血は甘く、恋はほろ苦い

詩希 彩

血は甘く、恋はほろ苦い

 夢を見たことがある。素敵な夢。王子さまの夢。

 白馬には乗っていなかったし、冠も被っていなかった。それに、大人のお姉さんだったけれど、それでもあたしにとっては本物の王子さまに思えた。

 あたしよりずぅっと背が高くて、透き通った声をしていて、凛々しい顔付きと態度。あたしが持っていないものを持っていた。

 でも、それを妬んだり、羨んだりはしなかった。ただただ、眩しくて、その腕で抱き締めて欲しいと願った。

 そんな、あたしの一夜の夢の話。


 塾の帰り道。その夜は十二月だというのに雨が降っていた。しかも土砂降り。今日も遅くまで塾に残ってしごかれて体がくたくたなのに、心まで鬱陶しくなる。からっとした晴れ空、肌を灼く夏の太陽が恋しい。でも、そんなの知ったことではないとばかりに大粒の雨は空から叩き付けてきて、身も心も圧し潰そうとしてくる。

 はぁ、と温い溜め息を吐いた。

 もう、中学二年生の冬。来年には受験生になるというのに、勉強した内容がてんで頭に入らない。特に数学。全然だめ。数字は無機質で冷たくて嫌い。数式の並びを見た途端に頭がぐしゃぐしゃになって、思考が停止してしまう。

 あたしの小さな脳みそはまるで壊れたゲーム機と同じだ。起動する度にセーブデータが消し飛んでいて、前回のプレイで得た経験値もアイテムも何もかも無かったことになっている。そんな調子じゃ志望校に受からないぞ、なんて塾の先生に頻繁に言われるけれど、そんなことはあたしが一番分かっている。分かってはいるけれど、あたしは所詮、無力でちっぽけな少女に過ぎないから、心が挫けてしまいそうになる。

 でも、あたしには心の支えがあった。何も持たないあたしに、細やかな夢を与えてくれたママの言葉。

 このようなネガティブな気分の時には、決まってママが聞かせてくれた話を思い出す。あたしが幼い頃に病気で死んでしまったパパの話。パパはあたしが二歳の頃に病気で死んでしまって、それから今現在まで、ママはあたしを女手一つで育て上げてくれた。

 ちょうど中学に上がった時くらいに、ママにどうして再婚しないのか聞いたことがある。なんだか聞きにくい質問だなぁ、とは思ったけれど、それでも聞かずにはいられなかった。あたしの目には、ママはいつでも恋する十代の少女のように見えていて、それが不思議だったから。あたしが聞くと、ママは瞳を輝かせながら、パパの話をしてくれた。パパはママにとって初恋の相手で、運命の人だったということ。今でも二人は運命の赤い糸で結ばれているって信じていること。時々夢の中でパパが会いに来てくれるみたいで、そのおかげで寂しさを感じたことは無いということ。

 絵本を読み聞かせるように、抑揚をつけて語るママを見て、あたしは眩しいなぁ、と感じると同時に、羨ましいとも感じていた。そして恋はあたしにとって特別なものになった。

 いつかあたしも、素敵な王子さまと運命的な恋をしてみたいな……。

 ママは言っていた。

 「運命の相手は、探して見つかるようなものじゃあないの。近道なんて無い。ある日突然あなたの目の前に現れるものだから、それまで心を澄ましてじっと待ちなさい。アヤの心が純粋な乙女のままなら、きっと出逢えるわ。大丈夫。アヤは私の娘なんだから、いつの日か絶対に出逢えるはずよ」

 心に刻んだママの教え。この教えに倣って、純粋無垢な乙女でありたいとは思っているけれど、なかなか上手くはいかない。あたしは漫画やゲームに夢中な今時の子供だし、男子と喧嘩だってする。今のあたしの心は、ママの水晶の心のように澄んでいないと思う。それでも、いつの日か宝石のように輝いて、王子さまと出逢わせてくれると信じている。あたしだけの、素敵な王子さまに。

 まだ見ぬ王子さまに思いを馳せていると、滝のように降り注ぐ雨も気にならなくなってきた。物事は何でも心の在り方次第なんだなぁ、と感心していると、電柱の影に何かが棄てられていることに気付いた。それもハイキング用のリュックサックくらいの大きさ。態々そんなものに注目したのは、それが時々もじもじと蠢いていたからだ。そのミステリアスな物体の正体が気になって近付いてみると、それはか細い呻き声を出しながら震えていた。

 「あっ……」

 あたしは驚いてのけぞり、足を縺れさせてそのまま尻餅をついてしまった。痛みでお尻はひりつくし、喉まで出掛かっていた悲鳴も引っ込んでしまった。

 そこには、女の人が捨てられていた。

 水溜まりが疎らにある道端。その中で一際目立つ水溜まりが一つ。水溜まりは赤く濁っていて、むせるような濃厚な血の臭いと凍雨の冷やかな湿った臭いの混ざり合って不快な臭いが生まれていた。生々しい死の気配に、恐怖と共に吐き気がせり上がってくる。

 水溜まりの中心に、小麦色の肌をした女の人が横たわっていた。瞳を閉じて、鼠色の髪を血溜まりに浸した彼女は、本来ならば夢物語や御伽話に出てくるお姫様のような完璧な姿形をしていたのだろうけど、その体には痛ましい生傷がいくつも刻まれていた。傷口からは血がもう殆ど出ていなくて、血がかなり失われていることが分かる。

 まだ生きていることが不思議だったけれど、その女の子は弱弱しくも呼吸をしていた。女の子が生きていることに気付いたあたしは、慌てて立ち上がって、彼女に駆け寄った。怖かったけれど、不思議な使命感があたしの体を動かしていた。

 そのとき、辛うじて呼吸をしているだけの人形のようだったお姉さんが突然、瞳を見開いた。

 ガーネットのような輝きを放つ大きな瞳のお姉さんは、体を重そうに起こそうとして、あたしを見た。睨んだ、と言った方が近いかも。威嚇をする大きな猛獣のような、深くて鋭い瞳。

 尻餅をついたあたしの、きょとんとした表情を見て、この生物は無害だと感じたのか、緊張を解き、次いで苦しげに顔を歪めた。

 「だ、大丈夫……?」

 「…………さぁ、どうだろうね」

 「どうでしょう、って」

 「血を、分けてくれないか」

 ミステリアスなお姉さんは、あたしの言葉を遮ってそう言った。その声は不安やら疲労やら色々な良くないものによって震えていた。体の方も同じで、彼女は今すぐにでも倒れてしまいそうだった。

 「血を、どうすればいいの……?」

 どうしてか、あたしはそんな質問をしている。

 血にまみれた生傷だらけの人間が眼前にいるというのに、不思議と恐怖は感じていなかった。それはあたしが日頃ゲームや漫画ばかりに触れてきたからではないと思う。きっと、目の前の彼女があんまり美しいものだから、恐怖心も彼女に見惚れて機能していないんだ。

 「吸わせて、欲しいんだ……ほんの少しで構わないから……私、私は……」

 ヴァンパイアなんだ。

 ヴァンパイア。吸血鬼。血を吸い、蝙蝠に変化し、人の心を見透かすとかいう永い永い夜を歩く不死の魔。目の前の少女がそのヴァンパイアだとかいうファンタジーな種族で、どうしてもあたしの血を吸いたいのだと言う。普段なら、下手っぴな冗談だと笑い飛ばしていたところだけれど、傷だらけの彼女の懇願するような瞳を見ても同じことが言えるほど、あたしも今の状況を理解していない訳でもなかった。

 「いいよ、好きなだけ吸って」

 「えっ」

 気が付けば、すんなりと了承していた。

 周りに他に人はいなくて、あたしと彼女だけ。刃物か何かで深く抉られたような傷をいくつも受けている体を見れば、彼女が普通の人間ではないであろうことは誰だって直感出来る。それでも、このまま見て見ぬふりなんて出来ないし、もう十分過ぎるほどにあたしは踏み込んでしまっていた。引き返すことなんて出来ない。

 あたしが、助けなくちゃ……。

 「本当に、良いのかい」

 「いいの。これも何かの運命の導きだろうし、ここであなたを見捨てたら、あたしの心が汚れちゃうから」

 なおも不安そうな声で聞くお姉さんに、あたしは安心させるように自信を持って言う。もしかしたら、ここで彼女に殺されてしまうかも、なんてことを考えなかったわけじゃない。それでも、あたしは自分の心を、夢を裏切るわけにはいけないのだ。あたしと王子さまを繋いでくれる、水晶のように澄んだ心。

 「……分かった。では一つだけ、君の願いを叶えてあげるよ。せめてものお礼だ」

 彼女は安堵したように頬を緩めて、あたしに言った。願いを叶えるだなんて、そんな、神様じゃあないんだから。でも、彼女の瞳は相変わらず真剣そのもので、あたしは急いで願い事を考えることにした。そうは言っても、あたしの願う事は最初から決まっているけれど。

 「あたしに、王子さまの夢を見せて。白馬に乗っていなくたって、冠も被っていなくたって構わないから。あたしだけの王子さまと運命の出逢いをして、恋をするの。それでね、毎朝同じベッドで顔を合わせて、日が暮れるまで他愛のない話をしたり、寄り添って昼寝をしたりする。そんな幸せな夢を、あたしに見せて欲しいの……」

 今まで誰にも話したことが無かった夢を、初めて会ったミステリアスな吸血鬼のお姉さんに聞かせている。不思議な気分だった。パパの話をあたしに語って聞かせている時のママも、今のあたしと同じような気分だったのかも。

 「……分かった」

 彼女はふらつきながら、あたしの肩にそっと手を置いた。

 あたしは彼女が咬みやすいよう、首を傾げて首筋を剥き出しにしてあげた。

 それにしても、願い事を叶えてくれるのは、いつなのだろう。それとも、願い事を叶えるというのは嘘で、この人は血を吸う前に毎度この質問をするのだろうか。あたしの中に小さな疑念が生まれた。

 「……スカーレット。それが私の名前。息を吐いて、リラックスして……そう、偉いね」

 彼女は、あたしの首筋に犬歯の先を当てる直前に、舌先を這わせて動脈の位置を探りながら、静かに囁いた。そしてスカーレットさんは、あたしの返事を待たないうちに犬歯を突き立てた。柔くなった首筋には鋭い牙が容易に入り込み、あたしは瞬間激しい痛みに襲われた。しかし、その痛みはすぐに和らいで、次第に首筋から心地良い痺れが広がっていく。スカーレットさんは舌先に迸る血液を味わうように嚥下しながら、あたしの小さな体を強く抱き締めた。吸血鬼は死人のような冷たい肌をしていると聞いていたけれど、あたしを抱くスカーレットさんの肌は優しい温もりに溢れていた。

 「あ、あたし……アヤ、四季彩っていうの……」

 スカーレットさんは一旦吸血を止め、あたしの首から唇を離した。唇の端から、飲み切れなかった血が零れて、彼女の首を伝う。生気を取り戻した小麦色の肌が雨に濡れて、幼い肉体に艶やかな印象を与えている。その姿があんまり美しく思えたものだから、あたしは思わず見惚れてしまう。この世に完璧を名乗ることを許される者がいるとしたら、それはきっとスカーレットさんのことだろう。

 彼女はそんなあたしに微笑みかけて、じっと目を合わせた。あたしの心を探るような、そんな目。きっと、あたしを殺すか殺さないか、見定めているんだ。

 出来ることなら、彼女には殺されたくない。だから、あたしは自分の心を全部彼女にぶつけるつもりで瞳に力を込め、スカーレットさんのガーネットの瞳を見詰め返した。

 やがてスカーレットさんは瞳を閉じて、再び首筋に牙を突き立て、あたしの血を吸い始めた。空腹も大分満たされたのか、先よりも静かに、溢れる血液を吸い上げ、嚥下し、垂れた雫を舌で舐め取っている。

 そうして血を吸われていく中で、血を失い過ぎたからか、牙の先から分泌される麻痺毒のような成分のせいか、あたしの意識は次第に薄れつつあった。

 このまま死んでしまうにしろ、慈悲で生かされるにしろ、この優しい温もりに包まれたまま微睡みの世界に行けるのなら、どちらでも構わなかった。夢の中で、きっと王子さまに逢えるだろうから。

 沈みゆく意識。夢と現実の区別も付かなくなってきた中で、あたしは誰かの声を聞いた。

 「……ごめんよ、アヤ。君の夢を叶えるには、私はまだ力不足なんだ。だから、代わりに約束するよ。君が立派なレディになった頃に、必ず迎えに来よう。どうか、それまで」

 どこか申し訳なさそうな、優しい声と、あたしを抱く温もり。それは子守唄のように心地良くて、あたしは段々と微睡みの世界に引き摺り込まれていく。

 「さようなら、アヤ」

 意識が途絶える寸前、誰かがそう言うのを聞いた。


 目が覚めたら、自分のベッドの上だった。カーテン越しの窓からは眩しい陽光が差していて、今が朝だということが分かった。

 「………夢、だったのかな」

 思わずそう呟いてしまったけれど、体に残る確かな感触がそれを否定した。貧血のような倦怠感と、首の痛み。それは吸血鬼に、スカーレットさんに血を吸われた証明。あたしは頭を押さえながら起き上がって、鏡の前に立った。よく目を凝らさないと見えないけれど、確かに小さな痕があった。

 スカーレットさんの牙が貫いた痕を、彼女がいつか迎えに来てくれることの証だと信じて、王子さまの隣に立つに相応しい立派なレディになるために頑張ろうと、強く決意した。

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