第44話 昨日と変わらない明日を願って眠った後、僕は部室に止め置かれる

 家に帰ると姉様と冴さん、そして珍しく母様付きの侍従兼千条院家侍従長である軍人殺戮マシーンのような目つきをした洗馬せばさんが僕を待っていた。


 既に僕の精神はある程度の落ち着きを取り戻していて、自分が置かれている状況、自分が陥っていた状態について普段通りに認識することができるようになっていた。

 いつになく真剣な口調で姉様が僕に問う。


 「今自分がどういう状況か分かってる?」


 「……PTSDを発症している、と思います……トリガーは冬姉からの強い否定や拒絶で……発作が起きると姉様と初めて出会う直前と同じ状態に陥るのではないかと」


 僕が自分の状況を一つずつ検分するようにして答えると、姉様は少し安心したようにため息をつく。


 「ちゃんと分かってはいるみたいね……でも正直、油断してたわ」


 姉様はそう言って深刻そうな顔をしていた。

 ストレスがかかっている状態にありながら泣き出す気配を微塵も見せない姉様は、まるで普段と別人に見える。


 その後洗馬さんがブリーフィングで作戦内容を伝える将校のように、この状況に対して出来ないことと出来ることを簡潔に伝えた。


 僕の身体は人為的にホルモンバランスを操作しているため、服薬処置を行うと現状維持に予期せぬ影響が出る可能性がある。つまり薬を用いた症状の緩和という手段はとれないということ。


 現状採れる対処法としては、敢えてストレス源に接触し、トリガーと同じ状況であっても自分が危険な状態には陥らないと理解、あるいは体感していく他ないということ。


 簡単に言えば、薬に頼らず、当たって砕けてみて、あれ自分砕けてなくない? と気づくことで心の安定を取り戻せ、ということだった。


 僕は自分でも意外なほど落ち着いた声で答えていた。


 「……話は分かりました、やってみます」


 「アンタそれ、本当に大丈夫なの?」


 姉様が僕にそう問いただすけれども、僕には抵抗がなかったのでこくりとうなずく。


 問題があって、やるべきことがある、あとは行動に移して完遂するだけ。それは姉さんに救われてから一年間、ずっとやって来たことだったから。


 僕の反応を見て、姉様はしぶしぶという様子で言った。


 「……そういうのなら好きにしていい。でも本当にまずいと思ったら、私はアンタを止める。覚えておきなさい」


 そこで会話を終えて僕は一人で自室に戻る。


 ひどく眠いから今日は寝ることにした。


 僕は流れ星へと捧ぐ様に声のない呟きを繰り返した。


 目が覚めれば、昨日とほとんど変わらない明日がきっと待っている。


 その内に少しずつ、僕の意識は闇へと溶けていく。



◆◇◆



 翌日。

 

 教室にいる限り、僕は普段と変わらない日常生活を送れていた。昼休みに男子の告白をにべもなく断るところまで含めて問題なく行動できている。


 放課後、僕と文とポチの三人は文化研究部の部室へと向かう。


 部室の前で冬姉と鉢合わせる。僕は昨日の今頃と同じように冬姉へと話しかける。冬姉は、あはは、お姉ちゃん急用思い出しちゃった、と真っ青な顔で言って部室を離れていく。


 僕を避けていることが分かる。まるで僕の心の奥底を写しだす鏡のようだ。

 記憶が砕けそうになるような衝撃を感じながら、僕は一つずつ、自分を構成する要素を確認していく。


 僕の名前は、年齢は、血液型は、僕の所属するクラスは、部活は、実の姉の名は、隣にいるクラスメイトの名は、今は何月何日で何時なのか、どんな服装をしているか、さっきまで何をしていたか、今後の予定は……。


 僕が一連の自己認識の確認を完了させるのにかかった時間はおそらく十秒にも満たなかった。それでもその間、僕が一切の外部刺激に無反応だったことを文とポチは目撃していた。


 ポチに顔が青いですよ、と言われて僕は全身を覆う寒気に気づく

 文が不安そうに僕を見ている。先日文が僕に見せた、あの状態と同じなのだと気付いているのかもしれない。かけるべき言葉を慎重に探って、うまく見つけられずにいる。そんな風に見えた。


 僕は穏やかな表情を心掛けながら、ごめんなさい、大丈夫です、と言葉を振り絞り、部室へと入っていく。


 中にいるのは部長だけだった。


 ゲームのコントローラーを握りしめ、あ、あ、ああ……、と言いながら体を左右に傾けている。きっとマリ〇ーをやっているのだろう。しかも上手くないのだろう。僕の心が落ち着きを取り戻す。


 しばらくして部長はコントローラーを机の上において、部室の様子を見渡す。僕を見て、文を見て、ポチを見て、冬姉の不在を確かめる。


 「……ふむ、色浦も部室に入ってきそうな気配があったんだが」


 と呟くと、部長は何かを思いついたようにぱちんっ、と手を叩き、高らかに宣言した。


 「今日は文化研究部臨時休業! 千条院以外帰って良し!」


 なぜ僕だけ残るのか、という疑問の眼差しに、部長はふっと息を吐き、一拍置いてから面倒くさそうに答えた。


 「……せめて保健室までたどり着ける顔色になれ。それまではここで休んでいけばいい、コーヒーくらいなら淹れてやる」

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