第4話 未希の話
「うん、ヘレンさん」
咲たちの驚きをよそに、未希はなんてことないみたいに言った。咲と真理は、きょとんとしてお互い顔を見合わせた。
「私の住んでいた町はそんなに大きくはないの、本当に小さな町」
未希はゆっくりと語りだした。
「海があって、海沿いに線路が走っていて、その真ん中に駅があって、日本によくあるちょっとした港町」
未希は、その小さなかわいい口元に少し笑みを浮かべた。
「でも、すごくいい町だった。海がきれいで、晴れた日には本当に太陽の光が反射して輝いていたの。そこから潮風が町の方に流れてきて、なんとも言えない海のいい香りがした。なんか一年中夏の良い時みたいな、活気があって、なんか理由もなく元気で幸せで、心地良い感じがあった。都会みたいに、おっきなお店とかおしゃれなお店があるわけじゃないけど、昔ながらの町並みが残っていて、穏やかでゆったりした雰囲気があった。私はその町が大好きだった」
町を語る未希はどこか嬉しそうだった。
「その町にヘレンさんって人がいたの」
「ヘレンさん・・」
二人は少し首を伸ばして未希を見る。
「うん、ヘレンさん。でも、みんながそう呼んでただけだから、本当の名前は誰も知らないの。名前はヘレンだけど、多分日本人だと思う。彫りが深くて鼻がすごく高くて外国人みたいな顔つきで、髪の毛はちょっと黄みがかった白だったけど・・。多分・・、日本人だったんじゃないかな・・」
未希は人差し指を顎に当て、少し首を傾げる。
「ほんと外国人みたいに見えるんだけど、でもやっぱり日本人なんだよね。そういうのって、なんとなく分かるじゃない。雰囲気で。そういう感じなの」
「ふ~ん」
二人は首を傾げる。二人はいまいちヘレンさがイメージできないみたいだった。
「ヘレンさんはものすごくお化粧が濃くて、大きな特徴的な目の上に濃いアイシャドウを塗って、大きい唇はいつも真っ赤だった。いつも明るい原色の一昔前の古いデザインの洋服を着て、首には派手な柄のスカーフを巻いていた。どこに住んでいるのか、何をしている人なのか、誰も知らなかった。少なくとも私の周りとか、町の人は誰も。年もよく分からなかった。多分、雰囲気とか服の感じからして相当昔の人だったと思う」
「でも、お化粧は厚くて服も古いんだけど、すごくおしゃれだった。それは分かった。なんか品がいいっていうかバランスがいいっていうか、センスがいいっていうか、だから、とても上品な人に見えた」
未希はそこで一回息をついた。
「ヘレンさんは変わった人だった。いつも駅前にある、ルノールっていう喫茶店の角に立って、その前の大きな通りを行きかう人たちを眺めていた。誰とも口をきいているところを見たことがなかったし、いつも黙って同じところを見ていた。何を見ているのかは分からなかったけど、いつも何かを見ていた。でも、その真っ赤に塗られたその大きな厚い唇は、なぜかいつも少し微笑んでいた」
「なぜ、ヘレンさんがいつもそこでそうしているのか、誰も分からなかった。でも、ヘレンさんがずっとそこに立っていても、ルノールの店主が文句を言うこともなかったし、町の人が彼女を変な目で見るっていうこともなかった。それは私たちの町ではもう日常の風景で、町の人でヘレンさんのことを気にする人はいなかった。私も物心ついた時から、もうヘレンさんはいたし、町の雰囲気はそんな感じだった。だから私もそんなもんだと思っていた。何も変なものだって思ったこともなかった。そういうもんだって、当たり前に思っていた。たまにこの町に来た人とかが、あの人何?って感じで見るくらいだった。それはほんとに当たり前で、町の風景の一部だった」
未希は伏し目がちに語り続ける。
「なんでいつも同じ場所に立っているのか、同じ場所を見つめているのか、いろんな噂があった。戦争で死んだ旦那さんを今も待っているんだっていう人もいたし、頭がおかしいんだっていう人もいた。でも、結局誰も本当のことを知っている人は一人もいなかった」
「・・・」
咲と真理はいつしか未希の話に聞き入っていた。未希自身も、自分自身の話に入り込んでいた。
「でも、ヘレンさんはある日突然いなくなった。私が中学二年生くらいの時だったと思う。十五歳になるちょっと前」
未希は、少しの間、言葉をつむった。
「突然、ある日、いつもいるはずのルノールの角にヘレンさんを見かけなくなった。時々、一週間くらい見かけなくなることはあったの。だから、その時も、そんな感じなのかなってみんな思ってた。でも、二週間たっても、一か月経っても、ヘレンさんは現れなかった。そして気づいたら、季節が変わり、その年が終わり始めていた」
「・・・」
二人は黙って未希の話に聞き入る。
「理由は分からない。死んだって言う人もいれば、病気で入院しているんだって言う人もいた。この町を出たんだとか、施設に入ったんだとか、遠い親戚に引き取られたんだとか、でも、本当のところは誰にも分からなかった」
「でも、そのことはちょっと噂にはなったけど、誰も特には気にしなかった。ヘレンさんがいなくなったからって誰も困らなかったし、寂しいと思う人もいなかった。損をする人もいなかったし、多分友達もいなかったと思う。だから、ヘレンさんがいたこと自体、次第に忘れられていった・・」
未希はそこで少し悲しそうな表情をして視線を落とした。
「でも・・」
未希の声が小さくなった。
「でも?」
真理と咲が未希の顔を覗き込む。
「ヘレンさんが町からいなくなって、何かが変わった・・。町の中の何かが変わったの。それはよく分からない何かなんだけど、何かが変わったの・・。確かに変わった。変わってしまった・・」
未希は、寂しそうに言った。
「町はいつもと変わらない元のままの町なの。いつもみたいに、電車は走っているし、いつも見かける人はいつもの時間に見かけるし、学生たちがバカ話しながら歩いてるし、おばちゃんたちは道端で井戸端会議しながら笑っているし、海は凪いできれいだし、そこから吹いてくる風は心地良い。でも何かが変わった・・」
「しかも、それは何か嫌な感じの変化だった。心の底から笑っていたのに、なんだか笑えなくなってしまったみたいな。笑えるの。笑えるんだけど、心の底から笑えない感じ。おかしいの。おかしくて笑うんだけど、お腹の底まで届いていないっていうか、心の奥から全てをなげうって笑えなくなったみたいな・・」
「うまく言えないんだけど・・、表面的には何も変わってないんだけど、以前のままで、そのままの町があるんだけど、心の深いところで、何かが変わったような・・。町の何か深いところで・・、町に心があればの話で、すごく奇妙に聞こえるかもしれないんだけど・・」
未希は必死に言葉にならない言葉を絞り出そうとする。
「それは本当に些細な変化だった。気にしなければ受け流せるようなどうでもいい変化だった。他の人は誰も気にしていないみたいだった。ううん、みんなも気付いていたのかもしれない。気付いていたけど、みんな気付かない振りをしていただけなのかもしれない。でも、なんだか私は気になった。そして、それはとても嫌なことのように感じた。なんだか、私はそれがどうしても許せなかった。私には受け流すことが出来なかった・・」
「だから私は町を出たの。それまでは高校を出ても、町には残るつもりだった。それが当然だと思っていた。町から出るなんて考えもしなかった。私は町が大好きだったし、出ていく理由もなかった。でも、ヘレンさんがいなくなってから、なんとなく私は町を出るって決めた」
「それは単なる偶然だったのかもしれないし、やっぱり、ヘレンさんがいなくなったからなのかもしれない。それはよく分からない。でも、たしかに町は変わった。ヘレンさんがいた頃の町じゃなかった」
「なんでなの」
咲が訊いた。
「分からない・・」
未希は視線を落とし、しばらく口をつぐんだ。
「分からない。でも、多分・・」
「多分?」
「多分・・、私なりに考えたことなんだけど・・、」
未希は一度息をついた。
「ヘレンさんという存在が、その存在自体が許容されている町のやさしさみたいなものが失われたんだと思う。それをヘレンさんは敏感に感じて、そして、去って行った・・」
「ヘレンさんのような人でも、居場所があるっていうそういう大らかさ、寛容さみたいなものが町にはあったんだと思う。でも、それがいつの間にかなくなっていた。それを、ヘレンさんは敏感に感じたんだと思う・・」
「・・・」
二人は、一人語る未希を見つめる。
「私の考え過ぎなのかもしれないけど・・」
未希は唇を結んだ。
「今思えば、ヘレンさんが去る前から町は少しずつ変わり始めていた。昔ながらの町並みが少しずつ失われて近代化していた。まだできてはいなかったけど、今まで町にはなかった大型の商業施設なんかも駅前にできる計画があったし、大型のショッピングセンターやスーパー、コンビニもいくつか町中に出来始めていた。なんだか、少しずつではあるけど、だんだん都会みたいな合理的できれいな町になっていた・・」
「町のみんなはそれを喜んだけど、でも、それと引き換えに何か大事なものが失われていった気がする・・」
「駅前の商店街はいつも、活気があって人で賑わっていたの。町の人は大体顔見知りだから、そこは社交場でもあったし、交流の場でもあった。そこではみんな何かしらあいさつや会話があって、笑い声があった。私はそこを歩くだけでなんか明るい気持ちになったし、なんだか分からない安心感があった。なんかその雰囲気が私は好きだった」
「でも、なんだかそういうものが、だんだん、ほんの少しずつだけど、薄れていたように思う。以前のように活気はあるんだけど、少しずつ、ほんの少しずつ、何かが、何かうまく言葉にできないんだけど、何か今まで自然に流れていた人の幸せのようなものの活力の流れが、一日一日少しずつ季節が変わるみたいに、いつの間にか変わっていってしまった・・。何か自然に、当たり前みたいにいままで回っていた歯車が何か不自然な形に、いびつな形になってしまった」
「町が、町という一つの大きな仕組みが、いろんな歯車で回っていたとして、ヘレンさんという歯車は、その中でなんだかどこでどう回っていて、どこでどう絡んでいるのか分からない存在だったけど、でも、確かにそれは何かと繋がっていたんだと思う。よく分からない、よく見えない何かがそのことによって動いていたんだと思う。そしてそれは、とても重要なものだった・・」
「直接的な何かではなく、何かこう、よく分からないけど、失ってはいけない、すごくすごく大切な、深いところのものだった。それが嚙み合わなくなってきた。それをヘレンさんは敏感に感じた。そして、ヘレンさんがいなくなって、町全体の歯車の回転の連携がどこかで決定的に歪んだ・・。それは全体で見たら些細なことだった。とても些細なことだったけど・・」
未希はそこまで一気に言うと、そこで黙った。
「ヘレンさんは本当に町の一部だった。誰も気にしていなかったけど、でも、確かにいたの。確かに存在していたの」
再び語り始めた未希は、言葉に力が入った。
「ヘレンさんは町という大きなバランスの中で確かに存在していて、そして、その町の小さな、ほんの小さなどうでもいい存在だった。具体的には何の役に立っているのか分からない、どこでどうつながっているのか分からない、何かよく分からない本当に小さな些細な存在だった。でも、その存在がとても大事だった。町にはなぜか必要な存在だった・・」
「絶対に必要な存在だった・・」
未希は最後に力なく寂しそうに言った。
「・・・」
咲と真理は、言葉なく未希の言葉を聞いていた。
「あれっ」
未希の右目から涙が流れ落ちた。
「あたしなんで泣いてるんだろう。はははっ」
未希は二人を見て泣きながら笑った。涙が次々とそんな未希の両目から流れ落ちる。
「・・・」
そんな未希を咲と真理が黙って見つめる。
「なんか一人で熱くなっちゃった」
未希は、恥ずかしそうに笑った。
「こんな話つまんないよね」
「・・・」
二人は黙っていた。
「私の考え過ぎなのかもしれない。私がおかしいのかも・・」
未希は一人俯く。
「ううん、そんなことないよ」
咲がやさしく言った。
「私もそう思う」
真理もやさしく言った。
「へへへっ」
未希は笑いながら一生懸命涙を拭った。
「未希にとって、大切な町だったんだね」
咲が言った。
「うん」
未希が頷く。未希は泣いた。
三人の真ん中に置かれている巨大な和ろうそくが、じじっと音を立て、その立ち昇る炎を揺らめかせた。三人の時間は、いつしか深い夜の闇の中に包まれていた。
「私もヘレンさんに会ってみたかったな」
真理が頬杖をついて言った。
「私も」
咲も続けて言った。
「うん、私ももう一度会ってみたい」
少し泣き止んだ未希も言った。
「案外、この町に来ていたりして」
真理が二人を見て言った。
「はははっ、だったらいいね」
咲が笑う。
「うん」
未希も笑った。
「今度、未希の町にみんなで行ってみようよ」
真理が言った。
「おっ、いいね」
咲が言う。
「うん、歓迎するわ」
未希の表情に明るさが戻っていた。
「さあ、言い残したことはあるかな」
おどけて真理が未希を見る。
「ううん」
未希は笑顔で首を横に振った。
「よしっ、じゃあ、次だ」
真理が上体を少し起こし、勢いよく言った。
「さあ、次は誰になるのかな」
真理が手の中でサイコロを転がしながら、おどけて二人を見た。それに対し、二人が笑う。
真理の手から離れたサイコロが、再び絨毯の上を転がっていく。
そうして、三人の夜は、深い夜の闇の中に更けていった。
おわり
三人の夜話会 ロッドユール @rod0yuuru
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