水滸酒楼に恋をして

逢巳花堂

第一回 Suiko of fury

其の一:仕事帰りの気張らし散歩中、その店を見つけた

(なんでこの会社に入ったんだろう……)


 夜の板橋駅ホームをとぼとぼと歩きながら、僕はため息をついた。


 まだ入社一年目で、仕事のことなんて何もわかっていない。決めつけるのは早いかもしれない。


 でも、正直、もう辞めたかった。


 何が売り手市場だ、と言いたくなるくらい、面接と不採用通知の洗礼を受け続けた末に、大して興味もなかった商社に入った。ビル建築用の資材をメーカーから購入して、建設会社とかに売るのが主な仕事だ。


 職種は営業職。だけど、大学時代は文学の世界に没頭していた口下手な僕が、半年ほどでいきなり前線に放り込まれても、ちゃんと立ち回れるはずもない。


 会社側も、ハズレくじを引いた、と思っているようだ。最初は、僕の学歴をもって、優秀な新人が入ってきた、と可愛がっていた周りの人達も、次第に態度が冷たくなってきた。


 今日だって、こんなことがあった。


 指導役の先輩と一緒に外回りに行った時、ランチで洋食屋に入った。四人がけのテーブルしか空いてなくて、先輩と僕はそこに案内された。とりあえず対面で向かい合って座った瞬間、先輩は頬を引きつらせながら、こう言ってきた。


「正面に座んなよ。気持ち悪い。斜めに座れ」


 僕は面食らった。これまでの人生で、たかが真正面の席に座っただけで、ここまで言われるような経験は無かった。


 仕事ができないことであれこれ言われるのはわかる。でも、自分の座る位置一つで文句をつけられるのは、どうにも納得がいかない。


 日中にそんなことがあったせいで、僕はモヤモヤが収まらず、まっすぐ家に帰らなかった。家電量販店や本屋、ゲームセンターをうろついた末に、夜十時ごろ、やっと乗換駅まで戻ってきたのである。


 僕のアパートは、地下鉄の三田線沿いにある。板橋からは、まだもうちょいかかる。


(くたびれた……)


 早く布団の上にバフっと倒れ込みたかった。


 でも、まだ気持ちはザワついている。もうちょっとどこか寄り道してみたい。


 板橋駅のあたりは何も無い。だから、いつもと違うルートで帰ることにした。


 普段は、西口を出て三田線へ向かう。今日はあえて東口から出てみることにした。


「へえ、近藤勇の墓とかあるんだ」


 案内板を見て、知った。会社に入ってから七ヶ月も経ち、毎日板橋駅を通過していたというのに、まったく知らなかった。


 せっかくなので、近藤勇の墓を見てみた。日本史は詳しくないけど、さすがに新撰組のことはある程度わかる。著名な人物の墓ではあるが、こぢんまりとしていて、こんなものか、と思った。


 再び、三田線の新板橋駅を目指して歩き始めた。


 適当に路地に入り、しばらく歩いたところで、気になるものを見つけて、立ち止まった。


「すいこしゅろう……?」


 雑居ビルの外壁に、お店の看板が並んで掲示されている。その内の一つを、僕は見逃さなかった。


 水滸酒楼。


 僕にとっては、すごく馴染みのある言葉が含まれている店名に心惹かれて、ついつい雑居ビルの中に足を踏み入れた。


 二階にそのお店はあった。入り口は何の変哲もない扉で、「水滸酒楼」と書かれた看板が掲げられている。


 扉を開けると、カランカランと鐘が鳴った。


「いらっしゃいませー」


 優しい声で出迎えられた。


 店内は縦長で、まずカウンター席があり、その奥には壁に沿ってコの字型にソファが配置されている。


 奥のソファ席には、すでにお客さんが三人座っている。彼らは、僕の方を、興味津々な様子で見つめてきた。


 背後で、またカランカランと鐘が鳴った。


 続けて誰か入ってきたようだ。


 女性だ。パンツスタイルのスーツを着こなした、見るからに仕事の出来そうな人。ウェーブのかかったショートヘアがよく似合っている。僕よりちょっと大人びた、お姉さんな雰囲気を醸し出している。


「はい、いらっしゃい。どうぞお好きな席へ」

「店長。今日は珍しく人が来ますね」


 奥のソファ席から、丸眼鏡をかけた温厚そうな初老の男性が、にこやかに声をかけてきた。


「本当に。いやあ、嬉しいなあ」


 恰幅のいい店長は、カウンターの向こう側から、ほくほく顔で返してきた。


 とりあえず僕がカウンターの真ん中の席に座ると、後から来たパンツスーツのお姉さんはカウンターの一番奥側の席に座った。


「モヒート、お願いします」


 メニューをサッと見てから、パンツスーツのお姉さんはすぐに注文した。


 そのこなれた様子に、常連客なのかと思いきや、


「ここは初めてだよね?」


 モヒートを作り始めながら、店長は、パンツスーツのお姉さんに尋ねた。


「はい、初めてです」

「どこで知ったのかな? ネットにも情報載せてないから、みんな口コミで来るんだけど」

「友達から教えてもらったんです。変わった店だけど、楽しいから、一度寄ってみな、って」

「その友達、名前を聞いてもいい?」

「ここでは孫二娘そんじじょうと呼ばれているそうです」


 ん?


 僕は思わず彼女の方を向いた。


 いま、知っている名前が聞こえた気がする。


「あー、孫ちゃんね。あの子の友達なんだ?」

「大学の時の同級生で」

「そうしたら、学部は同じ?」

「いえ、私は経営学部でしたから。仕事も、今は広報に関わることをしています」

「なるほどね。そうしたら、本当にたまたま、友達がうちの常連だから来た、というわけなんだね」


 店長は、モヒートをパンツスーツのお姉さんに出してから、今度は僕の方を見てきた。


「君は? うちにどうして来たの?」

「お店の名前が気になったからです」

「ん? 『水滸酒楼』のこと?」

「ええ、はい」

「もしや」


 途端に店長の目が強く光り輝いた。

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