酒飲と死神

糸賀 太(いとが ふとし)

酒飲と死神

 酔漢は陶製の酒瓶を抱きしめながら歩いていた。不老不死の霊薬を作れずじまいにおわったが、男の足取りは羽毛のように軽かった。

 酒が腹の中から手足の隅々に至るまで温めていた。四方にあふれる清々しい寒さはおろか、月のない夜に星々が放つ冷たい光も、酔いの境地から男を呼び戻すことはできなかった。二つ目の瓶を空にした頃からつきまとってくる拍動の正体は、酒精に鞭打たれて働く心臓の鼓動か、天に輝く宝石の光を伝える霊気の振動か。

 月の出ない夜もまた一興。片足を軸にして、もう片方の足で足元の小石を蹴り上げながら、くるりと振り向き、酒瓶を両手で夜空へと投げ上げる。空になった手の先には天の川。瓶底に残った数滴の美酒では、紅玉、青玉、蛋白石、金剛石の並ぶ博覧会への入場料に不足だろうか。

 回転画が半周したところで、宙を舞う器と、地に立つ白馬が見えた。酩酊の見せた幻覚か、現実の光景か。白馬に乗り手はいたか、いなかったか。分からぬままに一周したところで酒瓶が割れる音が聞こえた、それに声も。

「おまえもこうなるのだ」

 聞こえてきたのは、はるか昔に塵と化した己が目や耳を、壺作りのなすがままにこね回された王侯の声か。予期せぬ旅の道連れが閃いた即興劇か。

 足元をふらつかせながらもう半周りして、両足で地面を踏みしめると、酔漢は後ろの人物に向き合った。


 乗り手が酔漢の後を静かにつけていた。その容姿は、影絵の騎士を模写して、馬の部分だけを白く塗りつぶしたようだった。

 騎手の衣の黒いことと言ったら、星明りを全て吸い込んで、動きに合わせて彫り上げられているはずの衣のひだが、何処にあるのか分からないほどだ。長衣の内側もまた覗い知れず、くぐってきた歳月を皺として刻む顔があるのかすら分からない。夜寒は、この者たちに白い息を添えて、彩れないことを知っていた。

 鞍にまたがったまま、懐にいれた石版をなぞって、表面につけたかすかな刻み目を数える。まだ仕事は始まったばかりだ。

 前を行く男が不意に体を翻すなり、両手から何かを後ろへ放り上げた。陶器が乗り手の頭巾をかすめ、岩の面で鈍い音を立てて砕けると、ほんの僅かに赤ワインの香りが立ちのぼった。

 大小の陶片を見た刹那、騎手のなかに妙案が生まれた。

「おまえもこうなるのだ」

 光を反射しない黒い長衣の中にいるものが、人間の腹から出たとは思えない声音で器の断末魔を代弁した。夜の静寂を打ち破る一撃が、投擲の勢いで一回りしたばかりの男の背中を打ち据えた。

 獲物が覚束ない足取りでさらに半回転するさまを、じっと見つめる。波動が背中から左胸の奥へと入り込み、血潮を送り出したばかりの心臓をしかと掴んで、まもなく彼奴は地に崩折れるはず、だった。

「旦那、なにか言いましたかい?」

 相手は二本の足で大地を踏みしめていた。酔っ払いが胴間声を上げて問いを発すると、奈落の底でも嗅いだことが無いほどの悪臭が漂ってくる。手を左右に振って返事をするついでに、新鮮な空気を確保する。呼吸はないのに、嗅覚はあるのが恨めしい。

「じゃあ空耳だ。旦那も一杯どうです?」

 騎手は黙って手綱を操り、来た道を戻り始めた。速足で酒臭い息から逃げつつ、石版の感触をもう一度確かめた。傷のない面はたくさん残っている。この一人にだけ執心することはない。

 真夜中の星々が、天頂に登っていた。


 酔漢は旅を続けている。行く先々の土地で酒を飲み、景色を眺め、歌を口ずさみ、詩を書き付けた。五感の全てを働かせて世界を楽しんだ。

 ときには、同じ趣味を持つ友と大いに語り、笑いあい、別れ、旅を続けた。砂漠の天文台では、花と鳥の言葉を愛でながら学者と天体の運行について論じあった。海と見紛う大河では、船を浮かべて、音楽と美酒を楽しみながら詩人と技を競い合った。酒の香りに誘われるがまま、琥珀色に輝く抜け道を歩み、あらゆる土地に足を運んだ。

 黒い騎手もまた旅を続けている。火の中であれ、水の中であれ、幽明の境を通じてあらゆる場所を訪れては、定められた量をこなした。ただ石版の刻み目だけが、関心事だった。

 同業者とは縄張りを分けた、孤独な仕事だった。隊商に行きあったときには、荷馬を驚かせて、帳簿に夢中になっている不注意な商人を後ろ足で蹴飛ばさせた。戦利品の山を囲む盗賊団のときには、声色を使って不和を煽り立て、分前を巡る争いで剣が血を吸うように仕向けた。こうして、一本、また一本と、鋼の筆で石版に刻み目を増やしていった。

 乗り手は、出来ることなら自らの手で酔漢に引導を渡したかった。残念ながら、盟約が統計を不自然にする行為を禁じている。条文を詳らかに読み解けば、縛るのはただ一騎だけで、他の三騎の行動は何一つ制約を受けないことがわかる。だからといって、叛旗を翻したところで、何を変えられるというのだろうか。


 街道にぽつんと建っている宿駅を、月光が照らし出していた。篝火が羽虫を吸い寄せるように、旅籠は窓から灯火をちらつかせて、旅人たちを刺激と平穏が同居する懐へと誘っていた。

 商人たちは、飢えと渇きを癒やすために群れをなして戸口をくぐりぬけた。無頼者たちもまた、カモと賞金首を求めて年季の入った扉を押し開けた。ひとり、またひとりと、客は増えていった。

 宿の外には、寝顔が三つあった。疲れ切った体に酒を流し込んで陽気になって、屋外に繰り出し、月光の下で踊り狂った挙げ句に、温かく柔らかな寝床と冷たく硬い大地の区別もつかなくなった者たちだ。天と地が、この者たちの熱を吸い尽くして、眠りの壁の向こうへ送り出すときは遠くない。

 厩番がひとり、震えをこらえながら、新しい客の相棒を小屋へ引いていた。他の馬を相手にするときと違って鼻息を感じられないのは、相手が大して疲れていないからであり、あの客が影絵のように立体感を全く欠いて見えるのは、光の加減で偶然そうなっただけにすぎないと、自分に言い聞かせていた。

 合理化という避難所に厩番が逃げおおせたころ、乗り手は地に横たわるものたちの寝顔をじっと見下ろして、石版に二本の横線と、一本の縦線を刻んだ。

 翌朝になれば、宿の主人は銅貨一枚の値打ちにもならぬ仕事が増えたことに、大きな溜息をつくかもしれないが、それはお互い様というものだ。溜息をつけることを、羨ましいとも思う。

 旅籠の扉を押し開けると、よどんで酒臭い空気と数ヶ国語の喧騒が一斉に押し寄せてきた。かちゃかちゃと武具の触れ合う音や、どすんとしろめの杯を机に叩きつける音が、酔客たちの談話に助奏を加えていた。ある卓では商人たちが、ワインを注ぎあいながら成功を祝い、別の卓では、賭博師たちが金貨の山を築いては賽を振り出していた。

 奥のほうで、なにごとか口論していた二人組が、芳しい蒸留酒の注がれた杯をなぎ払いながら立ち上がると、腰の得物に手をかけながら裏口へと歩いていった。裏口の扉が閉まるのを見届けて、影絵のような新参の客は石版に二本の横線を刻んだ。向こう脛に杯を食らった給仕が、片足をさすりながら呪いの言葉を吐いていた。

「旦那、また会いましたなあ。旅の友と再会できるなんて、めったにないことですよ」

 一度会えば、それが最後、そのはずだったのだ。

 あの顔を紅潮させているのは、火壺のなかで白熱する石炭か、人間の喉を焼く琥珀色の酒か、あるいはその両方か。返事がないことを気にした様子もなく、新しい瓶を開けて当然のように差し出してくる。

 ありとあらゆる酒器を打ち砕き、全ての酒を大地に吸わせてしまえば、彼奴も悲しみの淵から身を投げ出すのだろうか。いや、それでは労力に見合った結果を上げられまい。酒がこの世にはびこるままにしておいたほうが、好都合ではないか。

 乗り手は黙って扉を閉めると、以前と同じように、来た道を戻り始めた。

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