第五十三話
雪獅子は跳ぶ。まるで名手がつがえて放った矢のように。
ヤハジャは自身に何が起こっているのか理解できなかった。ときどき顔や体に枝葉が当たっていたが、それを気にする余裕などない。目に映る景色はこれまで見た何よりも速く、速く、後ろの方へ流れていく。
「陛下、口を閉じて下さい。舌を噛みますよ」
呼び掛けられて我に返り、ふと前方を見る。
陸が途切れているように見えるが、まさか。
「わ、あああぁっ!? や、やめっ」
「大丈夫ですから口閉じて下さい! 跳びますよ! いち、にの、さんっ」
合図に合わせて、口と共に目まで閉じる。浮遊感ののち、着地と己の重さからなる衝撃。
「あ……あ……」
「すぐ着きますから、もう少しだけ我慢して下さい」
「なっ、のっ………………おい!」
疑問と恐怖が突き抜けて逆に冷静になったヤハジャは、雪獅子の背に乗る娘に向かった声を張り上げた。
「一体何の真似だ!? お前っ、こないだ会ったファンロンのお嬢ちゃんだろわかってんだぞ!」
「違います」
「嘘つけ軍の奴らは初めましてだったからおめェが誰だか見抜けなかったとしてっ、おゎっ! ……いきなり跳ぶな
「また跳びますよ、はい、いち、にの、」
「後で覚えとけよ小娘ただで済むと思うな」
「さんっ!」
「よぉぅっ!?」
また雪獅子が大きく跳び、ヤハジャはぎゅっと目と口とを閉じ、体もできるだけ小さく縮める。滞空時間が長い。
「いっ……ぅわあ!?」
文句を言う間もなく、また弾みをつけて上へと引き上げられる感覚。ヤハジャは目を
「陛下。到着しました」
そっと、目を開ける。
そっと、下ろされる。
目の前には、顔の左半分を仮面で覆った赤い髪の男と、親友、そして約十年ぶりに見る腹違いの妹が立っていた。
その周囲には、武器を
敵の陣中だ、とヤハジャ・デアサは悟った。
ハンジュが前に出る。
ヤハジャは何と言葉を掛けるべきか考えた、が、何も出てこない。
と、
「あっははははははは!」
ハンジュは大声を上げて笑うと、ヤハジャの前でしゃがみ、
「久しぶりだねヤハジャ。どうだった? 雪獅子に運ばれた気分は」
そうだ、敵陣でたった一人――そうか、そういうことか、とヤハジャは
「あ……は、そっか、そうだな、こうした方が殺しやすいもんな。俺の首を
「何言ってるの、殺さないよ」
「は?」
「ここはクォンシュだよ、こんなところで兄妹喧嘩したらリュセイに迷惑かかっちゃうじゃないか」
「……クォンシュ!? そんな、えっ」
「あの辺りから来たんだよ」
ハンジュが指す方には、遠く見える山々の連なり。クォンシュとデアーシュとの国境は山にある。
「…………うそだろ」
馬を全力で走らせても一刻はかかりそうな距離だ。さっと
「お初にお目にかかります、陛下」
別の声に振り返ると、赤い髪と仮面の男が膝をつき、礼をした。
「クォンシュ帝国ウェイダ領領主、トウキ・アヴィロと申します。皇妃殿下……ハンジュの従兄にあたります。ようこそ、ウェイダ領へ」
「トウ、キ、アヴィ…………あっ、雪獅子っ……お前かお嬢ちゃんの旦那はっ!!」
すたっ、と軽快に立ち上がり、ヤハジャはトウキを
「おッめェなぁ! ちょっと嫁を自由にさせすぎなんじゃねえのか!? 何女神
「え、えぇと、は、はは」
食って掛かられてトウキは困惑して苦笑いつつ、少し驚いた。自分の身分と容姿を知って尚全く
「別に騙ってないですよ」
雪獅子の方のスニヤから降りて
「私はただ、元の姿を隠して名乗らずにいただけです」
「屁理屈言うなそんなカッコで雪獅子乗るとか狙ってやったとしか言いようがねえだろ! ちゃんと
呼ばれたと思ったか、スニヤが近付いてきて連れてきた異国の客人に頭を押しつけた。
「ちょ、なっ……おまえっ、何だ!」
明らかに敵意はなく、甘えてくる獣に罪はない。つい両手で
「……フカフカだなお前……」
珍しい客人に構ってもらえるスニヤは嬉しそうに喉を鳴らし、更に全身を使ってぐいぐい押してきた。その力強さによたついたヤハジャの体が、
「おわっ」
ハンジュにぶつかる。
ハンジュも、隣に立ちスニヤを撫でた。
「女神様が、『死ぬな』って言って連れていった――これで私は貴方を殺せなくなった。そんなことしたら、私は神の意志に逆らった悪い王になっちゃう」
そういうことだったか――ヤハジャは舌打ちした。
「そんな、都合のいい話」
「
ね、と投げかけられたスニヤは、うるるる、とご機嫌な声を出した。
「『悪い兄を
ヤハジャの手が止まる。不満そうな顔だ。
「……せっかく、ずっと頑張ってきたのに」
「ごめんね。でもさ、」
止まったままの兄の手に、妹の手が重なる。
「私、兄様のこと殺したくないよ。……死んでほしくないよ」
揺れ、小さくなっていく声。
それまでずっと外に出すのを我慢してきた気持ちが、溢れてこぼれ落ちていく。
「何で相談してくれなかったの。何で一人で決めちゃったの。父上は、私のこと支えてやれって言ってたのに。何で支えてくれようとしないの。何で離れていっちゃおうとするの。何で死のうなんて考えちゃうの。安易なんだよバカ」
「だ、って、さ、俺、」
「もう父上いないんだよ? 誰も何も教えてくれないんだよ? たくさんの人たちの命とか生活を背負うんだよ? ほんとはちょっと怖いんだよ、一緒にいてよ」
「お前な、何いい歳して子どもみたいな」
「一緒にいてくれるって約束したでしょ、生きてよ兄様のバカ」
睨むハンジュの鮮やかな色の目から生まれた雫が、ぽろぽろと頬の曲線を伝って転がり落ちる。
「バカ」
「何度バカって言うんだよバカ」
あぁ、そうか。
妹は強いと思っていた。
実際自分なんかより、ずっとずっと強い。ずっとずっと賢い。
それでも。
衣の長い
「ったく。お前に生きろって言われたら、生きるしかねえだろうが」
「
「ニセ女神に言われてもな」
目が合ったニセ女神が満足そうににこにこしているので、つられて笑ってしまう。
「……で? ここまではいいとして? この後どうすんだ陛下。このままデアーシュに戻っても、民はみんな俺のこと殺せって言うぞ。俺を殺すより難しい道選んじまったんじゃねえか?」
離れたハンジュは、
「そりゃあ、何とかするさ。王だからね」
自信満々の笑顔を向けた。もう涙は出ていない。
「さて。兄様にはもうちょっと姿をくらましていてもらわないといけない。時が来たら連絡するから、それまでここで待っていて」
「え、ここ、で? って、クォンシュじゃねえか」
ヤハジャの疑問に、進み出たトウキが
「陛下……いや、殿下には、しばらくうちで待機していていただきます」
「え、何で」
「壮大な物語の締めくくりのために」
雪獅子公のその笑みを見たマイラは、
(あ、)
この前の皇帝陛下に少しだけ似ている、と思ったのだった。
◎ ◎ ◎
デアーシュ初の女王ハンジュ・テー・デアサは、先王亡き後異母兄に王位の継承を妨害され、クォンシュの皇帝の元に嫁がされたが、身勝手な振る舞いが多く国を乱した兄を廃し王位と国を取り戻すために立ち上がり、見事その悲願を果たした勇敢な王であった。
その、ハンジュの王位奪還に際しての異母兄のことについては、さまざまな話が残されている。
妹のハンジュに討たれたという説。
国外に逃れたという説。
また、少し不思議な話もある。
ハンジュの率いる軍勢と衝突したときに、ハンジュの異母兄は雪獅子に跨がった女神スニヤに攫われた。主を失った異母兄の軍勢は敗れ、ハンジュがデアーシュの都に帰還し即位したが、その直後に目の前にスニヤが現れ、異母兄を置いていった。ハンジュは「神が
何故現れたのが雪の女神スニヤとされているのかは、不明である。
戦場になったのがデアーシュとクォンシュの国境である山岳地帯で、その近くにスニヤを
女王ハンジュの異母兄については、これより後、何の記録も残されていない。
◎ ◎ ◎
「やっと終わったな」
普段は
「旦那様」
「ん?」
「その、最中は必死でやっていたんですけど…………私があんなに介入してよかったんでしょうか」
自分のようなことを言う妻に、トウキは思わず笑った。
「どうした、珍しい」
「いやぁ……だって……下手をしたら私デアーシュの歴史に残ってしまうようなことをしちゃったんじゃないかなって……私であって私ではないとはいえですね……」
「問題ない。ちゃんとスニヤの祠にも参ってきたし、そもそもお前の考えではなくリュセイの入れ知恵。責めがあるならあいつが全部負ってくれるさ」
マイラがデアーシュの将軍ノウルをハンジュの元に送り届けた日、皇帝リュセイは言った。
「ヒトがやるから文句を言う奴が出るんだ。だったら、神様のせいにしてしまえばいい」
その場にいた全員が理解できずに顔いっぱいに疑問を呈したが、リュセイは更に続けた。
「マイラどの。前にトウキから聞いたんだけど、変装用の術具を使ったときスニヤと同じ色になったそうだな」
スニヤと言われて一瞬雪獅子の方を思い浮かべてしまったが、彼が言っているのは女神の方だとすぐに思い直す。
「あ、はい」
「トウキのところにも丁度よく雪獅子がいる。うん、ものすごく丁度いい。そんなわけでだマイラどの、ちょっとスニヤになってヤハジャを攫ってくれないか」
にこにこしながらとんでもないことを言う皇帝陛下に、マイラは戸惑った。
「えっ!?」
「神隠し、ってやつだ。神に攫われてしまえば、誰にも、どうにもできなくなる、つまり神が相手じゃどの国も介入できない。で、ハンジュが即位した直後に、また女神様が現れて攫ったヤハジャを送り届ける。……死地にあったはずの男を神が連れ去って、全てが終わったら元の場所に返す。神に匿われていた奴を殺せなんて言う不敬者はまずいない、これで劇的で壮大で神秘的な物語の出来上がり、ってな。どうだハンジュ、デアーシュ初の女王が後世語られる逸話としてはなかなか立派なもんだろ?」
あまりにも大胆な作戦に、ハンジュは呆れつつ――笑った。
「リュセイ。それ、ほんとにイケると思ってる?」
「俺ならイケるけど、お前はどうだろうな」
その挑発的な言葉の中には、信頼と、これから国の頂点に立つ者への声援も含まれているのがわかる。
「大好きな兄様が大事なら何とかして守れ。そのくらいできないんじゃ、国主は務まらないぞ」
ハンジュの目に燃えるような強い光が宿った。
「ああ、じゃあ、やってやろうか!」
「それにしても人使いの荒い陛下どもだ」
「戦らしい戦にならず、皆さんのお役に立てたのなら本望です」
「マイラ、リュセイが言っていた礼は好き放題にふんだくってやっていいからな。あいつは貧乏ぶっているが父上に育てられたから個人で結構貯め込んでいるぞ」
「今のところはそんなに大きなほしいものはないので、できたら奏上してみますね。…………そんな、ことよりも、です」
改めて正座し、真っ直ぐ見つめる。対するトウキもつい
「どうした」
「あの、あのですね」
「うん」
「先に謝っておきます。ごめんなさい」
「んゎっ!?」
応えるが早いか、マイラがトウキに飛びついた。
その勢いのまま、二人で倒れ込む。
突然のことにトウキは言葉を失った、が――力一杯しがみついてくるマイラの体温に我を取り戻し、そっと、背に手を添える。
「どうした、何か、あったのか」
「旦那様」
「ん」
「何だかものすごく、久しぶりな気がします。こうするの」
考えてみれば、
マイラの腕に、力が入った。
「もう、こんなこと、ないといいですね」
今回は運良く何とかなった、が、一歩間違えれば大きな戦になっていたのは確かだ。
「陛下が旦那様に何度も戻ってこいって
「そう、かもな。……でも、役目、だからな」
「はい」
「……お前は、都へ戻れとは、言わないのか」
「共に生きましょうって言ったじゃないですか」
見合わせたその顔は、夜なのに陽光のようにあたたかく輝いて見える。
「貴方がここで生きるというのなら、私もここにいます。妻ですから。それに、私、ここが――ウェイダが、大好きです」
「…………そうか」
「はい。……旦那様」
「何だ」
「涼しくなってきたら、
「え…………う、ん、」
「やっぱり都に行くのは嫌ですか?」
「…………うん」
「ふふ。仕方のないひとですねぇ」
「すまない」
「いいんですよ」
ふたりは、ぎゅう、と抱き締め合った。
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