6.婚礼(一)
日が落ちて刻限がきた。
白無垢の婚礼衣装に身を包んだ私を見て、槙野は何度も袖で目元を押し拭った。
「姫さま…お美しゅうございます……まことにお美しい……」
言うなり言葉を詰まらせてしまった槙野を見て、私の目にも涙が浮んできた。
その途端。
「お化粧が落ちまする!お泣きになるのは婚礼が終わってから後になさいませ!!」
と、叱りつけてきたのは、もういつもの槙野だったけれど。
婚礼は母屋の大広間で行われる。
まずは、父さまが正清さまと、舅になられる通清さまに挨拶にあがり、式場にご案内する。
主だったお客人が席につかれ、正清さまが屏風の前の主賓席に着座されるのを待って、私は槙野に手を引かれて広間に入っていった。
薄い白絹の
広間に一歩、足を踏み入れた途端、ざわめきがピタリとやんだ気がして緊張してきた。
槙野に導かれて、婿君の隣りに着座する。
言われた通り、俯いているのでご様子は分からない。
もっとも、言われていなくても、とても顔など上げられなかっただろうけど。
白絹の
その後。
盃を交わす間も、客賓の方々がそれぞれ祝辞を述べられる間も、私はひたすら俯いて固まっていた。
やがて、儀式は終わり座は宴席にと変わった。
婿君の正清さまは、かわるがわる座にやってくるお客人がたの注がれるお酒を順々に盃に受けていらっしゃる。
花嫁である私は、座をまわってお酒を注いでまわることになっている。
この時も、槙野がかたわらに付き添って、次にお酌をする方を教えてくれる。
言われるままに移動して、会釈をし、お酒を注いでいく。
五、六人ばかりの方にお酌をした後、導かれるままに次の方の前に座り会釈をすると、頭上から聞き覚えのある声が降ってきた。
「これは何と可憐な花嫁だ。息子は果報者だのう!」
義父上の通清さまのお声だった。そのお言葉に顔を赤らめるひまもなく。
「これでは、あと一晩が待てずに押し倒したくなるのも無理はない。のう。正清!!」
広間じゅうに響き渡った大声に私は思わず酒器を取り落としそうになった。
「父上…。もうお酔いになっておられるのですか」
上座から正清さまのお声がかけられる。
「なに、まだ舌を湿らせてもおらぬわ」
義父上は、すっかり上機嫌であられるようだった。
硬直状態の私を覗き込むようにして、
「長田殿の娘御は、評判の器量良しだという家中の噂を聞いてな。忠致どのがまだどこにもやりとうないと
渋られるのを無理に願うてもらい受けたのだが、これは噂に違わぬ美しさじゃ。御曹司へのご奉公一筋で朴念仁のおまえでも、さすがに心が動いたであろう」
そう仰ると、豪快に笑われた。
正清さまは、小さくため息をつかれただけで何も仰らない。
私は真っ赤になってひたすら俯いていた。
「通清どの。いい加減になされよ。花嫁御寮が困っておられる」
お客人の一人にたしなめられて
義父上は笑いながら
「いや。かように美しい娘が出来たと思うたら嬉しゅうて。つい冗談が過ぎてしまったわ。許されよ」
と明るく仰った。
私はお酌の続きに戻ったが、赤くほてった頬はおさまらないままだった。
やがて宴も果てた。
招待客の方々もそれぞれ引き上げられて、今私は一人きりで寝所で正清さまがいらっしゃるのを待っている。
(さすがに緊張する……)
ただでさえドキドキする状況なのに、私の場合昨晩のこともあるから尚更である。
母さまは、「大丈夫よ」と請け合って下さっていたけれど、そしてその時は私もそんなような気になっていたのだけれど、よくよく考えてみれば大丈夫なわけがない気がする。新婚早々、お叱りを受ける覚悟はしておいた方がいいかもしれない。
しばらくして、槙野に案内されて正清さまがお渡りになった。
私はそれを教えられた通り、床に指をついてそれをお迎えする。
お座りになられるのを待ってそろそろと顔を上げる。目は依然として伏せたままである。
「どうぞ、お休みあそばしませ」
槙野が退がっていくと、室内には私と正清さまの二人だけが残された。静寂が訪れる。
(どうしよう…)
二人きりになってみると、あらためて昨晩のとんでもない出来事の一部始終が思い出されて変な汗が滲んでくる。
お詫びを申し上げた方がいいとは思うのだけれどこの場合、婿君より先に口を開いたりしてもいいものかしら。それともあちらから何か仰るまで待っていた方がいいかしら。
迷いながら、じっと俯いていると
「お疲れであろう」
正清さまが口を開かれた。
昨晩のあの騒ぎを別にすれば夫となる方からかけられたはじめての言葉だった。
「あ、いえ…」
蚊の鳴くような声で答えると正清さまがふっと笑われる気配がした。
「昨晩は遅かったであろうし、今朝は早かったのだろう。そろそろ眠くなってきたのではないか?」
私は慌ててその場に 平伏した。
「さ、昨晩は、まことに……まことに失礼を致しましたっ!」
「俺の方こそ、怖がらせてしまったな。怪我などはしておられぬか?」
「は、はい。それはもう、おかげさまで…」
自分でも何を言っているのかよく分からない。
ただ、頬がかあっと熱くなり赤くなっているのが自分でも分かる。
「先刻は父が失礼した。悪気はないのだが、冗談が好きな人で酒が入ると、それが少々度を越すことがある。許されよ」
「そんな…許すなどと…」
もう一度、手をついて深々と頭を下げると
「佳穂どの」
正清さまのお声とともにお手が肩に触れた。反射的にびくっと体が震える。
「顔を、上げられよ」
おずおずと顔を上げると、伸ばされたお手の指先がそっと頬に触れた。
「やっと顔が見えた」
そう言われると、正清さまは小さく笑われた。
「そういうものだとは申せ、婚礼を挙げるまで互いに顔も知らないというのはよう考えたら妙なものだな」
「は、はい…」
顔は上げたものの、とても目は合わせられず視線は床の方に落としたままの私に対して、正清さまの方ではじっと私の顔をご覧になっていられるようで頬がよりいっそう熱くなってくる。
深窓のお姫様育ちというわけではないけれど、それでも身内以外の男性からこんな風にまじまじと顔を見られたことなどなくてどんな顔をしていればいいのか分からない。
恥ずかしさにたえかねて、うつむきかけた時。ふいに両肩にお手がかかった。
そのまま、引き寄せられて気がついたら腕のなかに抱きすくめられていた。
分かっていたこととはいえ、まさかいきなりそう来るとは思っていなくてとっさに身を引きかけるのを やや強い力で引き寄せられてお膝の上に抱き上げられる。
「昨夜は夜露に濡れて風邪をひいたりしなかったか」
大丈夫です、とお答えしようと思うのだけれど声が出ない。私は黙ってこくこくと頷いた。
「佳穂」
正清さまが私の名を呼んだ。
「疲れたであろう。……今宵はもう休もう」
低い声音でそう言われて、髪や背を優しく撫でられる。
私はもう頷くことさえ出来ずにただ、じっと身を固くしていた。
背中にまわった腕に力がこもり強く抱きしめられる。
鼓動が一気に騒がしくなって正清さまに聞こえてしまいそうだ。
「ただ、すべて婿君におまかせしてじっとしていらっしゃいませ。くれぐれも、お騒ぎになったりなさいませぬように」
槙野に繰り返し言われた言葉が頭のなかでこだまする。
私はぎゅっと目を閉じて、抱きしめられるまま正清さまのお胸に顔を埋めた。
灯がかき消された。
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