電車で出会った彼女は学校の人気者
くろすく
第1話 ある日のこと。
ある日のこと。
高校への通学のために電車に乗っていた僕はいつもと同じようにゲーム機を持ち、満員電車の中でどうにかこうにかバランスを取りながらレベル上げに勤んでいた。
日本で国民的な人気を持つこのゲームは、ドラゴンなんて主人公とは何も関係がないのにその名を冠しているゲームとして有名だ。
世界の崩壊を求める魔王を勇者が倒して世界を救うハッピーエンドな物語。
プレイヤーは勇者になって、旅をして人々を救いながら物語の終結に向けて冒険するのだ。
とは言っても、最初から勇者だったり、気づいたら勇者ってことにされていたりシリーズによってはちょっと変わるんだけども。
極論を言ってしまえばただレベルを上げて強くなって強敵を倒していくゲームなのだけれど、これがなかなかにおもしろい。
このゲームのシリーズが初めて発売された頃は街に行列ができて、ちょっとした騒動になるほどだったらしい。
僕はその時はまだ産まれてもいないから、聞いた話になるわけだけども。
昨日の夜更かしの眠気を堪えながらレベル上げに勤しんでいると、電車が動きを止める。
『うわら〜うわら〜。お出口は右側です』
くぐもっているような男の声の電車のアナウンスと共にわらわらと競うようにして電車を降りていく社会人風の人たち。
そしてその人たちが降り終わるか終わらないかくらいのところで、ホームでスタンバイしていた新たな社会人風の人たちが乗り込んでくる。
ゲームの銃のリロードもこんな風にバラバラと出てみるみる充填していくのだとしたらどんなにラクなことだろうか。
人の出入りで一瞬入れ替えられた新鮮な空気を肺の中に押し込んで、再び人の熱気に包まれた電車で居心地の良い場所を探す。
こんな満員電車の中で居心地が良いも悪いもないかもしれないけれど、バランスが取れないことにはゲームもままならない。
「…っと」
電車が動き出した拍子に、僕は人の海の中をかき分けるようにして移動する。僕の行動に眉を
ぎゅうぎゅうに詰め込まれた人の間をするりと通って比較的ラクそうな位置へと移動した瞬間、僕の鼻を花のような爽やかでいて気品のある香りがふわりと撫でた。
香水とは違い、その人からするほんのり香るような。けれど確かに感じる香り。
その香りを辿って目線を下にやると、黒髪に美しく弧を描いて光を反射する天使の輪が目に入る。
僕と同じ学校の制服に、指定の鞄を両手で持った彼女は、少し居心地が悪そうに満員電車の中で立っていた。
まるで彼女が居る所の周辺だけ汚れが浄化されているような感覚に陥る。
けれど、僕は彼女のことを目に入れた瞬間に後悔した。なにを隠そう、目の前にいるこの彼女は学校でも知らない人がいないほどの有名人。僕でも知っている。
学校の人気者とこんなに近い距離でいたら後で何を言われるかわからない。
僕はわかっているような厄介事に無闇に頭を突っ込むタイプではないのだ。
僕が彼女からゆっくりと距離を取ろうとしたところで、電車が揺れる。そうだ、ここはカーブがあったんだ。
遠心力によって押し付けられる彼女の柔らかそうな身体をぎりぎりゲーム機でガードする。
本来の用途とは違うけれど、こんなところでゲーム機が役に立つとは思わなかった。
大丈夫。直に触っていないからセーフだ。
これだからゲームはやめられないんだよね。…できれば本来の用途で使ってあげたかったけどね。
自分でもよくわからないところでゲームに感謝していると、ふと視界の端で彼女からの視線を捉えた。
じとり、というわけではなくただ見られている。捉えようによっては観察されているといってもいいかもしれない。
一体僕の何にそんなに興味を持ったのかはわからないけれど、こんな満員電車の中で見ていられるのが僕の顔だなんて彼女もかわいそうなものだ。
多分僕が着ている制服が彼女と同じ制服だから見ていて、こんな人いたかなあとか思ってるんだろうな。同じクラスではないけど、一応同じ学校にはいるんです。
僕は声が出ないように静かに深呼吸をして、再びレベル上げに気持ちを集中させる。
ゲームができる時間は一日に二十四時間しかないんだ。こんなところで時間を無駄にしてなるものか。
そう思いモンスターから経験値を獲得するルーティンを再開する。
やることは脳死状態でフィールドを駆け回ってただボタンを押して攻撃をするだけ。
代わり映えのしない単調な作業。これがどうしてか楽しいと思えてしまう。
時間をかけてレベルを上げるのも、能力を上げるのも僕は嫌いじゃない。
ゲームなんて時間の無駄だと言う人もいるけれど、僕はそうは思わない。
現実を忘れて空想に没頭する。娯楽は現実をより良く過ごすための道具なのだ。
現実でできないこともゲームの中ではできる。
ゲームをやらない人であっても、休日にどこか出かけるだとか、小説を読むだとか、流行りのキャンプをするだとかあると思う。
結局はゲームもそれと一緒で、楽しんだり気分転換をしたりするためにやっているのだ。
レベルを上げながらそんなくだらない思考をしていると、くいっと制服を引っ張られる感覚が僕を現実に引き戻す。
制服を引っ張った犯人は考えるまでもなく、目の前にいる学校の人気者である
学校中の男子の告白をごめんなさいと一刀両断していく彼女は、大多数には好かれているけれど、一部には嫌われている。もちろん完全な逆恨みだ。
清廉潔白を地でいくような彼女に恨みを持っている人なんて、単に彼女に振られた男か、彼女のせいということで男に振られた女か、それか単純に有名人は嫌いな人かくらいじゃないだろうか。
ちなみに僕は特になんとも思っていない。僕が関わりを持つだなんて考えすらしなかったからね。
一体全体、どうして彼女のような人が僕のような日陰者に構ってくるのだろうか。
その真意を掴むべく彼女を見ると、その顔は少し青ざめているようだった。
血の気が引いていて、それでいて何かに怯えているかのようにかすかに身体を震わせている。
それを見て少し驚き、視線を徐々に下に移動させていく。決して他意はない。何があったのかを確認しないことには判断が付かないからだ。
頭から順に、艶やかで滑らかなまるで極上の絹の糸のような黒髪、陽の光を集めたような綺麗な瞳に顔を彩るように飾り付けている小ぶりな鼻。つやつやと光り周りを魅了して止まない唇に真っ白くてかじりつきたくなるような首筋。
そして形がいいとわかるようなちょうど良いサイズ感の胸に細いウエスト。問題はその下だ。具体的に言うとスカート、お尻の部分。
浅黒くて毛むくじゃらの汚い手が見える。
「はぁ…」
小さくため息をつく。
まるで美術品に落書きが書いてあるのを見つけたかのような気分だ。
楽しかった瞬間に水をさされるあの瞬間。
僕で言えばゲームをしている時に急に頼まれる用事であったりがそれにあたる。特に姉から受けることが多い。
これが満員電車の悪いところだ。
僕みたいに、男は正直なところ電車が動いているのをただ乗って暑苦しいのを我慢して揺られながらぼーっと移動すれば良いだけだけど、女の人は違う。
乗るだけでなく自分の身を守ることにも神経を注がなくてはいけない。
まあ、それというのもこんな風に痴漢をするような馬鹿な人がいるからであるけども。
僕は黙って毛むくじゃらの汚い手の、イモムシのように太い指を一本掴む。
うわ、ねちゃっていった(気がする)。
掴まれたイモムシは動揺して逃げようとするけれど、僕はそれを許さずに
クキッと小気味の良い音が聞こえて、そしてそれと同時に気分の悪くなるような
呻き声が抑えられているのは恐らくバレたらまずいと自分でやっていてわかっているからだろう。
そんな僕の行動を彼女は驚いた顔で見ていた。そして信じられないような顔で僕を見ていたので、にこりと笑って彼女を少しだけ引き寄せる。
もちろん身体同士が触れないように僕は自分の鞄を間に挟んでいる。僕まで訴えられたらたまらないからね。
引き寄せた彼女の顔色はさっきよりも赤みがさしていて、良い意味で身体に余計に入っていた力が抜けたような気がする。
イモムシの持ち主は、彼女のことを恨みのこもった目で見ていたので、どうやら彼女がやったのだと勘違いをしているようだ。
彼女が自分からお前みたいな汚いイモムシなんて触るはずがないというのに。
勘違いで彼女が報復されるのもかわいそうなので、僕が自白しておこう。
「ああ、すみません。イモムシかと思って潰してしまいました。大丈夫ですか?」
彼女のことを恨みがましく見つめていた男は僕と目があった瞬間に、何か恐ろしいものを見たような顔をして慌てて目をそらした。
そんなに僕の顔が醜いのかな?
毎日鏡で見ているけれど、そんな変わったものでもないと思っている。どこからどう見ても普通の男子高校生だろう。少し天然パーマが入っているけれど。なんだ、天パを馬鹿にしたら許さないぞ。
僕は心外だと思いながら、彼女と身体の位置を無理やり入れ替えて、男から視線を外してゲームを再開する。
気づけば、勇者とその仲間たちはかなりレベルが上がっていて、次のボスは余裕で勝てそうだ。
レベル上げのゲームでは、自分が納得するまでレベルを上げて、それからボスに挑んで無双する。
これが僕のプレイスタイル。
もちろんギリギリを攻める人もいるし、僕も見る分にはそういうのは好きだ。
でも自分ではやろうと思わないだけ。だって負けたくないしね。
僕の一日の中でちょっと変わったイベントが起きたそんな日であっても、変わらず電車は速度を緩めて目的の駅へと到着した。
『あみば〜あみば〜。お出口は右側です』
流石に歩いている途中、しかも電車の乗り降りでゲームをやっていたら邪魔になるし、ゲーム機を落としたら僕は絶望する。
頑張って寝る間も惜しんで上げたレベルが真っ白になる。そこまで費やした時間が無に帰す感覚は味わいたくないものだ。セーブ機能を作った人は偉大だね。
中断セーブをし、スリープモードにしてそっと鞄にしまう。
その拍子に彼女の身体に僕の手が触れてしまう。まずい。
これは通報されても文句は言えない。
なぜなら僕の手が当たってしまったのは彼女の胸の部分だったから。
柔らかかったです。とかそんな冗談は口が裂けても言えない。冗談ではないのだけれども。
僕の人生はここで終わりだ。父さん、母さん。あとついでに姉さん。今までありがとう。迷惑をかけてごめんなさい。
死んだら灰は海に撒いてください。
一瞬でそこまで考えたけれど、不思議と彼女は何も言ってこない。
おそるおそる彼女を見ると、彼女は少し頬を赤く染め、僕をじっと見ていた。
そしてふわりと漂っていた甘い花のような香りがぐっと強くなる。
彼女が僕に身を寄せたからだと気付いたのは、彼女が電車を先に降りて行ってしまった後ろ姿を確認してから。
『ありがとう』
耳に残ったやけに艶やかな囁きと、鼻に残る彼女の残り香が僕を支配する。
僕はぼーっと彼女の後ろ姿を見送る。その間に無情にも機械的に電車のドアが閉まる。
あ。
後悔しても遅く、電車は速度を上げて次の駅へと向かっていく。
小学校から無遅刻無欠席を続けていた僕だったが、その日初めて遅刻をした。
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