第七話


 目が覚めたのは昼近くになってからだった。枕元に置いてあるスマートフォンで時刻を確認する。午前十一時を少し回っている。同じ布団に入って寝たはずの謠子の姿は既にない。そういえばいつもは平田が朝食時に叩き起こしに来るはずだが、記憶の限りではそれもなかったようだ。

 起き上がり、布団をそのままにトイレを経由して台所と居間を覗く。やっぱり平田はいない。謠子はどうだろうか。彼女の私室に向かう。

 平田は不在のようだが、謠子はちゃんと私室で仕事をしていた。

「こっちは人手不足だっていつも言ってる、昨日も言ったじゃないか。平田くんだって本業別にあるのに僕の仕事手伝ってくれてるんだよ、キャプターじゃないディプライヴドの一般市民が。それわかってるの?」

 ヘッドセットを付けた謠子は秀平の姿に気付くと、口元で指を立てて喋らないようにと指示を出した。どうやらキャプターの誰かと通話しているらしい。

「そりゃ人ぐらい選ぶよ、うちは商売もやってるんだから。秘密も守れない口の緩い奴なんかに来られたら堪らないし、キャプターじゃなくったって危ない目に遭う、だからそれなりに戦闘能力もある人材が必要なの。でもこの前また殉職者出たでしょ、そっちの人手削れないってこっちだってわかってるから……だーかーら! 平田くんはキャプターじゃないって言ってるの! いくら僕を通して使えるからってお爺様の代わりみたい扱わないでよね!」

 どうやらお嬢様は苛立っているご様子である。その姿は現在不在らしい件の男に少し似ている。

「あんまりうるさく言うんなら僕この件から下りるよ。……知らないよ、第一そっちがちゃんと調べなかったのが悪いんじゃないか。じゃあ早くしてね、……そう! 至急! さっさとして! 僕個人で申請したら時間かかるからそっち通してって言ってるの! 別にワガママで言ってるわけじゃないでしょそっちが振ってきた仕事で必要だって言ってるんじゃないか早くして! …………あぁ、もう」

 通話を終えたらしい謠子は、溜め息をつきながら頭をがしがしと掻いた。可愛らしく整っていたはずの金茶の髪と、それを結っていた飾り付きのゴムがぐちゃっと乱れる。見かねてゴムを取り髪を手櫛でくと、するすると滑らかな猫っ毛は簡単に元通りになる。

「ほんと、怒るとあのおじさんそっくりですね。浄円寺の血かな」

 苦笑しながら言うと、謠子は更に深い深い溜め息をついた。

「もっと違うところ似たかったよ。よく眠れた?」

「お陰様で。あのヤクザおじさんどこ行っちゃったんですか?」

「ちょっと調べ物に出てもらってる。お店の方も少し顔出してくるって、ここしばらく行けてなかったし……あれ、もうこんな時間? お昼どうするんだろう」

「俺作りましょうか」

「作れるの?」

 言われて少し、考える。

「ゆで卵の固いやつなら自信あります」

「我が家のシェフを待とう。……あ」

 キャビネットの上に置いてあった謠子のスマートフォンが鳴る。平田からの着信だ。

「はいはーい。……ん? うん、いるよ、起きてる」

 謠子から差し出されたスマートフォンを受け取ると、

「おっはよぉ秀ちゃーん、家ん中でもちゃんとスマホ持ち歩いてー?」

 明らかに真顔で発しているだろう声色。そういえば敷きっぱなしの布団の枕元に置いたままだ。

「その呼び方やめて下さいクソ気持ちわりー。何か用ですか」

「ちょっと来て。お前の力が必要になった」

 力というからには秀平の持つギフト能力が必要なのだろう。しかし――

「えぇ? 謠子様どうするんです?」

 何しろ年端もいかない子ども、しかも女児だ。いくらギフト持ちとはいっても、キャプターという職務に就いているのは特別な事情があってのことだし、普段ほとんど室内に引きこもっている彼女の戦闘能力は皆無に等しい。立場上アビューザーやワンダラーやランナー、またギフトを持たないまでも法を犯し捕まらないままの者に接したりすることが多い以上、謠子を一人にはできない。

 謠子の方をちらりと見ると、察した謠子がパソコンに向かいキーボードを叩き出した。

「あぁ、ちょっと待って下さい、今多分誰かに……」

 しばらく待つ。

 くるっと椅子を回転させた謠子は、ぐっ、と親指を立てた。

「あ、大丈夫みたいです。はい、じゃあ……」

「一時間半後!」

 謠子が平田に聞こえるようにか声を張った。

「ということで」

 通話を終了して秀平に手渡されたスマートフォンを謠子は受け取る。

「誠くんに『来て』って頼んだ」

「誠、そんな気軽な」


 謠子は特別に許可が下りて外部に住んでいるが、キャプターも通常はエリュシオン内に居住することになっている。キャプターはエリュシオンの内外を行き来できる職として知られてはいるものの、それでも仕事関係か外出許可を申請しなければエリュシオンの外に出てこられない。秀平の父も若い頃にキャプターになってからずっとエリュシオンの中に住んでおり、母と結婚してからは家にときどき帰ってくる形であるらしい。つまり万年単身赴任状態である。


「丁度本部に頼んだものがあるから、持ってきてもらうって体でね」

「持ち出さなきゃダメなものなんです?」

「取りに行くのも人よこしてもらうのも面倒だからデータ転送してって言ったんだけど、漏れたら困るみたいなこと言われたんだ。時間稼ぎされてるだけかもしれないけど」

「時間稼ぎ?」

「僕に知られたら不都合なことでもあるんじゃない? まぁ、今回の件に限らずいつものことではあるか」

 謠子はにや、と笑う。悪そうな表情もかの男に似ている。

「“浄円寺の孫”なんて信用していないのさ。そのくせ上手いこと利用しようとしたがる。全く、優しかったお爺様ならともかく、僕がそう簡単に使われてあげるとでも思っているのかな」

 あぁ、またこの顔だ。喉の奥がぎゅっと締め付けられたような気分になる。


 ある時期から彼女はごく身近な者以外の他人を信用しなくなってしまった。もう何年も前、まだ十歳にもならない頃から。


 きっと今回の件でも、本人が特に親しいと思っていないとはいえ“知人がギフトを使って人命に関わるような悪事に手を染めている”という事実が彼女の気を立たせているのだろう。それに加えて上がこの有様だ。キャプター、特に上層部は仕事を振ってくるくせに非協力的だと謠子は度々零している。

 何も言えぬまま、きつい顔をしている謠子のやわらかい髪をそっとなぞるように撫でると、謠子ははぁ、とまた大きな溜め息をついた。

「……さて、誠くんが来るまで時間がかかる。出前でも取ろうか」




 昼食を謠子と二人でとった直後、キャプターである秀平の父・誠が来たのと入れ替わるようにして秀平は浄円寺邸を出て、急いで平田との待ち合わせ場所に向かった。

 後ろからつけられている気配はない。しかも日中だ。まさかこんな時間帯に



 そこからの記憶がない。



 いつからそこにいたのか――いや、いつ何が起こったのかが、全くわからない。

 気を失った覚えすらない。



 気が付いたら、身動きが取れなかった。立って歩いていたはずなのに、何故か横たわっている。本当に、わけがわからない。

 息を吸い込もうとすると口が開けられない。一瞬戸惑ったが、用心しながら鼻でゆっくり空気を吸い込み、吐き出す。普通に呼吸はできる。危険な空間ではないようだ。

 少し首をもたげて、周囲を伺う。

(宝石屋……?)

 見覚えがある。謠子に連れられ訪れた、真木原宝飾店の応接間だ。


 自分の置かれた状況。そして居場所。嫌でもわかる。


 されかんきんされている。


 身動きは取れないが怪我もなく生きてはいる、とわかったところで、秀平は冷静になった。慌てたところで何ができるわけでもない。元々そんなに感情が激しく変化する方ではないが、柔術の師でもあった今は亡き祖父に「平常心を保て」と幼い頃から叩き込まれている。


 まず、どうするか。


(逃走経路確保は多分大丈夫、と……とりあえず)

 手足の拘束を解くのが先だ。

 何で拘束されているのかを見てみる。幸い布テープでぐるぐる巻いてあるだけのようだ。しかも後ろ手に縛り上げられているでもないし、口に貼り付けてあるテープもすぐ剥がせる程度、本当に口を塞いでいるだけのごく簡単な貼り方である。

(ど素人かよ)

 思わず心の中で突っ込む。すぐにとはいかないが、何とかなりそうではある。

 もぞもぞと動いていると、足音と話し声が聞こえてきた。秀平は口に貼られたテープを剥がすのを一旦中断して、気絶しているふりをする。


 ドアが開いた。


「あら、まだ起きてない」

 聞き覚えがある女の声。それに続いて、

「ちょーっと強めにかかっちゃったかな? ごめんねかず美ちゃん、何せまだ使い慣れてないもんでさぁ」

 軽い響きの男の声。真木原かず美と安河元宣か。

 こつ、こつ、とヒールの音が近付いてくる。かず美がしゃがみ込んでいるのが気配でわかる。

「全く、手こずらせてくれたわねシュウヘイくん。後で知香が戻り次第一緒に固めてあげるからね」

 かず美の手が秀平の肩を撫でる。鳥肌が立ち思わず目を開けてしまいそうになったが、何とか持ちこたえる。

 と、かず美はそれ以上何をするという様子もなく立ち上がり、安河と共に部屋を出ていった。ドアの閉まる音と、気配を感じられなくなったのを確認してから、秀平は目を開ける。まだしばらくは生きていられるようだと安堵の溜め息をつく。

(っていうか……もしかして俺、黒宮と間違えられてる?)

 自分の名は明かしていないし、もちろん謠子も漏らすような真似はしていないはずだ。だとすれば、かず美の言う「シュウヘイ」は秀平自身ではない他の誰か――下の名で呼ぶような近しい「シュウヘイ」といったら、娘の婚約者である黒宮しかいない。黒宮修平が姿をくらましてから二年、髪が伸びた程度にしか思われていないのか。しかし気を失わせて運んだのなら、いくら似ているといっても間近で見れば別人だとわかりそうなものだが――

(『強くかかっちゃった』、ねぇ……)

 体が痛んだり衝撃を受けた感じはない。ということは、スタンガン等を使われたわけではないのだろう。つまり、

(安河もギフト持ち、って可能性があるのか)

 それならば、平田との待ち合わせ場所に向かっていたはずがいつの間にかこんなところにいたという理屈も通る。ギフト能力は実に多様だ。能力如何いかんでは、気付かれないうちに術にかけた者をどうこうしてしまうことだってできる。

 仮定として、相手はギフテッドが二人。しかも安河はこちらに気付かれぬよう自由を奪ってくる手段を持っている。上手く逃げられるかどうか。

(チートキャラ攻略……つっても、ああいう力じゃ使える回数はそう多くないはず……慣れてないって言ってたし……)

 秀平は部屋の外に気を向けながら急いで口を塞いでいたテープが剥がした。次は手首を巻いているテープを噛み千切る。部屋の外の気配を窺うが、まだ大丈夫そうだ。今度は足を巻いているテープ。体の自由はすんなりと取り戻せた。

「何とか、なるかな。……あ、そうだ」

 急に姿を消したとあれば、きっと心配しているだろう。謠子と平田に連絡しようとポケットを探る。これまた幸いなことに、縛って転がしておけば大丈夫だと高をくくっていたのか、それともただ単純に忘れられていたのか、スマートフォンも取り上げられるでもなく上着のポケットに入れっぱなしだった。

「ど素人かよ」

 苦笑しながら、謠子に向けてメッセージを入力、送信する。返信はすぐに来た。


 [すぐ行く]

 [少しでいい 時間稼げる?]


「少しってどのくらいですか謠子様ぁ」

 思わずぼやきながらも、返事を打ち込む。

「が、ん、ば、り、ます、っと」



     *     *     *



 約五時間前。


 平田篤久は目を細めた。

「……やっぱり何か知ってんな、お前」

 正面の男はにこりと笑う。

「さぁ、どうだろう?」

「教えてほしいなぁ~?」

「どうしようかなぁ~?」

 わざとらしい笑顔の対峙。

 しばらくそのまま互いに笑顔を向けていたが、同時にすっと真顔に戻る。

「幾らだ」

 問いに、男は右手の指を三本立てた。平田は舌打ちする。

「足元見やがって」

「きみにとってははした金だろう? ……それから、」

 と、男は更に左手の指を三本立てる。平田の眉間に皺が寄る。

「てンめェ」

「違うよ、これは料金とは別だ」

 男はくすくす笑うと、平田の肩に手を置いて耳元で何かを囁く。

「ね? いいでしょ?」

 緑の瞳をきらきらと輝かせるその悪戯いたずらっぽい微笑みはまるで少年のようであり、同時にどこかの誰かによく似ている。

 平田は、

「はあぁ」

 深い深い、溜め息をついた。




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