第30話 誰にだってよく分からないことはある

 放課後に文とポチを連れて部室へ向かう。

 僕を含めた3人の入部を、部長は二人としばらく会話を交わした後で意外なほどあっけなく認めた。


 「……やっぱり誰でもよかったのでは?」


 という僕の問い掛けに、部長はまるで、喜べ、とでも言わんばかりに胸を張る。


 「基準を緩めた訳ではない、お前達が私の眼鏡にかなっただけだ」


 そんな部長のよく分からない発言を聞き届けた僕は入部届に名前を記入して部長に預ける。文もポチも同じように入部届を手渡す。


 僕たちの行動はその後三様に分かれた。

 僕は部長に異議申し立ての書類の記入方法を説明した後、書類が完成するのをそばで待っている。

 文は本棚から適当な本を取り出すと、その視線をページの上に走らせ始めた。早いペースでページを繰っていく彼女はすでに別世界に没入している。文学少女然とした文の姿は僕のすさんだ心にわずかな癒しを与えていた。


 そう、僕の心は今、すさんでいる。

 僕には問題があった。


 端的に言うならば、冬姉がポチを膝上にのせて頭を撫でる様子を見せつけられていた。僕を狙い撃ちするかのような見事な精神攻撃である。わざとじゃないのかと少し疑っている。


 なでなで攻撃が開始されてから既に3分が経過しようとしていた。

 ウルトラ〇ンならぼちぼち死ぬ時間である。ウルトラ〇ンではないただの男の娘である僕の心も、何故か死の際だ。

 ポチへの視線を外せないまま『そこは元々僕の席だったんだよばっきゃろー』と内心で呪詛を吐く僕のつよつよメンタルは、燃え盛る嫉妬の炎に焼かれながら今まさに崩壊しようとしていた。


 意を決した僕は冬姉の隣の席に腰を掛けた後、胸の中に温めていた小さな思いを懸命に伝えようとする少女のように、ポチへの提案を口にする。


 「ポチさん……退部、しませんか?」


 「えっ、まだ入部して五分も経ってないですよ!?」


 それはそうだよね、とは思う。思うけれど、僕は体裁を気にしている場合ではなかったので迷わず切り札の一つに手を付けることにした。


 僕は冬姉の上に座るポチに対して逆に顔を少しだけ下に向けてから、彼の瞳をまっすぐ見つめた。その奥にある彼の理性を打ち抜き、庇護欲と罪悪感をかきたてるように。

 更に本当はわがままを言っていると分かっているけれどどうしても譲れないのだと主張するかのように、少しだけ瞳をうるませてみた。

 自分の目元にじわりと生じた震えとピントのぼけた視界とが、自分の試みが上手くいったことを僕に教えてくれる。

 そして最後に、感極まっているかのように声を震わせてみた。


 「どうしても……ダメ、ですか?」


 これが千条院家秘伝の演技法、懇願の乙女。いわゆる上目遣いである。


 「え、いや……、その、ダメじゃ、ないんだけど……あぅ……」


 弱り果てるポチを見つめながら、ほれはよ、はよ堕ちろ、今すぐ堕ちろ、と手に汗握っていた僕の頭にふと誰かの手が載せられる。

 僕が視線を動かすと、冬姉のたしなめるような視線と衝突した。


 「千条院さん、ううん、初ちゃん。私まだポチ君を撫でたりないんです! ……もう少しだけ待っててほしいな。ちゃんと返すから、ね?」


 「……え、僕、千条院さんからも撫でられるんですか……?」


 冬姉はあたかも僕がポチの頭なでなでを独占したがっている同士であるかのように、親しみを込めて僕に言う。僕にそんな趣味はなかったけれど、冬姉のお願いを無下にできずこくりと小さくうなずくと、「ありがとー」と言って冬姉は僕の頭を撫でて――


 ――一瞬、よく分からない表情をした。


 たとえるならそれは、千円札しか入っていない財布の中に一万円札を見つけた時のような、初めて食べる未知のデザートが思いのほかお気に召した時のような表情。


 「え、何で……待って……え?」


 そう呟いた冬姉は自身の困惑の原因を確かめるように、僕の頭を撫でる手を離し、続けてポチの頭を撫で、そしてまた少しだけ撫で方を変えて僕の頭を撫でる、という一連の動作を繰り返した。


 冬姉のよく分からない行動に気づいた部長が、茶柱を見つけたかのような表情で口を開く。


 「……おや、なでなでソムリエが迷っているのか? これは珍しい」


 そんな恥ずかしい異名を冬姉に与えたのはどこのどいつだと純情可憐な鉄面皮の裏側で憤る僕が、どうせ部長に決まっている、と結論付けていったん深呼吸することにした、その直後だった。


 「色浦が自分で名乗ったんだ。矜持きょうじがあるんだろう」


 すごく知りたくなかった真実が部長から告げられ、否応なく僕の記憶に刻まれていく。

 僕の知っていた冬姉が遠いところに行ってしまったような気がして泣きたくなる僕の傍らで、冬姉がなるほどと呟いた。

 何か整理がついたんだろうか、と僕は投げやりな気分でそれを聞いていた。


 「……初ちゃん、ポチ君、聞いてください」


 予想外に真剣な冬姉の声音に、僕とポチは姿勢を正しながら彼女のほうへと向き直る。


 「……甲乙つけがたい出来でした。それぞれの良さが存分に発揮された、熱戦であり、激戦でした。たとえ敗者になったとしても、そこには勝者に何ら劣ることのない質の高さが確かにありました。それは誇るべきことです……」


 要領を得ないまま続く冬姉の弁に僕たちは耳を傾けていた。

 レーシングドライバーのインタビューのようだと思った。すごく冷静に大事そうなことを説いているかのようで、最後まで聞くと結局『あいつのせいで俺ぁ負けたんだばーかっ!』と言いたかっただけだったりするような。


 「……正直予想外ですが、結果は結果です……私、ここに宣言します!」


 僕とポチは固唾を飲んだ。


 「初ちゃんの頭のほうが撫でがいがあります!」


 「「……はい」」


 僕とポチは二人して、よく分からない、という表情で項垂うなだれた。

 ただ、僕はその実同時に高揚感を感じてもいた。冬姉が僕を選んだということが、たとえそれが心底共感できない勝負の結果だったとしても、確かにうれしかったのだ。


 冬姉は満足げに僕らを見回した後、優しくポチを膝の上から引き離す。続けて僕に視線をむけて、ぽんぽんと自分の太ももを叩いた。僕は小さい頃からその仕草の意味を知っている。こっちにおいで、だ。


 僕は黙って冬姉の足の上に腰を下ろす。春日初の頃にはすることのなかった、スカートにしわを作らないよう腿裏ももうらを抑える習慣的な動作に何とも言えない違和感を覚えはしたものの、一度腰を落ち着けてしまえば冬姉の感触は昔と同じなじみ深いものだった。


 そして冬姉は僕の頭を再び撫で始める。


 僕は今、拳を天に何度も突き上げ雄たけびを上げつつウィニングランを決めるレーシングドライバーのような歓喜を体感しながら、同時にこそばゆくて少し戸惑っている普通の女の子を何とか演じていた。


 ……え、何なのこの幸せな気分、えっ、ヤバい、よく分からない……、と思った僕は、先輩に従順な後輩を演じつつ存分に自分の感情に浸ることにした。


 その様子を脇から見ていたポチは、少しだけ期待するような声音で冬姉に問うた。


 「それじゃあ、僕はもう先輩に撫でられなくてもいいんですか?」


 「いいえ。それはそれ、これはこれです」


 明確な否定にポチの表情がゆがんだ。


 「……それに、私が初ちゃんを撫でている間にもポチ君には出来ることがあるんだよ? ほら、もう少しこっちに寄って」


 冬姉はそう言ってポチにもっと近寄るように促し始める。

 断頭台へ向かう死刑囚のように強張こわばった表情でこちらへと距離を縮めるポチが僕の手が届く範囲にまで接近したことを確かめた後、冬姉が困惑する僕にウインクした。


 ……ポチ君を撫でていいよ。待たせてごめんね。


 親切と誤解に満ちた冬姉の瞳が僕に伝えようとしたこととは、つまりそういうことだった。

 別にポチを撫でたくはない。ポチも撫でてもらいたくはないだろうと思う。けれど、何故なのかよく分からないけれど、冬姉が期待するような眼差まなざしを僕に向けてくる。


 ……このは春日初的に逆らえないヤツだ、と認めた僕は、意を決してポチに声を掛ける。


 「ポチさん……その、ごめんなさい。後で埋め合わせはしますから…」


 「いいんです千条院さん。どうか一思いに、お願いします……」


 ポチはぎゅっと目を閉じて身体を硬直させている。

 嫌が応にも罪悪感が高まるけれど――


 ――でもね、僕ぁ好きな人が喜ぶならそれでいいんだ。


 僕はやむを得ずという態度を崩さないまま、その実堂々と開き直ってポチの綺麗な毛並みに手を載せゆっくりと動かす。ポチが一瞬だけ身を震わせる。それに合わせて冬姉も僕の頭を撫でだした。


 この瞬間、ポチの頭を撫でる僕の頭を撫でる冬姉、という謎めくピタゴラ〇イッチが完成した。胸いっぱいの満足感を覚えている冬姉がいて、自分の都合でポチを見捨てる僕がいて、黙って頭を撫でられるポチがいることで成り立つ一方的な搾取構造がそこにはあった。


 「ふぁっ……えへへ……」


 ただ、いざ撫でられるとポチは大好きな飼い主に頭を撫でられて嬉しさを隠しきれない忠犬のように表情を緩め始めた。どういう訳なのか僕にはよく分からない。


 ……実は頭を撫でられる趣味があるのでは、と僕は疑い、けれどそのまま忘れることにした。


 よく分からない状況の中で僕は悟りを開きつつあった。どんな人にもよく分からない一面があるだけなんだ、と。

 男の娘でも前髪でもソムリエでも忠犬でも別にいいじゃないか、というよく分からない博愛精神が僕の中でよく分からないけど息づき始める。


 そこに、ぱふっ、と本を閉じる小さな音が挟まった。

 音のした方に視線を向けると、謎のオブジェを見るように、文が僕たちを見ていた。胡乱なまなざしを向けられる対象であるという自覚があるので、僕は黙って文の言葉を待った。


 「……えと、ういっち、何してるの?」


 僕は真顔で答えた。


 「よく分からない」

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