第17話 教養授業7限目。鈴音先生、勝小吉について語る。

今週も月曜日の3限目の授業が終わった。

短い休憩時間の後、鈴音先生が教室に入って来た。

4限目、今週の教養授業の始まりである。

起立!礼!。今日も鈴音先生の透き通った優しい声が響く。


「今日は私の出合った面白い人物の話をしたいと思います。

歴史上の人物の殆どは、皆さんは書物でしか知る事が出来ないと思います。

ですが、書物に掛かれている人物像と、実際の人物にはかなり差があるのが

普通ですし、いにしえより、事実は小説よりも面白いものです。


今日はその中でもとっておきの話のひとつ、勝小吉(かつこきち)さんの

お話です。皆さんは幕末に活躍した勝海舟という人物を御存知かと思いますが、

この勝小吉さんは、そのお父さんにあたる人です。

この勝小吉さんは、夢睡独言という書物を書かれていますが、

この書物のタイトルを現代風に言いかえると、

「しくじり人物伝【勝小吉】。 俺みたいになるなぁ~ わっしょい!わっしょい!」…子孫に対して、【俺みたいになるなぁ~】という教訓を

残すために書いたみたいですね。


勝小吉さんが生まれたのは、享和2年1月15日。今の暦に直すと、

1802年2月17日です。徳川旗本の勝家に養子に入ってから

小吉という名前になったそうです。生まれついての喧嘩好き、

7歳の時にひとりで20~30人を相手に喧嘩で挑みかかり、

結局負けてしまったのですが、悔しいので切腹しようと脇差を抜いた所、

近くに居た米屋に止められて、一命を取り留めたそうです。

その頃から柔道を始めていたのですが、とにかくやんちゃのし放題、

結果、柔道の仲間に帯で縛られ吊るされてしまいます。

余程悔しかったのでしょう、その柔道仲間が皆で食事を始めようとした時、

吊るされたまま、上からおしっこをふりまいていました…。

その時私はその柔道場の賄いの手伝いをしていたので、現場を目撃して、

【あらあらあらあら…元気な男の子ねぇ~】と思ったものです。

それが私と勝小吉さんの出会いでした。


そのあと文化12年(1815年)、数え歳15歳の時に江戸を出奔します。

当時としては重罪ですが、今の年齢からすると中学1年か2年生くらいなので、

俗に言う中二病ですね。

上方(大阪)を目指したのですが、途中で盗賊に騙されて無一文になり、

仕方がないので、乞食をしながらお伊勢参りを目指した様です。

ぼろぼろの恰好でいきがりながら、伊勢神宮に入っていく姿を今も覚えています。

ええ、当時私は伊勢神宮の巫女をしていたものですから…。

ああ、あのおしっこ振りまいてた元気の良い男の子だ~と思ったものです。

江戸への帰路、野宿していた時に崖から落ちて、

男性の大事な金の玉のひとつに大けがを負ったのもこの時です。

息子の勝海舟さんものちに男性の大事な金の玉のひとつを犬に

食べられているので、何かの因縁かも知れません。

まあ、この親子の女癖は本当に酷いですからね。

血は争えないと言うのは本当なのかもです。


結局その旅の途中では病気になったりして、一時命が危ない時もあった様ですが、

乞食仲間や賭場の親分さんなんかに助けられて、最終的に江戸に戻って来ました。

その後、文政2年(1819年)、のぶさんという女性と結婚し、所帯を持ちます。

けれど一向に落ち着く様子もなく、喧嘩と女遊びに明け暮れた挙句、

文政5年(1822年)、22歳の時にまたもや江戸を出奔します。

道中、【俺は水戸藩の家来だ!】と身分を偽り、宿屋や人促をだまくらかして

無銭飲食と無銭乗車を繰り返し、遠州(静岡県)の知り合いの所で勝手気ままに

生活していたら、甥(男谷信友)が江戸からわざわざ探しにやって来たので、

やむなく江戸に戻ります。そして帰るなり父親に下駄でぶんなぐられます。


「女房ほったらかして何やってんだてめぇ~!!」

あの時は100メートル四方くらいに、お父さんの怒声が響き渡っていましたね!

なにせ奥さんは養子に来た家の実の娘さんですから…。

怒られるのも無理はないです。

激昂していた父親はその後3年間、勝小吉を座敷牢にブチ込んだと、

彼は夢睡独言に書いていますが、これは事実ではありません。

1週間くらいは入っていたかも知れませんが、親父さんは、

要はきちんと職に付けと、就職活動をやらせていました。


でも彼の悪評は既に江戸中に広まっており、

まともな収入を得る仕事に付く事は出来ませんでした。

素行は相変わらず改まらず、金もないのに有名な剣術家の島田虎之助を

誘って吉原で豪遊したり、どこかの賭場の用心棒をしたり、

道場破りをしてお金をふんだくったり、

まあ、やりたい放題。実際、喧嘩だけは本当に強かったですから…。


当時近くに住んでいた私は、奥さんののぶさんに何度も相談されました。

一番酷いと思ったのは、のぶさんに面と向かっていけしゃあしゃあと、

「他に好きな女が出来た!」って、言った事でしょうか。

怒り心頭ののぶさんが、「自害する!」と言ったら、

のぶさんに短刀を渡してそのままその女の所に出かけたそうです。

それを聞いた私はさすがにブチ切れました。

この女の敵に一太刀浴びせてやろうと待ち伏せし、

「この糞大馬鹿野郎、女の敵!そこに直れ、のぶさんに代わって

叩き切ってやる!」と凄んだら、「すまん!俺が悪かった!」と言って

すごすご帰って行きました。

その時の光景は今でも鮮やかに思い出せます。


だけどその後も相変わらず、まともな仕事と言っても刀剣の鑑定くらいで、

それも結構あざとい横流しとかもしてたみたいですから、

最後までまともな仕事はしていなかった様に思います。

あまりの不行跡ゆえ、激怒したお兄さんの男谷彦四郎さんに

牢屋に入れられそうになりましたが、これは甥の男谷信友さんが

必死に説得してくれたおかげで、難を逃れました」


鈴音先生の話を聞いたみんなはあっけに取られている。

いや、まあ、そうりゃそうだろう…。だって、180年以上前の話だぜ…?


「天保9年(1838年)、38歳で息子の勝鱗太郎さん(のちの勝海舟)に

家督を譲って隠居します。

これも無理やり譲らされて、その後は虎ノ門の保科栄次郎さんの家で

預かりになっていました。女遊びが酷くてお家が傾きかねなかったからです。

その後天保14年(1843年)、中風の発作が起きてからはおとなしくなり、

鶯谷に庵を結んで、前述した夢酔独言を書く訳です。暇だったのでしょう。

嘉永3年(1850年)満48歳…当時は数え歳なので、49歳でお亡くなりになりました。

死因は脚気です。まあ、好き嫌いの酷い人でしたからね…。

もっと野菜を食べろと私は言ったのですが…。


彼の唯一かつ最大の長所は、剣術だけは超一流だった事です。

当時の江戸の3大道場、力の斎藤、位の桃井、技の千葉を

もってしても歯が立たないと言われた剣術の達人、

男谷信友さん。前述した通り、彼は勝小吉の甥ですが、

この男谷信友さんも勝小吉にはまったく歯が立たず、

片手でひねられていましたから…。

勝小吉は鬼人丸国重という名刀を差料としていました。

私も剣術をたしなんでいますが、長い人生で見た中で彼と互角に戦えるのは、

柳生十兵衛さんと宮本武蔵さんくらいだと思います。

ある意味江戸末期最強の剣士であり、

ヤンキーの曙と言える人物だったと思います」


教室は今日もシーンとしている。

鈴音先生の授業はいつも通り静かだ。

いや、こんな話を聞かされれば、誰だってあっけに取られるだろう。


「それでは、今日も質疑応答の時間とします。

いつもの通り、出席番号と名前を言ってから質問して下さい。

授業に関りのない様な質問はしない様に。ではお願いします」


「出席番号11番 高杉晋作。

今から180年以上も昔の話を、まるで見て来たかの如く話される理由は

何となくわかるので、あえて問うまい。しかし、尊敬する坂本龍馬先生や、

桂小五郎先生も、剣術では勝小吉以下と申されるか」


それを聞いた鈴音先生は、少し間を置くと優しく答えた。

「かく言う私も、剣術に関しては薩摩示現流の免許皆伝を頂き、

それなりの腕はあると自負していますが、

勝小吉さんの剣術は、その振りの速さと読みの深さにおいて、

神技の域に達していました。

あれはもう持って生まれた一種の特殊な感覚、独特のカンとも言えるもので、

鍛錬したから得られるというものではないですね。野球で言うと、

多少素質のある投手なら、140キロのスピードボールまでは練習や訓練で

到達できるが、160キロとなるともう、天才とか、そういうものがないと無理、

そんな感じだと思います。


私は坂本龍馬さんや桂小五郎さんの剣術も見た事がありますが、

確かに強い、だけれども本当の天才の域とは違うと思いました。

勝小吉さんが生まれるのがあと30年くらい後だったら、

彼らとの間で面白い試合が見れたかもしれません。

まあ、ですが人間的な懐の深さがまったく違いますので、

勝小吉さんは、あの時代に生まれて正解だった様に思います。

だって本当に女の敵。男の屑ですから…。

でも、彼がいないと勝海舟はいない。そうすると坂本龍馬の師匠もいなくなる。

日本の歴史は相当大きく変わったと思います。

こんな男の屑でも日本史を大きく変える原動力になったりするのですね。

これが歴史の面白い所だと思います」


ここで授業の終了を知らせるチャイムがなった。

「それでは今日の授業はここまでと致しましょう。起立、礼!」

挨拶が終わると鈴音先生がゆっくりと教室を出て行った。


「おい、アレックス岡本」

俺は後ろを振り返ると岡本に言った。

「鈴音先生、もしかすると織田信長や羽柴秀吉、

あと太宰治とかとも知り合いかもしれんな」

「ほうじゃな。今度会ったら太宰治に関して講義して欲しいと頼むかしらん」

「本当なら、こんなに貴重な体験はないぞ…」

俺は改めてこの教養授業の奥の深さに想いをはせるのだった…。

いやだって、日本史上の有名人に実際会った事がある人の話を聞けるとするなら、

その体験自体が超素晴らしい経験だからだ。

俺は改めてこの学校に入って良かったと思うのだった。

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