呪殺少女のコンビニ

「フリーズドライのおやつが食べたい」

 大好きなバッハ、大好きな猫、大嫌いなトマトジュース。ねぐらの自室の暗夜の休息。優雅で平和な完璧なる日常だった。だっていうのに、バッハの教会カンタータ第三十九番『飢えた者にあなたのパンを分ち与えなさい』をご機嫌なファルセットで歌っていた黒猫のセバスチャンは、ぴたりと歌うのをやめて、そう言い放った。

「おやつ……。ああ、あれね。ごめん、あれいま切らしてるんだ。明日にでもまた買ってくるから」

「いま食べたい」

「だから、切らしてるんだって」

「いま食べたい。猫は切実にいまを生きているんだ。閃光のように鮮やかな欲求なんだ。かなえは、目の前で飢えている猫を見捨てるの?」

「人はパンのみにて生きるにあらず」

「人じゃなくて猫だよ。フリーズドライのおやつ出してよ。石ころをパンに変えてみせろよ、へっぽこ呪者の陰険少女」

 澄ました顔で憎まれ口をたたくクソ猫。畜生の分際で、わがまま放題か。クソ忌々しい。

生命いのちかてにまさる。おやつを食べなきゃ死ぬわけでもあるまいに。明日まで待ちなさいよ、セバスチャン、少しの辛抱なんだから」

「じゃあ、それまでは歌わない」

 私はトマトジュースの紙パックを思わず握りつぶしてしまった。ストローから赤い液体が勢いよく吹き出たが、汚れて染みになるのは嫌だったので、呪いで静止させた。空中に浮かんだしずくの数々は、赤玉だらけのビリヤードのように散開していた。

「いま、なんて言った? 歌わない? 私のバッハを? 私の愛する音楽を?」

「少しの辛抱なんだから、我慢しなよ」

「私は! いま! 音楽を必要としているの! クソ猫が歌うバッハのカンタータを! バッハを聴けない夜なんて夜じゃない、地獄だ、永遠の責め苦としての地獄だ、悪夢の交響組曲だ、ショスタコーヴィチの幻の失敗作だ」

 怒りに震えながら空中のトマトジュースをコップでゆっくり回収する。虫取り網を振りまわす小僧のような惨めな気分だった。

「音楽を聴かなきゃ死ぬわけでもあるまいに。鼎は、大げさだなあ」

「魂が死ぬんだよ……」

「じゃあ、フリーズドライのおやつ出してよ。フリーズドライのおやつ出してよ。大事なことだから二回言いました。前のを含めると三回言いました。仏の顔も三度まで、黒猫の懇願は九度まで」

「わかった、わかった、わかったわよ。近くのコンビニに売ってるはずだから、買ってくるわよ、卑しい食い意地の張った被造物ひぞうぶつのクソ猫が」

「わかればよろしい」

 愛にあたいする得意顔の黒猫を残して、私は夜道を足早にコンビニへと向かった。


「いらっしゃいませー」

 店員の機械的な挨拶の声に出迎えられながら、私はコンビニに入り、お目当てのものを探す。眩しいほどの光。蛍光灯の蛍光灯による蛍光灯のための空間。監視カメラが視線の網を張る平べったい牢獄。都市に遍在する日用品の神殿。深夜のカロリー摂取をうながす、人間のための誘蛾灯。クソ猫までもがその罠の餌食えじきになってしまうとは。

 あった。セバスチャンがご所望の、フリーズドライの猫用おやつ。このコンビニは品揃えがいい。けだもの愛好家の要望にも万全の態勢というわけだ。ついでに紙パックのトマトジュースと、拷問に使えそうなハサミを買い物かごに入れて、私はレジに向かった。

 店員が機械的に値段を告げて、客である私は機械的に金を払った。機械同士の凡庸なやり取り。私は機械的な店員が好きだ。寂滅じゃくめつに達した修行僧のように、惰性だせいの生存を晒している。こちらも安心して機械的な客として振る舞える。レジでの受け答えは、抑制された禅問答だ。

 品物を入れた袋を提げて、私は鷹揚おうような足取りでコンビニの外に出た。


「いらっしゃいませー」

 店員の機械的な挨拶の声に出迎えられながら、私はコンビニに入り、お目当てのものを探す。眩しいほどの光。蛍光灯の蛍光灯による蛍光灯のための……。

 既視感。なにか、おかしい気がする。

 お目当てのもの……。そう、そうだ、セバスチャンに頼まれたんだった。あのクソ猫、人を夜更けにこき使いやがって。徹夜でグレゴリオ聖歌を歌わせてやろうか。子守り歌にはちょうどいい。

 フリーズドライの猫用おやつと、ついでに紙パックのトマトジュースと、呪詛を書きなぐるのに使えそうなノートを買い物かごに入れて、私はレジに向かった。

 機械的な店員と機械的なやり取りを交わし、手早く支払いを済まし、私は急ぐような足取りでコンビニの外に出た。


「いらっしゃいませー」

 店員の機械的な挨拶の声に出迎えられながら、私はコンビニに入り、そして、確信を得た。

 コンビニから出られない。だれかが私を殺そうとしている。クソ忌々しい。

 念のため、私はすぐに引き返してみた。自動ドアが閉まる前に、コンビニの外へと足を踏み出す。

「いらっしゃいませー」

「いらっしゃいませー」

「いらっしゃいませー」

 何度やってもだめだ。コンビニ入店がループしてしまう。回し車を走る齧歯類げっしるいのような徒労感。

 私を呪いでたぶらかしているのはだれだ? ループの瞬間、卑劣で嫌らしい視線を感じた気がする。この店内にいるのか? 殺意を抱いた私の敵が。

 店内には、私を除くと三人の人間がいた。レジに店員が一人。品出しをしている店員が一人。雑誌を吟味している客が一人。

 とりあえず、三人とも殺してみるか? それがいちばん単純でスマートなやり方だ。殺してしまえば、問答無用で呪いは解けるはず。疑わしきは殺す。遊び半分で私を閉じ込めた愚行を、後悔する暇さえ与えない。完璧なる最適解だ。

 だが、厄介なことにそれはできない。私は私を殺そうとする呪者しか殺さない。呪いを知らない一般人は殺さない。私にあだなす敵しか殺さない。それが、私の信条であり戒律であり教理ドグマであるからだ。クソ忌々しい。

 求めよ、さらば与えられん。というわけで、バカ正直に正攻法で訊いてみた。まずは、雑誌を眺めている、じゃらじゃらと金属アクセサリーをつけた男性客からだ。

「あなた、私を殺そうとしていますか?」

 返事がない。自分に向かって言われたと気づかなかったようだ。

「あなた、私を殺そうとしていますか?」

「……は?」

 怪訝けげんな表情。どうにもかんばしくない反応だ。イエスと答えてくれたら、即座に殺してやれるのに。

「すみません、人違いでした」

 私はその客から離れて、品出しをしている店員の方に向かった。虚ろな顔つきで、気怠げに作業している。

「あなた、私を殺そうとしていますか?」

 作業の手は止まらない。自分に向かって言われたと気づかなかったようだ。

「あなた、私を殺そうとしていますか?」

「……は?」

 胡乱うろんな表情。暖簾に腕押しのような反応だ。素直にうなずいてくれたら、即座に殺してやれるのに。

「すみません、人違いでした」

 私はその店員から離れて、レジにいる店員の方に向かった。機械的な態度でこちらを注視している。

「あなた、私を殺そうとしていますか?」

「……お客さま、どうかなさいましたか?」

 機械的ではない、引き攣った表情。いちどで反応してくれたのはありがたいが、用件は伝わらなかったようだ。質問に質問を返されても困る。どうかしているのはこの店だ。この敵だ。この呪者だ。

「すみません、人違いでした」

 さて、どうするか。てっきりどこかでボロを出すか、攻撃してくるかと期待していたのに。なにも起こらない。臆病な呪者だ。私はせっかちなので、早く殺したくてイライラしていた。早く帰ってバッハを聴きたい。猫を撫でたい。夜明けを期待せず眠りたい。

 客も店員たちも、私をじろじろとうさんくさそうに見ている。頭のおかしいやつと思われたのだろうか。面倒くさい。一旦、リセットすることにした。

「いらっしゃいませー」

 さて、振り出しだ。店員の機械的な挨拶に出迎えられながら、私はどうしたものかと考えた。こいつはどうするつもりなのだろう。ひたすらコンビニに留まらせて、私が朽ち果てるまで待つつもりなのか?

 ふと窓を見ると、疑問が氷解した。コンビニの外の景色が、変わり始めている。星空がゲロを吐いたような胸クソ悪い瘴気しょうき。紫色の光。転送呪力の先触れ。こいつ、私を生きたまま地獄に送り込もうとしてやがる。このコンビニごと悪魔に売り渡そうとしてやがる。クソ忌々しい。

 じゃあ、敵はこの中にはいないのか? 店内にいるのは呪い知らずの無辜むこの民だけか? だが、確かに妙な視線を感じた。近くからこちらをうかがっている。こっそりほくそ笑んでいる。殺意に舌なめずりしている。どこに潜んでいるんだ、この呪者は。

 やはり、この三人のうちのだれかか? 当てずっぽうで一人ずつ殺してみるか? 外れたなら、コンビニから出てリセットすればいい。だが、いちど殺したという事実は消えない。肉体は無傷でも、魂は喪われてしまう。人を呪う者しか私は殺さない。その戒律を破れば、私は私ではなくなってしまう。

「気にするなよ。かまわずに殺してしまえばいい。力を持つなら、好きなように蹂躙じゅうりんすればいいんだ。相手がだれであろうとね」

 スナック菓子の並ぶ棚から、蛇が鎌首をもたげて、私を嘲笑っている。楽しげにしゅーしゅーと舌を出し入れしている。

「それとも、やはり殺せない? 意地っ張りだな。それならそれでいいさ。どちらを選んでもきみは地獄行きだ。なにを執着することがある? きみにとって、現世はうみだらけ泥だらけ敵だらけの、醜い魔窟だろう? 地獄とどこが違うっていうんだい? きみはだれからも愛されないし、だれも愛せないだろう。きみは世界の敵だからね。きみは人から外れた異常者だ。未来から憎まれた化け物だ。だが、悪魔ならきみを愛することができる。きみは魂の奥底から呪われた、善の欠如どころではない、正真正銘の〈悪〉だからね」

退しりぞけ、悪魔」

 私は回し蹴りでスナック菓子ごと蛇を吹き飛ばした。蛇はけたけたと笑って、自動ドアの隙間から外に出ていった。

「何してるんですか、お客さん!」

「すみません、蹴られたがっている爬虫類がいたもので」

 戸惑う店員を適当にあしらいつつ、私は窓を眺めていた。紫色の光が差すなかで、ばんっ、ばんっ、ばんっ、と姿の見えない複数の何かが窓を叩いている。赤い血の手形がいくつもガラスにこびりついて、どんどんどんどん増えていく。地獄にだんだん近づいている。

 店員にも客にも、窓を叩く音は聞こえず、外の光景も見えないようだった。八つ裂きにされても気づかないのだろう。だが、視線はある。いまも見ている。嘲笑っている。無関係な人間ごと地獄送りか。ナメやがって。種はもう割れた。ぶち殺してやる。

 私は棚に並んでいたサバ缶を手に取った。

「イクテュス、イクテュス、テュティティティス!」

 私は呪文を詠唱し、サバ缶を媒介にして、呪いをすなどる呪魚を呼び出した。そして、白虎びゃっこの方角に一匹、青龍せいりゅうの方角に一匹、銃弾のように発射した。狙いは監視カメラだ。嫌らしい視線のみなもとだ。

 ぱくり、と監視カメラから何かを食いちぎり、二匹の呪魚は空中を泳ぐようにそれぞれ戻ってきた。かわいいお魚たちの持ち帰った獲物を、私は指先でつまんだ。

 眼だ。眼球だ。一対いっついの呪眼だ。

 私はその汚ならしい眼球を床に放り捨て、容赦なく踏みつぶした。ぷちりと、断末魔の快音がした。

「――ぎゃああああああああああああっ」

 どこからか、つんざくような悲鳴が聞こえた。窓を見る。瘴気と紫色の光が薄れていく。ガラスにこびりついた血の手形が消えていく。地獄から速やかに遠のいていく。

 変化がおさまると、私はコンビニの外に出た。もうループすることはない。澄んだ夜気を私は呼吸した。少なくとも、地獄より風は心地いい。

 地面に描かれた魔法陣を一瞥しつつ、コンビニの裏手にまわってみると、両眼を失った死体が転がっていた。なんと、私の同級生だ。血の水たまりに横たわっている。

 自分の両眼をえぐり出して、監視カメラに仕込んで罠を張るとは、敵ながら見上げた根性だ。だが、根性では人は殺せない。殺し合いに必要なのは、技術・体力・時の運。拙劣な呪者は死ぬ。弱りきった呪者は死ぬ。運に見放された呪者は死ぬ。私に敵対した呪者は殺される。デッドエンドだ。

「ラザロ、ラザーロ、ラザロラロ!」

 私の呪文によって、両眼を失っていた血まみれの死体が、ラザロのごとくに甦る。穴はふさがり、御目目おめめもぱっちり。だが、喪われた魂だけはもう戻らない。

「……えっ……楠守くすもりさん?」

「こんばんは、歌丸銀二うたまるぎんじくん。夜のお散歩? そこのコンビニで目薬でも買ったら? あ、医薬品だから売ってないんだっけ? まあどっちでもいっか」

 おざなりな挨拶を交わして、魂を喪った、人を地獄に送ろうとした、すべてを忘れた男に背を向けて、私は夜の家路いえじをたどった。


「おかえり、かなえ。フリーズドライのおやつをよこせ」

「……………………あ。忘れてた」

 セバスチャンは、ねた。

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