8.婚礼(三)
翌朝。
正清さまは何事もなかったように、いつも通り早起きをして、旅用の身支度をされた。
真新しい紺色の直垂をお召しになった正清さまは、今朝はひときわすっきりとして涼やかな殿御ぶりである。
昨晩がかなり遅かったのに、正清さまはいつも通り、……というかいつもよりご機嫌がよろしいようだった。
どうして殿方っていうのは、ああいう事のあとすぐに何事もなかったかのように、健やかに眠れてしまうものなのかしら。
結局、明け方までほとんど眠れなかった私は、少しだけ恨めしい思いで正清さまを見上げる。
「どうした?」
「いえ、なんでも」
まともに視線が合ってしまい、恥ずかしくなって目を逸らす。
どうして、殿方というのはああいう夜を過ごした後でも、何事もなかったかのように平気なお顔でいられるのかしら。
それとも世の夫婦は皆そういったもので、私もそのうちには馴れるのかしら。
お支度がすべて整い、いよいよ御出立という時になり、私は両手を床につき、深々と頭を下げた。
「お気をつけていらして下さいませ。道中のご無事をお祈り致しております」
「うむ。そなたも息災でな」
正清さまは言われて、この五日間ともに過ごした夫婦の居間をあとにされようとしたが、私が後ろに続こうと立ち上がると、ふいに立ち止まって振り返られた。
「佳穂」
名を呼ばれて、すっと肩を引き寄せられる。
少し驚いたけれど、されるがままにおとなしく胸元に身を預けていると
「義朝さまは、現在は東国、鎌倉の地に本拠を置いておられるが、近いうちに中央に官職を得て、都へと上がられるおつもりだ。その折には、そなたもともに京へと連れてゆく。そのつもりでいよ」
と、正清さまがおっしゃられた。
「は、はい」
頷いたとたんに、自分でも驚くほどの寂しさが急にこみ上げてきた。
「いかがした?」
正清さまが訝しげに言われる。
そのお声を聞いた途端、ぽろっと涙が零れて頬を伝った。
「どうした、どこか痛むのか?」
「い、いいえ」
私は、慌てて袖で目元を押さえた。
「申し訳ございません。……ただ、殿があまりにお優しいことを仰るから、お側を離れるのが寂しくなってしまいました」
「佳穂……」
「ご一緒に、ついて行けたらいいのに、などと思ってしまって…」
俯きがちにそう言うと、正清さまは苦笑されて、私の髪を撫でた。
「子供のようなことを言う。昨夜は随分と頼もしいことを言っておったのに」
「殿がこんな、お別れ際になってお優しくなさるからです……って、きゃっ!」
ふいに両腕で抱えるように抱き上げられて、私は小さく悲鳴をあげた。
「袖のうちにでも入るものなら入れてゆきたいが、さすがにそうもいくまいな」
「殿……」
「年のうちには無理だが、年明けて春頃にはまた参る。それまでよい子で待っておれ」
小さな子をあやすように言われて、さすがに私は頬を膨らませた。
「子供扱いしてらっしゃる」
「子供ではないか。出立間際になって、むずがって困らせる」
「では、『まぁ、やっと御出立』とでも言って、手を打って喜んだ方がよろしゅうございますか?」
「いや、それも困るな」
正清さまは苦笑して、私を床におろした。
「では、行って参る」
困ると口では言いながら、それ以上は宥めたりなさらずに、あっさりと言われるのが正清さまらしかった。
「はい。お気をつけて」
それ以上、駄々をこねても仕方がないので、私も素直に頷いた。
館の門のところまでお見送りに出ると、すでに正清さまの従者の人が馬の用意をして待っていた。
ちなみに義父上の通清さまは、婚礼の翌日。
京へ向けて旅立たれている。
正清さまは、今から義朝さまのおられる東国へと向かわれるのだ。
婿君の御出立ということで、父さまと母さま、親致(ちかむね)兄さまもお見送りに出ていらした。
父さまと正清さまが挨拶を交わしている間。
私は門の脇に咲いている百日紅の花を見ていた。
今を盛りと、門に枝下かかるように咲き誇っているその花は、着物の色にしてみたいような艶やかな紅色だった。
私は思いついて、手を伸ばし一枝を折りとった。
いよいよ、御出立の時。
馬に乗られる直前、正清さまに私はその枝を差し出した。
「これは?」
「鮮やかな紅色は魔を払うと申します。道中のお守りにお持ち下さいませ」
「ああ。貰っていこう」
正清さまは無造作にそれを帯の間に挟み、ひらりと馬に跨られた。
紺色の直垂に鮮やかな百日紅の花はよく映えて、私は満足してそれを見上げた。
「では殿。道中のご無事をお祈りしております」
「うむ。そなたも息災で。 くれぐれも夜中に厩を覗きにたったりせぬようにな」
「まぁ!」
真っ赤になった私を見て、声をたてて笑って。
正清さまは御出立になられた。
秋の気配が次第に深まろうという、久安四年の七月のことだった。
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