今ばかりは静寂を

 この世界を、かつて支配していた魔王がいた。


 魔王の名は、ソーディアス・リンドヴルム。


 当時、世界最強を誇った魔導剣士。

 四天王と呼ばれた人外の怪物を側近に持ち、十万は下らぬ戦力で以て、世界を支配した。


 しかし、支配した期間はわずか十七年。

 かつてこの世界を支配下に置いた者達の中でも最強最悪の魔王と謳われながら、世界を支配していた期間は十七年と長いようで短い期間でしかなかった。


 後に七人の英雄と呼ばれる事になる冒険者達が、登場したからだ。

 彼らは魔王討伐後、その後の世界の実権を握る存在として君臨する。


 賭博師、ブラック・ドラッグ。

 元は腕利きの賞金稼ぎバウンティ・ハンター魔弾の担い手デア・フライシュッツの異名を持つ魔弾使い。

 英雄と呼ばれて以降、天性の賭博癖から違法カジノや奴隷オークション等、裏稼業では知らぬ者はいないカリスマ的存在となった。


 聖母アリア・マリア。

 当時は無名の修道女シスターであったが、七人の英雄唯一の治癒魔法師ヒーラーとして魔王討伐に貢献。

 英雄と呼ばれて以降、戦争や貧困などで捨てられた孤児を救う活動を主体に行う教会の主導者となるも、裏でホムンクルス作成のための人体実験を繰り返していた事は、未だ表には出ていない情報だ。


 魔導女王ヴィヴィアン・スー。

 過去の経歴、不明。種族、年齢を含めた個人情報が一切不明の身であるが、現在最強の魔法師であり、魔法戦だけならば、英雄のリーダーである魔剣帝より強いと噂される。

 現在は魔剣帝の妃であり、帝国カイナグランデの要である人物である事は周知の事実だ。


 魔剣帝アロケイン。

 突如彗星の如く現れた魔剣使い。過去に二度、冒険者ギルドから永久追放を受けるものの、それを嘲笑うかのように躍進。七人の英雄のトップにして、最強の魔剣使いへと昇りつめた。

 現在のカイナグランデの皇帝であり、未だ無敗と謳われるこの世界最強の存在。今後、七つの大罪が狙う事となる一番の標的となる男。


 巨岩神エメス。

 ペストマスクで顔を隠した世界屈指のゴーレム使い。アロケイン、ヴィヴィアン・スーと旧知の仲らしき発言が聞かれる事があるが、詳細は不明。

 英雄と呼ばれて以降も、城に呼ばれた時にしか姿を見せず、普段何をしているのか、何処にいるのか、一切の情報を素顔と共に隠した謎多き男だ。


 他、守護者タイタニア・ネヴァーランド。魔獣、グレゴリー・べディベアの二名を加えた七人が魔王を倒し、英雄と呼ばれる者達である。


 この事は世界全土、老若男女が知り得る事実であり、知らぬ者はいない。生まれて言葉を覚えたばかりの子供も、親から嫌と言うほど聞かされるからである。


  *  *  *  *  *


「で、あんたはそんな英雄様達を倒そうっての?」

「ウム、そうだ。あぁ、そこ。もっとそこ、強く揉んでくれ」


 アンとシャルティは浴場にいた。

 元々宿泊施設だった場所だ。風呂くらいはあると思っていたが、まさか和式の露天風呂みたいな浴場があるとは、さすがのアンも思っていなかった。

 だがお陰で湯治が出来るし、エリアスやアドレーの髪も綺麗にしてやれるから、文句などあるはずもない。


 そして敢えて、女の艶めかしい裸体がご都合主義によって恥部だけ湯気か何かで秘められた、想像力の発揮し所サービスシーンであると言っておこう。

 ただし全身に裂傷、火傷、その他諸々の傷が体中に残るアンの痛々しい体を想像し、満たされるか否かは個人の自由であるが。


「まったく……私別に、ここのオーナーとか、そう言うんじゃないん、だから……! マッサージなんて、させるなってぇ、の!」


 現在、アンは敷かれたタオルの上にうつ伏せで寝転がり、シャルティに背中や腰を揉んで貰っている状態である。


 裂傷や火傷の多さにも驚いたシャルティだったが、何より驚いたのはアンの体の硬さだ。あちこち体が凝り固まっており、体中から小さな骨が破裂でもしているかのような音が鳴る。

 ずっと横になっていたせいだ。意識がなかったからとはいえ、体を動かさなければ硬くなるのは必然。とはいえ、シャルティも経験した事のない硬さに驚きを禁じ得ない。


「はい、今日はここまで! ちゃんとお風呂入って! 温まって体がほぐれたら、またやったげるから!」

「うん、助かる」


 どっぷりと湯に浸かる。

 思い出してみれば、アンは前世以来かもしれない。この世界に来てから、シャワーを浴びるばかりで湯船に浸かるスタイルの――つまりは和式の宿とは、巡り会えていなかった。

 だから今のうちに堪能しておくことにした。

 追われる身には、明日の事もわからないのだ。堪能出来る時に堪能しておくに、越したことはない。


「言っとくけど、ここにお湯張るなんて滅多にしないんだからね。グレイのお願いでやったげてるんだから、ありがたく思いなさい?」


 と、ちゃっかりシャルティも隣で入っていた。

 確かに滅多にやらないとあれば、この機会を逃す手もあるまいが。


「……其方、今?」

「もう驚かないわよ……あんた、盲目の癖して何でもお見通しなのね」


 と、シャルティはアンの側腹部に一瞥をやってから、自分のに触れる。

 傷だらけのアンの体でも数少ない無傷の部位だが、シャルティのには生まれ持ってついている物があった。

 である。

 水中生物が水中の酸素を取り込み、体内の二酸化炭素を排出するための呼吸器官が、シャルティの側腹部にはあったのだ。


「魚人……ではないな。魚臭くない」

「すぐ否定したからいいけど、次に魚って言ったら殴るわよ……私は、龍人族よ。いわゆるリザードマン。私は女だから、正式にはドラゴンメイドって言うんだけどね」


 アンは盲目故に気付けなかったが、シャルティの丸い双眸は蛇に似ていたが、実際は龍の血族から来るものであった。

 それに、シャルティはアンが聞いていたリザードマン――主に人の知性と体格を有したトカゲではなく、完全に人型だ。翼もなければ尻尾もない。唯一あるも、入浴しなければわからないままだった。


「フム……どうやら私の知るリザードマンと、この世界のそれでは多少誤差があるらしい」

「何、トカゲ人間でも想像してた? ま、それも間違ってないわ。ただこの世界のリザードマン、ドラゴンメイドは龍種に近い人龍と、人型に近い龍人と二ついるってだけだから」

「なるほど。では其方の治療魔法も、龍人族の秘術だったりするのか? 私の世界では、龍は何かと不死と縁の深い者であったが」

「まぁね。龍って聞くと火を噴く、暴れまわって破壊する、みたいな暴力的なイメージが強いでしょうけど、別にそれだけじゃないわ。あんたが言うみたいに、龍はこの世界で一番の生命力の持ち主ですもの。その力で、他人を治す事だって出来ない事じゃない」

「なるほど。子供達だけでどうやって生き延びて来たのか不思議だったのだが、何となくわかった気がするよ」


 この宿を立てたのはきっと、異世界転生者当人か転生者に携わる人だったのだろう。

 露天風呂もそうだが、この世界に来てから鹿威ししおどしなんて初めてだ。水を落とした竹の打つ清涼感のある音が、水の流れる音で満ちた不思議な静寂の中で響く。


「其方、私と共に来ないか」

「断るわ」

「そうか」


 互いに再度の確認もない。

 お互い淡泊過ぎて、その場にもし第三者がいれば、その人の方が疑うような即答の応酬。

 この話はもう終わりとばかりに打たれる鹿威しの清涼感溢れる音が、二人の間でこだまする。


「基本的に、私達に有益じゃない事はやらないの。やれるだけの余裕がないからよ。あんたの治療は私だけで事足りるし、グレイの頼みだからやったげてるだけ。英雄と戦う、なんてただでさえ勝算の薄い勝負に掛ける気はないし……ここの子供達には、私が必要だから」


 シャルティの言い分は尤もだ。

 普通、勝算の薄い戦いを仕掛けようなどとは思わない。

 勝っても負けてもそれなりの副産物があると言うのなら別だろうが、この戦いは生き死にだけが掛かっている戦いだ。得られる物があるかどうかもわからない。

 そんな戦いは無益と捨てるのが普通。逆に言えば、今までは事が上手く運び過ぎていた。

 ベンジャミンにしてもエリアスにしてもアドレーにしてもグレイにしても、断られる可能性はあったし、この先途中で脱退される可能性もある。


 そしてシャルティに関しては、今この場で必要とされている人材だ。

 彼女の治療魔法、回復能力は子供達にとって必要不可欠な存在。仮にシャルティが承諾したとしても、リーダーを含めた他の子供達が許しはしまい。


 故にアンも無理は言わなかったし、言えなかった。

 本当は言いたかったが、途中で無理ですと放り出され、抜けられるよりマシだ。

 何より正当な理由があるのなら、変に無理強いをして軋轢を生まずに済む。無駄に敵を作っても、それこそ何の得もない。


 だからシャルティの力は大罪として非常に欲しかったのだが、諦めざるを得なかった。


「生憎と、この世界には龍人族も人龍族もそんなに多くないわ。魔王の支配もなかったずっと昔に大戦があって、そのときに絶滅危惧種になったから」

「龍人や人龍ならいい、という話ではない。其方だから誘った。この目は他人の潜在能力を見抜く魔眼故、其方に頼みたいと思ったのだ。そうほいほいと、英雄を倒すだけの素質が見つかって堪るものか」

「何よ。何をそんなに怒っているの?」

「呆れているのだ。異世界転生者は不条理な副産物チート能力を持ってやって来る――誰が決めた? 全属性魔法オール・エレメント死に戻りリターン前世からの記憶の引継ぎバックアップ・メモリ無限成長カウント・ストップ二次元の自分転写ハイランク・キャラクター。確かにどれもこれも強力だ。しかし、この世界の英雄を倒すには足りぬ。そうした見えざる手の産物に驕り、思い上がった者から消えていく。今までの大戦が、そういうものだと物語っている」


 だからこそ、憤りを禁じ得ない。

 魔剣帝はもちろん、彼らに軽率に挑む転生者達に対しても。


 彼らがどのような前世を送ったかは知らないが、天性の才能に対して嫉妬しなかった者などいなかったはずだ。

 自分の友人や周囲の知人、テレビに出て来る同年代の人間の才能に関心しながら、裏で嫉妬していた心があったはずだ。

 あったからこそ、自分自身が超人的能力に開花する姿を想像したり、常人たり得ぬ力で無双する光景を夢見て、そうした物語に共感を覚えたはずだ。


 だからこそ、彼らは自分に与えられた副産物に甘え、驕って死んで逝った。

 彼らが前世と同じように地道な努力を重ね、弛まぬ研鑽を怠っていなければ、結果は変わっていたかもしれない。

 自分はそんな能力など要らなかったのに。こんな戦いになど望みたくなかったのに。彼らの過去の自分に対する嫌悪と副産物に対する異常な信頼が、この目から光と色を奪ったのだ――などと、理不尽なまでに割り切れればいいのだが。


 ■も、人の事は言えない。


 ゴブリンだろうがスライムだろうが人食人グールだろうが、その目が光と色を捉えられるのなら、何でも良い。

 姿形がいくら悲惨だろうと、凄惨だろうと、みすぼらしかろうと、あの世界が再び見れるのであれば、何でも良い。

 何でも良かったのに、よりにもよって、情報だけを見る魔眼だなんて――


「――故に、誰も彼もなどとは言ってられん。聖剣に選ばれる勇者がいるように、私に選ばれるだけの者が必要だ。与えられた力に驕らず、自分の力として昇華し、更に強くなれるような者達が必要だ。だからこそ、私は其方がいいと思ったのだが」

「……それこそ、見当違いよ。私は、あいつらを倒せる力があるって言うなら、迷いなく手に取っちゃう。呪われたっていい。恨まれたっていい。私達を不幸にした奴らを不幸にしてやれるなら、私はきっと、力に溺れちゃうし、驕っちゃうわ」

「そうか。構わん、また探せばいいだけの事だ」


 濡らしたタオルを絞り、空を仰ぐ形で上向いた目の上に置く。

 頭寒足熱。血の巡りを良好にし、体調を整え、より良い回復を促す。タオルが乗っていようがいまいが明暗に差はなく、聴覚と嗅覚、気配とで


 だから気が付いてはいた。

 シャルティがずっと、何かを考えながら自分の方に視線を向けている事に。


 彼女の心の内こそわからないものの、熱烈とも言い難くも冷たくもない視線が向けられている事に気付きながら、アンは突っ込む事をしなかった。

 何故か――それはアン自身にも詳しくは説明できないのだが、言ってしまえば直感だ。

 シャルティが何か思うものがあり、それが自分に通ずるものであるのなら、わざわざ突っ込んで邪魔するよりも、存分に考えさせる方がいいと思っただけの事だ。


 例えそれが、自分達にとって不都合な事だろうとも。


  *  *  *  *  *


 レギンレイヴから北西に十キロ。

 かつてそこには、大きな岩山があったらしい。

 遥か昔、神話として語り継がれる勇者と魔獣の王の戦いによって消し飛んだと言われる跡地には、わずかに残った岩の積み上がりがある。

 高さにして百メートルない程度だが、見晴台としては最適な場所にあった。

 特に、そこから目の前に数キロ先に広がる密林の中にいるとされる魔獣を見張る彼らにとっては。


「長旅ご苦労だったな、グレイ」

「ガルドス殿こそ、かれこれ三日も張り込んでいるのだろう。少し休まれてはいかがか」

「何、これくらいやって当然さ」

「感謝」


 持ってきて貰った水を合掌してから受け取る。

 破戒僧ながら、未だ僧侶としての癖が抜けないグレイは、ベンジャミンなら一息に飲み干しそうな量でも大事に、ちびりちびりと飲んでいた。


 そんなグレイを見て、変わらないなと微笑を湛える茶髪の男こそ、レギンレイヴのスラム街に住まう子供達のリーダー、ガルドスである。

 彼も元は貴族の生まれであり、シャルティが貴族である事も前以て知っていた唯一の存在。ただし彼女とは貴族としての階級がまるで違ったのだが、そこはシャルティにも秘密である。


「しかし……貴殿は少し痩せられたのではないか? ちゃんと食べているのか」


 戦争にも一人の兵士として参加していたガルドスは、屈強かつ力強い筋肉を体に宿していた。

 が、数年間必要最低限の食事しかしてこなかったため、屈強だった肉体は限界までやせ細り、厚手のコートの下に隠されていたが、グレイには明白だった。


 それでもガルドスは「食べている」と肯定する。

 見抜かれているだろう事も承知のうえで、周囲の仲間に配慮してでの言動だ。


「食べていなければ、やってられんさ。あいつとの、睨み合いなどな」


 と、ガルドスの差して言う森の中に何がいるのか、グレイは知っている。

 知らないベンジャミンは側の木陰で大あくびしながら、アンは無事だろうかと月を見上げつつ、横で話を聞いていた。


「そろそろ交代の時期であろう。貴殿もゆっくり休まれよ。何なら、拙僧がここに残ろうか」

「おまえも疲弊しているだろう。交代させるために休ませている奴らもいるんだ。今は存分に甘えてくれ」

「後でこき使うから、か」

「わかってるじゃないか」


 二人の笑い声が、やけに大きく響く。

 一瞬でも笑い合える事は良い事だと思うのに、何故かこの場ではご法度と思えるくらいに重々しく、緊張感溢れる空気が漂っていた。

 岩山の残骸から人を代え、昼夜問わず見張り続けているがそうさせているのだろうが、果たして何がここまでの緊張感を生み出しているのか。


 今すぐにでも問い質したいが、張り詰めた空気が許してくれない。

 名前を言う事すら許されない悪魔のような扱いが、ベンジャミンにまで緊張感を伝播させて口を堅くさせていた。唯一軽々しく出来るのは、欠伸だけだ。


 だがガルドスが切り出された話題は、ベンジャミンから眠気を攫うものであった。

 正体の明言こそなかったものの、それこそ現場の緊張感を更に底上げするかのような発言が、囁かれた程度の声音ながら響いた。


「最近、妙な動きが見られてな。普段から理由もなく大暴れしているような奴が、ここ五日近く大人しく寝静まってるんだ」

「あ奴がか……なるほど、それは奇妙な。嵐の前の、静けさか」

「そうでない事を、祈るばかりだ」


 二人の会話に出て来る者の正体こそわからないものの、ガルドスらの警戒の具合から見て、見くびっていい類のものではないだろう。

 アンを含め、全員が疲弊している現状で、怪物じみた敵と戦うのは御免だ。

 もしもそんな敵が襲って来ようものなら、アンは身を挺して戦うだろう。もう、疑う余地もない。アンなら絶対に戦うと、断言出来る。


「あぁ、祈るばかりだよ……」


 せめて今だけは静寂を。

 白い息と共に、ベンジャミンは言葉の通り祈るように漏らした。

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