火葬場のインクバス

木古おうみ

第1話

 火のついた煙草の先端は、火葬場の焼却炉と同じ温度になる。



 そう言ったのは、一ヶ月前までフロントマンとして働いていたシティホテルの上司だったか。

 息子の悪い知らせを聞きたくないというように、俺が失業する二日前に脳溢血で倒れた母の見舞いに来た親戚だったか。


 別段意味のある警句ではなかった。


 病院で言うにしては縁起の悪い例えだから、職場の人間が言ったことかもしれない。

 自分がそれに何と返したかも覚えていない。たぶん何も言わなかった。



 背後でノックの音がして、振り返ると磨りガラスに滲んだ肌色が見える。


「青井さん、それ吸い終わったらこっち来てね」

 くぐもった声にはいとだけ答えて、煙を長く吐き出すと、冷たくなった空気が肺に流れ込んでくる。


 俺は休憩所のスタンド式灰皿に煙草を投げ込んで、事務所の扉を押した。



 ***


 どろりとした西日が射し込んで、冷たい廊下が燃えているように見えた。


 暖房で温まった空気は、安い芳香剤の薔薇の香りと、それに混じってかすかに尿のにおいがする。


「ここが利用者さんのいるフロアで、青井さんが見回りしてもらうところね。休憩は自由に取ってもいいですけど、呼び出しがあるといけないからこの階にいてほしいの」


 介護士の大川という女が、前を歩きながら作ったように明るい声で言う。



 俺が今日から夜勤スタッフとして入るこの施設は、特別養護施設というらしい。料金が特別に安く、金のない老人たちが最後に行き着く場所だ。

 利用者が寝静まった深夜の巡回だけであれば、俺のように資格も人間でも使うらしい。


「この先が二階と一階に繋がる階段です。一階はデイサービスって言って、日中だけここに来る方々が使うところと、受付。ときどき夜になると出て行こうとする方がいるんですけれど、ロックがかかってますから」


 大川の指した扉は木板を模して軽そうに見えるが、不釣り合いに堅牢なパスワード式の鍵がついていて、研究所か何がのように見える。


「パスワードは三、七、四、五。いい老後で一一六五だとすぐわかっちゃいますから」


 三七四五––––みな死後。そんなはずはないのだが、思わず想像したのを読み取ったのように大川が言う。

「みな良い子って覚えてくださいね」



 黄ばんだ壁に、折り紙で折った紅葉やイチョウ、『十一月二十四日はお茶会』と書かれたカレンダーが貼られていて、老人ホームというより保育園のようだと思う。


「青井さんは前も接客業だったんでしょ。じゃあ心配いりませんよ。ひと対ひとのお仕事ですから、ね」


 そう言って、大川が一瞬俺の方を振り返る。

 その目にはわずかに不安が混じっていた。



 離職率も高いこの業界で、申し訳程度の研修を終えて就業一日目、すでに職場の喫煙所を使って暗い顔で煙草を吸っている二十四の男が何日保つのかと訝しんでいるのだろうか。


 やる気溢れる新入りを装う気にもなれず、首肯だけ返す。


「ホテルマンだから夜勤も慣れてるんでしたっけ。助かるわ、この歳だと、もうね、身体が保たないから……」


 木目を模した塗装のドアで隔てられた部屋から、いびきとも呻きともつかない声が響いていた。

 一晩中ああなのだろうか。


「仮眠は一応とれるんでしょう」


 振り返らない大川の代わりに、腰の辺りで解けそうなエプロンの紐が否定を示すように揺れた。


「ありますけどね。あんなの、寝られませんよ……」

 先ほどまでの明るさを塗り潰すような疲労が滲んだ声が、やけに耳に残った。



 ***



 一時間に一度の巡回を終えて、事務室に入る。

 驚くほど何も起こらない。



 十時の巡回のとき、滝田というひどいリュウマチの老婆がトイレに行くと目覚めたので介助したが、辿り着くまでに手を添えた程度だ。

 シミの浮いた手の皮が薄く、骨が突き破りそうだと思った。



 暖房が空気をかき混ぜる音が響く事務室で、椅子に腰掛け、大川に言われた注意人物のメモを見返す。


『菊池さん 深夜にせん妄を起こし、家に帰ろうとすることがある。転倒に注意』

『長崎さん 日によってブザーを何度も鳴らす。寝るまで話し相手になってほしいだけ』……。

 誰も何も起こさず、静かなものだ。



 俺の祖母の方がよほど酷かった。


 晩年、食欲はありあまっていたのに、ひどく痩せた。

 物を口に入れ、噛むことまでは覚えている。だが、飲み込む行為がわからずに、すべて吐き出してしまうのだ。

 賽の河原の石積みのような食事だと思った。



 仕事を辞める直前に訪れた病院で見た、ベッドの上の母は祖母の生き写しだった。



 携帯を取り出し、父に送った母の容態に関してのメッセージに返信がないか確認する。

 俺が送信してすぐに返事が来ていた。


「相変わらず。意識は戻らない」


 母が倒れてから毎日同じ文面。


 仕事帰ると見舞いには行っているようだが、形だけのものだろう。ベッドの横で携帯のパズルゲームか何かをして帰るだけ。


 集中治療室の前で緊急手術が終わるのを待っているときですらそうだった。

 首を曲げて、指先だけ素早く動かしながらパズルを解く父を見て、母は引きこもりの学生のようだとよく言った。

 形だけの夫婦だ。



 零時になれば仮眠に入っていいらしい。

 その前にもう一度煙草を吸おうと思ったが、箱が見当たらなかった。


 施設のスタッフの制服にはポケットがない。


 利用者に盗難を疑われたり、介助の際指を引っ掛けてケガをさせかねないからだ。

 だから、煙草はジーンズのポケットにねじ込んだはずだが、どこかで落としたのだろう。


 舌打ちすると、湿った音が真空のように静まりかえった部屋にやけに響く。


 俺は事務室を出た。



 極限まで明度を絞った暗い廊下に等間隔で並んだ電球が、床にオレンジの波紋のような模様を作っていた。


 脱走防止のため高い位置にある窓に、街の夜光が反射していた。


 向かいの雑居ビルには、古くさいスナックやパブ、一回の社交ダンス教室の看板が並ぶ。

 目を凝らすと、街の外れの小高い場所にある火葬場の煙突が針のように細く突き出してるのが見える。


 死の気配も、俗にまみれた生も混ざり合って映り、老人ホームには向かない立地だと思った。


 ふと、廊下の端の角部屋、二〇一号室の扉をくり抜いたガラスの部分に、電球より小さくだが鮮烈な光が灯っているのに気づいて足を止めた。

 小型のライトか何か持っているのだろうか。



 近づくが、ガラスが曇って中が見渡しづらい。


 白いもやがゆっくりと対流のように動き、汚れではなく煙が充満しているのだと気づいた瞬間、その中央に人影が見えた。


 俺は息を呑んだ。


 老人ではない。

 しっかりと背筋を伸ばして立っている。こちらに背を向けていて顔は見えないが、後ろ姿でも若い男だとわかる。


 少し癖のある黒い髪が輪郭を隠している。古風な三揃いで細身のスーツのジャケットにはダーツも絞りもない。


 男の肩が微かに揺れるたび、赤い火花のような光が一瞬煌めく。

 煙草の火だ。


 影が揺れ、男がこちらに顔を向けた。


 重たげな睫毛が開いて、黒い水の表面のような眼が真っ直ぐに俺を見る。



 男は煙草を持った手を下ろすと、もう片方の手を唇の前にやって、人差し指を立て、暗がりでもしっかりとわかるように笑ってみせた。

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