忍恋(しのびごい)
安平美月
第1話未来の賢帝と孤高の忍の日常
魑魅魍魎蔓延ると言われる夜の都を、一つの小さな人影が翔けた。
碁盤の目のように区画された京の都の、大小様々な建物の屋根の上を、音を立てることなく風に乗った羽のように軽やかに翔けていく。
その速さは目にも留まらず、人影なのかも判別出来ない程。
幻想的な月の光を背に、人影は
その視線の先には、どこかの邸の塀を乗り越えようとする数人の人影があった。
よくいる夜盗である。
屋根の上を翔けていた人影は、懐から人数分の長い針を出すと同時に夜盗達に投げ放つ。
暗闇の中にも関わらず、同時に放たれた数本の針は、寸分の狂いもなく夜盗達の急所に突き刺さった。
その瞬間、夜盗達はバタバタと意識を失い倒れていった。
衣冠直衣を優雅に着こなした少年が、洗練された宮殿の長い通路を渡って行く。
少年ながらに堂々とした威厳を醸し出しす彼が着いた先は父の許。
彼の父は時の帝、そしてその息子である彼は東宮、皇太子であった。
帝の第一皇子である彼は、元服してから父帝の政務を手伝い始め、今では宮中と都の治安維持の一切を任されている。
東宮の懐には、毎朝届く報告書が収められている。
その内容は、日々の犯罪検挙数が主だが、各役所の裏事情や貴族達の動向から、都に住む庶民の暮らしに至るまで、多岐に渡っていた。
その情報を、東宮は父帝にも奏上するのが日課だ。
報告書を毎朝届けているのは、彼を含めてほんの一握りしか存在を知らない、彼に忠誠を誓う者。
極秘の存在であるその者は、主が一人でいる時にしか姿を現さなかった。
公に仕える官吏ではなく、東宮個人に忠誠を誓った小さな忍。
同時に、身分や立場に捕らわれない、気の置けない友人とも言える仲であった。
ある日の深夜、宮中の厳重な警備をものともせず、東宮御所の中心部、東宮の寝所に忍び入る気配があった。
「鷹男か?」
気配は忍び入った者が意図的に出したもの。
主へ自分の訪いを知らせるものであると同時に、信頼の証でもあった。
「東宮、起きておられましたか」
灯りは消えていたが、まだ眠っていなかったので気付くことができた。
「もう女房もいねぇから、いつも通りでいいぜ」
東宮がくだけた口調になる。
東宮を訪った人物は一瞬黙して周囲の気配を探り、本当に誰もいないことを確認した。
「そうか。んで氷雨、こんな夜更けに起きてるなんて珍しいな。どうかしたか?」
天下の東宮にタメ口で、しかもあまりいいとは言えない口のきき方で、その人影は話し出した。
闇色に近い濃緑色の、
話し声は子どものものである。
暗闇の中なので東宮氷雨にその子どもの表情は殆ど見えないが、夜目が利く鷹男には、はっきりと主である氷雨の表情が見えていた。
長い髪を頭の上の方で束ねており、服装から男童であると窺えるが、まだ幼さを残す小さな忍は、男とも女ともつかない、中性的な美しい顔立ちをしていた。
この突然現れた子どもこそ、東宮氷雨に個人的に仕える忍であり、気心の知れた友でもある、大陸帰りの武術の達人、鷹男であった。
「お前を待っていた。たまには顔くらい見せやがれ。いっつも報告書だけ置いてきやがって」
不機嫌そうに発せられた、こちらもいいとは言えない口のきき方で氷雨が応える。
この口調から分かるように、将来賢帝と名高い東宮の本性というか、性格はこんな感じであった。
「毎日来てんだろ。いつも健やかな寝顔だぜ?」
「俺様が寝てからじゃお前に会えねぇじゃねぇか」
天下の東宮をからかう鷹男。
普通なら不敬罪である。
「なんだ氷雨、俺様に会いたいのか?」
「なっ……んな訳ねぇだろ」
動揺する氷雨の様子から図星であることが分かり、面白そうに鷹男は笑う。
「そんならそう言えばいいじゃねぇか」
鷹男が氷雨に仕え始めて2年弱程だが、鷹男は主人の性格をよく分かっていた。
唯我独尊で自信家だが、眉目秀麗にして頭脳明晰でもあり、宮中によくいる腹に色々抱えていそうな貴族達にも一歩も引けを取らない、一国を統治する資質を具えた王の器を具えていた。
とはいえまだ15歳と若く、信頼のおける親しい者には幼さを覗かせることもある。
鷹男は、東宮という高貴な地位にいるだけではない理由で周囲に一目置かれているこの少年の、子どもらしい一面を知る数少ない一人だった。
「それで? まさかその年で一人寝が寂しいとか言うんじゃないだろうな? 知ってんだろ、俺がいつもどこにいるか」
「そんな訳ねぇだろ。それとも、お前は俺様と話したくねぇのか?」
これが次期帝と配下の会話だろうか? と聞いている者が居たとすれば耳を疑いたくなるような内容である。
まるでツンデレカップルのようだ。
しかし、同性愛を否定する訳ではないが、氷雨は勿論のこと、鷹男も男である。
少なくとも氷雨にとっては、だが。
「そうは言ってないだろ。お前は俺の心から信じられる友だ。一緒に居たくない訳がない」
誰をも魅了するであろう、艶やかな心地良い声で真摯に告げれば、高貴なる少年は無自覚にも頬を染めた。
微かに速まった自らの胸の鼓動を不思議に思いながらも、冷静さを取り繕う。
「そうかよ。じゃあ傍に居やがれ。俺様の命令だ」
かなりの上から目線だが、鷹男は動じない。
氷雨はそういう生まれだし、そういう性格である。
「しょうがねぇな。ほら、傍に居てやるからもう寝ろ」
まるで子どもに対するような、というか同じくらい上から目線な発言で促すと、氷雨は素直に御帳台の中に戻って行った。
鷹男も続いて中に入り、横になった氷雨の傍らに片膝を立てて座る。
話したり触れたりはしなかったが、信頼できる者の温もりがすぐ傍にあることで安心したのか、高貴な少年はやがて眠りに落ちて行った。
(やれやれ、どっちが年上なんだか。ま、坊ちゃんだからな)
東宮氷雨は鷹男より3つ年上の15歳。
小さな子どものように大人と一緒に寝る年頃でもない。
寧ろ妃を娶って共寝してもおかしくない、というよりこの時代では普通である。
だが氷雨には、妃はいない。
鷹男は氷雨が完全に眠ったのを確認すると、御帳台から出てその上の梁の上にふわりと舞い上がる。
ここが鷹男の深夜のポジションで、彼は毎晩ここで主の不寝番をしているのだ。
夜明け前後に貴族達が起き始めると、鷹男の一日は終わりを告げる。
氷雨が起きる前に氷雨宛の昨夜の狩り(夜盗等の犯罪者を倒した数)や市井情報等の報告書を机の上に置くと、東宮御所を後にした。
都の東側には、広大な森が広がっている。
通称『神の森』と呼ばれているその森は神域とされていて、誰も立ち入らない未開の森だった。
鷹男はそれを利用し、神域の森の中に自分で小さな小屋を建てて自活している。
修業時代に培ったありとあらゆる知識技術を駆使し、小さくても一人で暮らすには十分な小屋と、様々な武器や道具を収納する物置、周囲に薬草を育てる畑を、清水が湧き出る低い崖の麓に造っていた。
鷹男は東宮御所から森の中の自宅に帰って来ると、身を清めたり食事を摂ったりしてから眠りに就く。
午前中が鷹男の主な睡眠時間だが、その時に抱えている任務があれば、寝ずに調査や氷雨の警護等の活動を続ける。
若干12歳にして、武術をはじめ実に多くの技術をもつ鷹男の身体能力や感覚神経は、常人のそれを遥かに逸していて、数日の徹夜など軽くこなせる程の体力を誇っていた。
午後に目覚めると、武器や道具、畑の手入れをしたり、日常の鍛錬をしたりする。
それが終わると都に出て、市で必要なものを調達したり、市井の情報を集めたりする。
その時は庶民の男の子の姿で一般人を装っている。
聖徳太子のように複数の声を同時に聞き取る能力にも長けているので、ただの世間話は勿論、一般庶民があまり近づかない場所に行き、悪人の情報も入手している。
日没が近付き、辺りが暗くなってくると、鷹男の“勤務時間”である。
京の都は治安が悪い。
闇に乗じて夜盗・強盗・追剥等の犯罪者達が跋扈し始める。
この無限に湧き出る無法者達が鷹男の獲物。
顔を覆面で隠し、薄闇に紛れて宙を翔けながら、よく利く夜目とレーダーのような気配を察知する力で無法者を捕捉する。
気取られないように近付くと、睡眠薬をたっぷり塗った針を投げ、寸分の狂いもなく正確に急所を刺す。
人数が多いと流石に気付かれ、一戦交えることもしばしばあったが、鷹男は恐ろしく強かった。
そもそも一戦交えるという言葉を使うほどの戦闘にもならないのだ。
殆ど一撃か二撃で的確に相手の急所を突いて気絶させられるので、一瞬で終わってしまうので、相手は何が起こっているのか分からないまま気絶し、牢屋で目を覚ますのである。
そんな“狩り”を数時間やって、獲物の数と場所を書いた報告書を二通書き、一つは検非違使庁(※≒警察)に、もう一つは東宮に持っていく。
因みに鷹男は、純粋に都の治安を思う正義の味方ではない、と自認している。
自分の鍛錬のため、忠誠を誓う東宮のため、という一石二鳥な考えで悪党を狩っているに過ぎない。
だが結果として都の治安は鷹男が“狩り”を始める前よりも格段によくなっていた。
都の治安の向上は、現代でいう警察組織のトップである東宮氷雨の功績になり、氷雨の株が更に上がるので、鍛錬相手が雑魚でも不満はない鷹男である。
都の掃除が終わると、次は宮中に向かう。
厳しい警備が敷いてあるとはいえ、侵入者が皆無というわけではない。
更に言うなら、宮中での犯罪は、多くが内部の者による犯行である。
こっちの掃除や情報収集の方が、より難易度が高いのだが、鷹男にとってはさして負担でもなかった。
忍恋(しのびごい) 安平美月 @vzk01535
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