝生をつくっているように見えた。


 切り替えられず呆気にとられるアユムを尻目に、おばさんたちがてきぱきとした動作でその苗を抜き取り、いくつかにまとめて稲ワラで束ねていった。その中でも一際賑やかな方を見れば、レイの母親のマリがいた。


「ほれほれ、ぼさっと見てないで仕事しろ!」


 誰ともわからないおじさんから叱られ、慌てて田んぼに足を踏み入れるアユム。


 ねちょり

 奇妙な感覚に体が震えた。


 それは初めての感触だった。ねちょねちょと柔らかい土に足はずぶずぶと膝まで沈んでいく。田んぼの土は表面は温いのに、沈んでいくほど冷たい土は気持ちよかった。


 思わず「わっ」と声を漏らし顔を輝かせ周りを見れば、皆はそんなこと当たり前のように田んぼの中を進み、手に持った籠に束ねた苗を集めていく。どうやらマリたち母ちゃんが束ねた苗を、集めるのがアユムたち子どもや男の仕事らしかった。


 それならばと、アユムは勢い込んで足を踏み出そうとした。


 べちゃり


 一体何が起きたのかわからなかった。突然視界が失われて息ができない。慌てて両手をついて体を起こせば、自分が転んで体の前面が泥まみれになっていることがわかった。笑い声と一緒に、「大丈夫か」と気遣う声。アユムは恥ずかしさのあまり顔を上げられずにいた。


「何やってんだよ、どんくせぇなだいじょぶか?」


 聞き慣れた声にぱっと振り向けば、そこには呆れたような顔でこちらを見下ろすレイがいた。「レイっ」駆け寄ろうと立ち上がるアユムだったが、土に足をとられふらついてしまう。そこをレイが手をとって支えてくれた。


「とくにここの田んぼの土は軟らかいから、気を付けないとまた転ぶぜ?」


 魔法出された水が水鉄砲のように顔にかかり、顔が洗われていく。目をつむり顔を仰け反らせ必死に息をしながらあっぷあっぷと顔を拭った。


 その後、アユムはレイに注意されながら束ねた苗を集めていった。田んぼの土は慣れれば何とか歩けるようになった。だけど苗が意外と重くて、籠いっぱいになると持っているだけで体がふらふらとして何度も転びそうになる。それだけは慣れそうになかった。

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