第18話 大衆食堂、おがちんにて。
早苗実業学校から歩いて5分くらいの所に、
もう25年もやっている大衆食堂がある。
その名も『大衆食堂 おがちん』。
昼間はおかずを何皿か選んで清算する方式の食堂で、
夜は普通の古びた居酒屋になる。
元々良心的な価格設定の上に、今時珍しい学割が効く為、
放課後の部活動を終え、腹をすかせた早苗実業学校の
生徒のたまり場になっていた。
それは6月の終わり、梅雨の晴れ間の穏やかな夕暮れ。
既に生徒の姿もなくなり、普通の一般客がちらほら入っているこの店に、
3人の女子生徒とおぼしき人物が連れ立って入って来て、
厨房正面の4人掛けの木製テーブルの椅子に座った。
もう60歳手前の店主の緒賀達夫は、その光景を非常に物珍しく感じた。
店に来る学生はほぼ100%男子生徒だからだ。
店の門構えからして女生徒が好んで利用する様な雰囲気ではないし、
時間も6時を過ぎており、普通の女子生徒ならとっくに帰宅する時間である。
3人の内2人は早苗実業学校高等部の制服を着ているので、生徒だとわかる。
あとひとりは薄いピンクのジャケットに白のブラウス、
白のスカートを履いているから、生徒ではないのだろう。
見た感じは3人とも16歳くらいだろうか。高校1年生くらいに見える。
この時間は既に居酒屋モードに入っているので、
テーブルに置いてあるメニュー、
後は白の黒板に書かれた今日のお薦めと、
壁に貼ってあるメニューで
適当に選んで注文する事になる。
おかみさんの緒賀洋子が近づいて声を掛ける。彼女は緒賀達夫の妻だ。
「お嬢さん達、これから食事って大丈夫かい?早く帰らないと
御両親に叱られるよ?」洋子の話を聞いた如月雪音が答える。
「大丈夫です。母上と一緒なので…」
「母上?」
洋子は3人を見つめる。
3人とも見た目高校1年生くらいだ。いや、見方によってはもっと幼く見える。
この子達の母親だとすると、若くてももう30代後半のはずである。
「おかあさんは後で遅れてくるのかい?」
洋子は少しいぶかしげに尋ねた。
「いえ、こちら母上です」
雪音が如月鈴音を指さして答える。
緒賀洋子は驚愕した。「はぁぁ~、あなたさんが母親?
ほんとかい?どう見ても中学生か高校生にしか見えないけど…。
とても信じられないねぇ~」
緒賀達夫がここで口を開いた。
「そういやあ、息子の竜彦の奴が、最近えらく若くて
可愛らしい先生が来たって言ってたけど、もしかしてあんたかい?」
その言葉を聞いた鈴音が口を開いた。
「はい。この春から早苗実業学校で教師をしております、
如月鈴音と申します。見た目は若く見えますが、成人しております。
この2人は娘の雪音と天音です。
今後お邪魔する事も増えるかと思いますので、宜しくお願い致します」
「へ~あんた早苗実業の先生かい?こりゃたまげたねぇ~」
緒賀洋子は驚愕した表情で声を上げる。
「その見かけで2人の子供持ちっていうのも信じられないけど、
それでその若さって、
すごいねぇ~。若さを保つ秘訣があったら、是非教えて欲しいもんだ!」
かっかと恰幅の良い体をゆすりながら、洋子は明るく笑った。
「お前じゃ今更何やったって無駄だよ。少しは歳を考えろってんだ」
緒賀達夫が笑って返すと、
「何いってんだい。あたしがこうなったのは、あんたが苦労させたせいだろ。
それに女ってものは、いくつになっても綺麗でありたいと思うもんさね」
割烹着姿の洋子は笑いながらそう言うと、話を続けた。
「ここに来たのは、竜彦の宣伝かい?」
「そうです。俺の実家は大衆食堂で、世界1旨いんだ…って、
緒賀先生はおっしゃっています」
雪音がいつもの優しい口調で答える。
「それで一度行ってみたいなぁ~って、母上に言ったら、
じゃあ、一度行ってみましょうという話になりまして…」
「へぇ~そうかい。そりゃあありがたい話だ。それで注文は何にする?」
「私はまずは生ビールを一杯。娘達にはカルピスソーダを。
それと今日のお薦めは何でしょうか?」
鈴音がやさしい表情で洋子に答えた。
横から緒賀達夫が声を掛ける。
「今日はひらめの良いのが入ってるよ。薄作りにでもすると旨いぞ」
それを聞いた鈴音が答える。
「わかりました。ではそのヒラメの薄作りを2人前、
あと牛筋の煮込み、海鮮サラダと…」
鈴音を含めた3人は、姉妹がはしゃぐような雰囲気で
いくつかメニューを選ぶと注文を出した。
「じゃあ、ちょっと待っててね」
洋子は注文を受けると厨房の方に入っていった。
「あの娘達にお酒とか出して大丈夫かねぇ~」
厨房に入ると洋子は達夫に聞いた。達夫は厨房から外を見て言った。
「隠れて酒を飲むんだったら、こんな人目に付く学校の傍の
大衆食堂には来ねえだろ?」
「そうりゃ~まあ、そうだけどねぇ。それにしても若すぎる。
本当に先生なのかねぇ~」
ふたりがそう話していると、おがちんの扉ががらがらと音を立てて、
勢い良く開いた。
入って来たのは早苗実業学校高等部、数学の教師にして
軽音学部顧問の緒賀竜彦。すなわち大衆食堂おがちんの息子である。
入って来るなり緒賀竜彦は言った。
「おお!これは鈴音先生とその娘達。我がおがちんに来てくれたんッスね!」
「ええ、お邪魔しています。今お料理を頼んだ所なので、
緒賀先生も一緒に如何ですか?」
鈴音がいつもの優しい口調で答えた。
「鈴音先生と一緒に食事が出来るなんて、光栄ッス!
是非ご一緒させて頂きまッス!」
いつものヘビメタ風ミュージシャンのいでたちの竜彦はそう答えると、
空いている鈴音の横の席に座った。
「親父!俺にも生ビール頼む!」
息子竜彦の声を聞くと、「はいよ!生一丁追加!
ちゃんと金払えよ。バカ息子!」と達夫は言った。
【なるほど、大丈夫みたいだねぇ~】
緒賀洋子はそう思うと、生ビール2杯とカルピスソーダ2杯、
それに付きだしをお盆に乗せて、席まで運んだ。
「緒賀先生にこの店の牛筋の煮込みは名物だと聞きましたので、
先程注文しました」
鈴音の言葉に竜彦が答える。
「そりゃぁ、そうッス。何せ3日も煮込んでますからね。最高ッス」
「では飲み物も来た事ですし、乾杯としましょう!
今日も皆様お疲れ様でした~!」
鈴音が音頭を取って4人で乾杯する。その刹那、
鈴音はビールジョッキの半分近くを一気に飲み干した。
中々豪快な飲みっぷりである。「う~ん。最初のひとくちは最高ですね!」
そう言いながら鈴音はビールジョッキをテーブルに置く。
鈴音と同じくらいの量のビールを一気飲みした竜彦が口を開く。
「なかなか良い飲みっぷりッスね。鈴音先生はお酒お好きなんですか?」
それを聞いた鈴音は楽しそうに微笑んで答えた。「ええ。大好きですよ!」
【こういうとこって、母上なんだかおっさんぽいのですよね~】
雪音は自分の母親の事を微笑ましくおもった。
ニコニコしている鈴音のテーブルに、既に仕込んで作り置きの
牛筋の煮込みが一番に運ばれてきた。
「では早速食べてみるとするかの」
天音は一番手で箸を使って牛筋の煮込みをつまむと、その小さな口に放り込んだ。
それから暫く眼をつぶって咀嚼し、それをゆっくりと飲み込むと、
にっこりして彼女は言った。
「まあまあじゃな!」彼女の最上の誉め言葉のひとつである。
その後は次から次へと運ばれてくる料理に舌鼓を打ちながら、
ワイワイガヤガヤとした楽しい宴会になった。
「鈴音先生はビールの他はどんなお酒が好きなんッスか?」
竜彦が聞くと、鈴音は微笑みなが答える。
「日本酒です」
それを聞いた店主の達夫が大きな声で鈴音に言った。
「先生、新潟名産の〆張鶴(しめはりつる)って日本酒がありやすが、
一献如何ですか?」
「店主、〆張鶴を御存知とは通ですね。頂きましょう!」
鈴音が明るい声で達夫に答える。
「八海山をはじめとして、新潟には有名な日本酒が数多くありますが、
地元の人はこういうメジャーな銘柄のお酒はあまり好まず、
もっぱら〆張鶴なのですよね…」
鈴音は恵比寿顔で話しを続ける。
「一般的に有名な新潟名産と言われるお酒は甘口の物が多いのです。
上善如水(じょうぜんみずのごとし)などはその代表例ですが、
こんな甘口の日本酒なんて、所詮女子供の飲み物です」
【あなたも女子供だと思うけどなぁ~】と竜彦は思ったが、
あえて口には出さない。
「超辛口のこの〆張鶴こそ、酒の味を知った通の為の
日本酒と言えるでしょう!」鈴音は枡に入った〆張鶴を一気に煽った。
「とっても美味しいです。店主、お代わりを!」
「おし!親父、じゃあ俺も〆張鶴だ!」
鈴音に続いて竜彦も声を上げた。
「こりゃあ飲みっぷりの良い可愛いねえちゃんだ。おい親父!おれも〆張鶴だ!」
周りに居た馴染み客の親父も声を上げた。
「良いですねぇ~。ではここに居る皆で〆張鶴を頂きましょう!」
鈴音はそう言うと、運ばれてきた〆張鶴を再び一気に煽った。
「おお~!」と周りで声が上がる。
何せ見た目16歳かそこらに見える絶世の美少女が、
日本酒のうんちくを語りながら、
枡に入った日本酒を一気に飲み干しているのだ。盛上らない訳がない。
「とっても美味しいです。店主、お代わりを!」鈴音が言うと、
「イェーイ!俺もお代わりだ!」と、竜彦が叫ぶ!
「親父!俺もお代わりだ!」周りに居た馴染みのおっさんも叫ぶ。
いつしかおがちんは狂瀾怒濤の日本酒飲み比べ会場と化していた。
「雪音姉様、母上は大丈夫であろうか?」
天音が心配そうに雪音に聞く。
今や客の中で冷静なのは、アルコールの入っていないこのふたりだけである。
「母上様は酒吞童子と飲み比べをしたという酒豪ですから、
大丈夫だとは思いますが…」
雪音の答えに天音は言った。
「そうじゃな。母上はともかく、他の奴らは明日仕事が出来るのかのぉ~。
そっちの方が心配じゃ!」
姉妹の心配をよそに、おがちんでの日本酒飲み比べ会は、
その夜遅くまで続いたのであった…。
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