第29話 お別れ

 「理の外の存在」正規雇用社員玲奈は、甘い薔薇の香りを漂わせながら、優雅に木製ベンチに背を預け私と六郎に微笑んでいた。


 その玲奈の膝の上に、鶴間君が眠るように横たわっていた。そ、そうだ鶴間君! 鶴間君の事をすっかり忘れていた!!


「安心して。ゆりえちゃん。貴方が六郎ちゃんと痴話喧嘩を始めた時から徹平ちゃんは眠らせているわ」


 玲奈は鶴間君の髪を優しく撫でる。その目は、弟を心配する姉の様な眼差しだった。そして私と六郎に微笑みかける。


「結論から言うわね。ゆりえちゃん。六郎ちゃん。あなた達は合格よ。それぞれの望みが叶うわ」


 玲奈の突然の宣言に、私と六郎は目が点になる。え? 合格? 私と六郎が? 私達の望みが叶うって?


「勿論。ゆりえちゃんは本来の姿に戻り、六郎ちゃんも病室に眠る身体に戻れる。そう言う事よ」


 玲奈は悪魔の心も射抜きそうなウィンクを私にして見せる。ど、どう言う事よ? 意味が分からないわ。


 私は鶴間君を口説き落とせなかった。組織が課した条件を達成していない。つまりそれは、六郎も仕事に失敗したと言う事だ。

 

「あん。落ち着いて。ゆりえちゃん。最初から説明するわね。全てはこの徹平ちゃんから始まるの」


 玲奈は膝の上で眠る鶴間君の髪の毛に手を添える。鶴間君は組織が提示した過酷なダイエットの条件をクリアした時、担当の玲奈にある事を懇願した。


 それは、太っていた事実の記憶を自分から消さないで欲しい。と言う内容だった。玲奈はかなり迷ったが鶴間君の願いを聞き遂げた。


 鶴間君は太っていた周囲の人間達を決して忘れたくなかったのだ。皮肉にもそれが鶴間君の人間不信への原因となった。


「私の失敗ね。徹平ちゃんの記憶はやはり消すべきだったの。だからね。ゆりえちゃん。鶴間君と似たような境遇の貴方には、鶴間君の様に人間不信になって欲しくなかったの」


 玲奈は続ける。それによると、なんと私は最初から無条件で本来の姿に戻れる事が決まっていたのだった。


 じゃ、じゃあ。六郎が私と初めて会った時に説明した、組織の課した条件ってなんの意味があったの?


「それはね。ゆりえちゃん。鶴間君を口説き落とす過程で、あなたの人間性を見極める為に必要だったの」


 玲奈は赤い紅がひかれた唇の端をつりあげる。


「ゆりえちゃん。本来の姿に戻る時、あなたの記憶は書き換えられるの。太っていた頃の記憶は消えるわ。でもね。情けない話だけど、稀にその記憶が甦る事があるの」


 「理の外の存在」の能力低下が原因で、私がある日突然太っていた頃の記憶を思い出した時。


 鶴間君と同じ様に人間不信に陥らないか。私はそれを組織に試されていたらしい。


「さっきも言った通り試験は合格よ。ゆりえちゃん。貴方は記憶を思い出しても、決して他人を恨んだり不審に思ったりしない。私達組織はそう判断したの」


 ······私は試されていた? 組織に? 最初から?じゃ、じゃあ。六郎は? 六郎は何の為に私はの元へ派遣されたの?


「······俺も試されていたって訳か。玲奈」


 それまで沈黙していた六郎が口を開く。ろ、六郎も試されていた?


「御名答よ。六郎ちゃん。貴方はゆりえちゃんに鶴間君を口説き落とさせるのが仕事だった。でも貴方は、仕事を超えてゆりえちゃんの事を心から気遣い心配した。まあ。救済措置対象者のゆりえちゃんにキスするのは規則違反だけどね♡」


 玲奈の最後の言葉に、私と六郎は同時に赤面する。お、おお思い出しただけで身体中が熱くなる!!


「······俺も小田坂ゆりえも、玲奈に嵌められたって訳か。って事は玲奈。お前が俺と小田坂ゆりえの担当だったって事だな?」


「正解よ。六郎ちゃん。六郎ちゃんも救済措置対象者だったって事」


 玲奈はそう言うと、鶴間君の頭を両手で優しくベンチに置き立ち上がる。


「······六郎ちゃん。ゆりえちゃんはね。自分の為に身を削るようなこの作戦を続けたんじゃないの。六郎ちゃんを妹のさやかちゃんの元へ返す為に頑張っていたのよ」


 玲奈の突然の真相告白に、六郎は絶句する。な、なんで玲奈さんがその事を!? 六郎が私の方を見る。


「······小田坂ゆりえ。何で······」


 言葉が途切れた六郎の顔を、私は恥ずかしくて正視出来なかった。な、何でって聞かれても!!


「無粋ね。六郎ちゃん。女子にそれを言わせる気?全ては六郎ちゃんの為だった。それ以上の答えが必要かしら?」


 玲奈の助け舟は私の動揺する心の火に油を注いだ。そ、そんな事言われても!!


「······小田坂ゆりえ。アンタは馬鹿だ。アンタみたいな大馬鹿は見た事がないぜ」


 六郎は私の目を真っ直ぐに見つめる。私の胸は急に高鳴った。そして六郎はその長い指で私の頬を思い切りつねる。い、痛い。な、何で?


「このっ馬鹿! 自分の為ならいざ知らず、俺の為だと!? 俺がどんだけ心配したか! お人好しもここまで来ると大馬鹿だぞ!!」


 六郎の罵詈雑言を、私の脳は喧嘩を売られていると即座に判断する。


「何が馬鹿よ! 私がどれだけ辛い思いをしたと思ってんの! あんたの! 六郎の為だったんだから!!」 


 私は半泣きで必死に反撃する。けど、私の声は余りにもの弱々しかった。なんでだろ。なんでこんなにも悲しくなるんだろう。


 私は分かっていた。気付いていた。目的を達成した六郎とは、もうすぐお別れだと言う事を。


 涙に滲んだ私の視界に、何かが覆いかぶさって来た。それは、六郎の胸だった。私は六郎に抱きしめられていた。


「······これからはもう、俺は側に居ないぞ。一人で大丈夫か? 小田坂ゆりえ」


 先刻の怒鳴り声とは違い、六郎の声は優しく私の耳に届く。私は泣きながら頷く。何も言葉が出ない。頷くだけで精一杯だった。


「小田坂ゆりえさん。椎名六郎さん。組織の規則に従い、貴方達の記憶を消します。互いの記憶も無くなるわ。ごめんなさいね」


 玲奈が少し困った様に微笑む。そして玲奈の身体から発せられた薔薇の香りが周囲を包む。


 その瞬間、周囲の景色が白一色に一変した。そして六郎の身体が急激に遠くに離れて行く。


「······六郎。六郎!」


 私は届かないと分かっていてもその手を六郎に向けて必死に伸ばす。まだ。まだ六郎に言って無い事があるのに。


「······ありがとう。六郎。私の涙を拭ってくれて。ありがとう。私を傘の中に入れてくれて! ありがとう。私をいい女だと言ってくれて!!」


 溢れる涙で私の声は細切れして行く。それでも私は六郎へ感謝の気持を伝えたかった。私は全ての力を腹に込めて声に変える。


「ありがとう! 私の好きな人になってくれて!!」


 ······六郎の姿が遠くに霞んで行く。六郎が何かを言っている。けど、余りにも遠くて聞こえない。


 その時、一瞬だけ私の耳に。否。頭の中に六郎の言葉が聞こえてきた。


『待ってろよ! 記憶が消えても! 顔を忘れても! 絶対にお前を見つけてやる! だから、だから待ってろゆりえ!!』


 ······それが、幾度となく心の中に聞こえてきた六郎の最後の言葉となった。私の意識はそこで途切れた。


 

 

 ······目が覚めた時、私は自分の部屋のベットの上にいた。部屋に花など飾っていないのに、私の鼻孔に微かに薔薇の甘い香りが残っていた。私は何気なく自分の頬を手で触る。


 そして何かを思い出したかの様に身を起こし、机の上に置いてある手鏡を覗く。


 なぜ急に自分がこんな行動をしているか分からなかった。鏡には、どこにでもいそうな平凡な十六歳の女の子の顔が映っていた。


 私は暫く手鏡に映る自分の顔を眺めていた。何故見慣れた自分の顔をこんなにも見ているのか。


 まるでその理由が分からない。すると、部屋の窓が小さな音を鳴らした。その音は時間と共に大きくなり、窓を打ちつけていく。


 私は手鏡を握ったままカーテンを開ける。空は厚い雲に覆われていた。そして雲は地上に大粒の雨を降らし窓を濡らしていく。


 雨の季節が、始まろうとしていた。









〘誰かが言った。明けない夜は無いと。誰かが言った。世界は美しさで満たされていると。誰かが言った。それでも人生は素晴らしいと。


 孤独の淵で人生を諦めていた悲観者が、一瞬にして幸福な楽観者になる事があり得るだろうか。あるとすれば、それは人の手によってだ。人を変えるのは、人だけだから〙


          ゆりえ 心のポエム

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