鴇村 ⑤
二羽のトキは森の中へと入っていった。基本的に、森は未開の地であるため、立ち入ってはならないと言われている。
道らしき道は一応あるのだが、途中でそれは獣道へと変わり、やがてなくなる。森はそんなところだ。
道があるということは、その先に何かがあるということかもしれないが、その何かを見つけたことはないし、見つける気も正直ない。森で迷う恐怖を味わいたくないのだ。
それでも今日は、その恐怖の森に入っていく。
これを逃せばもう、今のようなトキは見られないと直感したから。
今しかチャンスはないと、そう直感したから。
森の中を、草を掻き分けて進むこと五分ほど。
そこに、少しだけ開けた場所があった。
獣道の途切れる森の中の小さな空間。
その奥には、一本の大きな木が聳え立っていた。
「す……すごい」
ツバサは、初めて見るその光景に感嘆の声を漏らす。
もちろん俺だって、こんなものは初めて見た。
「ワタルくん、ひょっとしてここに連れて来たかったの? この木を見せに?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
どう説明しようかと迷っていると、木の上からバサバサと羽音を立てて、鳥が目の前に下りてくる。
それは、さきほどのトキたちだった。
――つがいの、トキ。
「その……俺が見せたかったのは、このトキたちだよ。つがいのトキ」
「……つがい……」
仲睦まじく、身を寄せ合う二羽のトキ。少し黒ずんだ羽は、繁殖期の特徴だという。
トキの棲む村だといっても、人前にトキが降り立つことは滅多にない。ましてや、それがつがいであればなおさらだ。
トキは、村ではもはや神格化すらされている。
そして、トキについての古き言い伝えもある。
「……えへへ。私、知ってるよ」
ツバサが、また頬を赤らめながら、こちらに向かってはにかむ。
「だから、ここまで来たんだね」
「め、珍しいと思ったから……かもしれないぜ?」
「そんなことないよ、ワタルくんなんだから」
「……」
引っ張ってきておきながら自分から言い出せないとは、俺も気弱なものだ。
言いたい言葉は、ツバサの方から言ってくれた。
「――つがいのトキを目にした恋人たちは、必ず結ばれる」
そう。鴇村に伝わる、なんともロマンチックで怪しい言い伝えだ。
でも……今だけは。
それを信じたいと、体が動いたのだった。
「本当に、見れちゃうなんてね」
「ああ。……運がいいな」
「それくらい、なのかもよ」
「え?」
「ふふ、何でもない」
ツバサはにっこりと笑う。
トキは少しだけこちらに体を向けてから、やがて茜色に染まりつつある空へと飛び立っていった。
「あ……飛んでっちゃった」
「元々人が苦手な鳥だからな、仕方ない」
トキの後ろ姿を、俺たちは見送る。その姿が見えなくなってから、
「そうそう。ほら、今日の日記」
「あ、ありがとワタルくん。じゃあ私も……はい」
俺は赤のノートを、ツバサは白のノートを取り出して、互いに交換する。
二人だけの秘密、とまで言うのは恥ずかしいが、要するにこれは交換日記だ。
普通交換日記は一冊だろうが、毎日互いのことを知りたいというツバサの提案で、二冊のノートを交互につけあうという形になった。
始めたのはここ半年のことだけれど、それ以来、俺たちはこれを毎日欠かさず書いている。
互いのことを、日々理解し合っている。
「今日は、素敵なことが書けるね」
「……うん」
こういう台詞を言うのに関しては、ツバサの方が大胆だ。どうも常に、俺がリードされているような気持ちになる。
でも、きっちりと思いを告げるときには必ず。
「ね、ワタルくん。この大きな木にさ、その……あれ、書こうよ。トキを見ちゃったついでに」
「あ、あれって……その。相合鳥ってやつか?」
「それ!」
その言葉に、嫌でもドキリとしてしまう。正直言って、思いは既に通じているのだ。
俺たち二人は、ただきっかけの言葉がないだけで、もう。
相合鳥。馬鹿みたいだと思われるかもしれないが、それはこの村で派生した、相合傘だ。傘の部分を鳥が羽を広げたような形にして、その下に好き合った二人が名前を書く。そうすることで、その二人は永遠に結ばれるのだという、おまじないだ。
俺たちは、恐らく森で一番の巨木であろうその幹に、名前を刻んだ。
赤井渡と、
真白つばさ。
そして、その上に鳥の飛ぶ姿を刻む。
ほんの僅かな時間だったけれど、俺たちは無言のまま、それを彫り上げた。
「……よし」
「できたね、ワタルくん」
これは、甘酸っぱい青春の証か。
いつかこれをもう一度目にしたとき、今日のこの日を懐かしめるような、そんな証なのだろうか。
二人で、懐かしめるような。
「……なあ、ツバサ」
「……うん?」
伝えたい。ただ伝えさえすれば、それで受け入れられるはずの思い。
けれど。
「いや、何でもない。暗くなってきたら危ないし、そろそろ帰るか」
「そ、そうだね。危ないね」
ちょっとだけ不満そうな顔をしながらも、ツバサは同意してくれる。
こうして俺たちは森を出た。
幸せな光景を、互いの胸の中にしまって。
一つの言い伝えと、一つのおまじないが、いつか叶うことを信じて。
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