第145話 教養授業33限目。鈴音先生、【運】を語る。

俺(大橋)にとって、嵐の様に大変だった期末テストも終わり、

夏休み前の平穏なひと時が帰ってきた。

そんな金曜日の3限目の授業が終わると、

短い休憩時間の後、鈴音先生が教室に入って来る。

4限目、いよいよ7月最後の教養授業の始まりである。

起立!礼!。今日も鈴音先生の透き通った優しい声が響く。


「今日は夏休み前でもあるので、ちょっと気分を変えて、2022年の

イグノーベル経済学賞、その受賞論文の詳細についてお話してみたいと思います。

これは【運】というものが人生にどれ程の影響をもたらすのか?

詳しく研究したものですね。

みなさんもちょっと知っておきたいと思うのではないでしょうか?


これはイタリアのカターニア大学のアレクサンドラ・プルキーノ氏らのチームが、

コンピュータ上で仮想の現実世界を作り、これをシュミレートした研究ですが、

実験では、まず1,000人の国民が暮らす仮想の国を構築します。

このシュミレーション開始時、1,000人の国民は全員20歳という設定で、

全員同じ額の資産を持っています。

その一方、才能の数値には個人差を作ります。

最も才能がある国民の才能値は0.9、最も才能のない国民は0.3、

その分布は正規分布とします。

正規分布とは、真ん中の数値である0.6の国民が最も多く、

数値が偏る…すなわち0.9とか0.3の数値の持ち主は極少ない…。

現実世界と似た、山なりの能力分布にする訳ですね。


さて、この仮想世界に住む国民は、半年に3回、

イベントに遭遇します。そのイベントは次の3つです。

1.平穏…特に何も起こらない。最も多く発生するイベント。

2.幸運…持っている資産を2倍にする。その際、才能の係数を掛ける。

3.不運…持っている資産を強制的に半分にする。


幸運を得た時だけ、才能の係数を掛けるので、この世界における

才能とは、幸運によってもたらされたチャンスを生かす力と定義できますね。

但し、1から3のイベントはランダムに発生しますので、

いくら才能があっても、幸運に見放されるケースはあり得ます。

3の不運は、現実世界における不慮の事故や病気、本人の不可抗力に

よる不幸を意味しますので、係数は掛けない訳です。


さてその後、この仮想世界の1,000人の国民は、40年間働き続けます。

現実の労働期間と同じだけ働く訳です。

そうして最後に1,000人の国民の最終的な資産格差がどうなっているか確認すると、

それは経済学で言うところの、パレートの法則に忠実なものになっていました。

このパレートの法則を簡単に要約すると、

【全体の8割を上位2割が保有する】という事です。

総資産の8割を上位2割の国民が保有するという、現在の資本主義世界と

ほぼ同じ格差社会になったのですね。

この結果は何度シュミレートを繰り返しても同じだったそうです。


では、このシュミレートで1番富豪になった国民の才能値はどうだったのか?

というと、何度やっても、中央値の0.6か、それを若干超える程度だったそうです。

すなわち、最も多くの資産を持つ者は、最も才能に恵まれた者ではなく、

【最も幸運に恵まれた、平均的な才能の者】であるという事です。

成功者の才能が中央値に近いのは、平均で見るとそのくらいの値の人が、

人数的に一番多いからでしょう。


ちなみにシュミレーションで毎回1番の貧民になるのは、

才能値はあまり関係なく、【最も不運に恵まれた者】でした。

このシュミレーションの結果をひと言で言ってしまえば、

【運は才能を凌駕する】事を、証明してしまったという事です。


実際の現実世界は、パレートの法則以上の格差社会…。

世界で最も資産を持つ上位8名の方が、下位36憶人よりも

資産が多い…という過酷さなので、

現実世界ではより運の要素が重要と言えるかも知れません。


また、2016年にノースイースタン大学が行った調査によると、

2,887名の物理学者を調査した所、彼らの発表した有益な物理学上の発見や論文は、

その学者のキャリアの長さとは殆ど関係がなかったそうです。

物理学の重要な発見は、長年の研究よりもむしろ、偶然の幸運によるものである…。

アインシュタインが相対性理論を思い付いたのは26歳の時ですし、

ペニシリンやグラフェン、コカ・コーラ、電子レンジのマグネトロン、

この様に偶然の幸運の結果、発見された技術やアイデアは枚挙に暇がありません。


カターニア大学のアレクサンドラ・プルキーノ氏のチームは、これ以外にも、

昇進はランダムにした方が良いのか、実績に基づいて行った方が良いのか?や、

研究費は平均的に配った方が効率的なのか、それとも

実績に基づいて配った方が効率的なのか?などの研究も行っていますが、いずれも、

【実績に基づいて昇進を行ったり、研究費を配るのは、良い成果をもたらさない】

という結論になっています。


つまり、実績というものですら、運の持つ強力なパワーには敵わないという事です。

過去に大きな実績を上げていたとしても、それが幸運にも続く確率は小さい…。

という事を示唆しているのですね。


ここで、なんだ人生なんて、所詮運じゃないか?と皆さんは思いませんでしたか?

そんな風にしか考えなかったとしたら、それは大きな見落としですよ。

この実験結果は、この現実世界における、ある真実も教えてくれるからです。


それは、【才能ある者は、この世界で埋もれている確率が高い】という事です。

現実の資本主義社会は、人をその人が持っている【資本】の量で評価します。

故に資本を多く持つ者に過度なリソースや名声を与えがちです。

ですが、実際に成功している人の多くは、才能においては平均か、

それより若干上程度なのです。それに成功した人ほど、

運以外の要素を自分の成功理由として語る傾向があるのですが、

殆どの場合、それは事実ではない。

これは後知恵のバイアスと呼ばれ、事が起こった後で勝手に理由付けして、

自分の実力だと勘違いしているのです。

イギリス首相のチャーチルはこの事を喝破して、

【資本主義の短所は、幸運を不平等に分配する事である】と言い放ち、

一方で、【社会主義の長所は、不幸を平等に分配する事である】と、

その本質も喝破しています。

以上の事から、才能を才能としてきちんと見抜く眼を育て、それを利用するだけで、

皆さんの幸運を惹き付ける力は、大きく増すと言えるでしょう。


自分の才能を伸ばす事も大事、でも、自分にはない、

優れた才能を見出す事も大事。歴史上で大きな事をなした

偉大な人物の多くは、こういう埋もれた他者の才能を見出す力に優れていたのです。


それではここからは質疑応答の時間にしたいと思います。

質問をする生徒は手を挙げて、名前と出席番号を答えて下さい。

この授業と関係ない質問はしない事。それではお願いします」


「男子出席番号8番、坂本龍馬です。

人生において運の要素はまっこと軽視すべきでない、運のある者、

一方で自分にない才能を持つ者を見つける事が大事なのはわかっちょる。

じゃけんど、鈴音先生の長い経験の中で、これに加える要素があるとしたら、

どげなものがありますかの~?」


それを聞くと、鈴音先生は、優しくにっこり微笑んで答えた。


「運の良さ、悪さはさておき、

①変化が激しく新参者にもチャンスがありそうな環境を選び、

②長く続けられる活動を見つけて、

③確率だと割り切って試行回数を増やす。

これが最も成功率の高い成功戦略だと思います。

幸運も不運もある意味確率。動き続けなければ、運にも巡り会えません。

一番大事なのは、人生で二度と動けなくなるような大怪我を負わないように、

失敗した時や危険そうな場に放り込まれた時は、

躊躇せず速やかに撤退して次に切り替える事でしょう。


例えば政界や大マスコミ、大企業は、権力者のコネ人材で埋まり、体質も保守的で、

どれだけ有能な人でも、持たざる新参が入る余地は殆どありません。

でもネットやソフトウェア、ベンチャー企業とかなら、平等にチャンスはある。

努力するならまだ未成熟な場所を選べ。

あとは工夫と試行錯誤を凝らしながら有名になるまで努力を続ける。

肝心なのは途中で飽きないこと。

そうすればどこかで小さな運か大きな運に当たるかもですね。


これを国家に当てはめるなら、国の経済発展の為には、

【失敗に寛容であること】【試行回数が増やせる環境であること】を、

社会が満たす必要があります。

経済的に失敗しても生きていけるセーフティネットも必要でしょう。

そうする事によって、挑戦する事を容易にする。これが大事だと思います」


ここで授業終了を知らせるチャイムが鳴った。

幸運も不運もある意味確率。動き続けなければ、幸運にも巡り会えない。

その中で自分にはない、優れた才能を持つ友を探す。

結果が悪い時は不運のせいにして水に流し、

常に前向きな挑戦をする事。

現実の世界では、持って生まれた才能なんかよりも

こっちの方が余程大事なのかもしれない。

俺は夏休み前に、これからの将来への重要な指針を、

鈴音先生から貰った気がした。



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