ジュブナイル

春義久志

第1話

 ひとはなぜ、“初めて”を大切にしてしまうのだろう。

 スーパーの鮮魚コーナーに並ぶ初鰹を手に取りながら、ふとそんな思いに耽る。初夢初売り初日の出、初恋初デート初体験、どれもめでたいこととされるものばかりじゃないか。


 のんきな科学者たちほどではなくとも、俺だって進歩主義者だ。失敗は成功の母、夥しい犠牲の上に人々は現在を謳歌している。初めてとは、常に一番古いということと表裏一体だ。であるならば、“初めて”も例外なく土へと還り、我々の足に踏みしめられるべきではないか。

 それでもなお、我々が“初めて”に特別な感情を抱かずにはいられないのは、忘れっぽいくせに忘れたくはないという、ひとの悲しい性ゆえだろう。

 我々は記憶し続ける。感情を揺り動かしたすべてを。

炭や煤で石壁に画を描き、山頂から望む眼下のすべてを写真に収め、大雪の朝に道路すべてを白く染め上げた処女雪に向けて、一番乗りとばかりに足跡を残す。しかしてそれらは例外なく、やがて失われゆくものだ。壁画は雨風で風化し、写真は黴や酸でその色を失い、雪は靴とタイヤに踏みつけられ滲みへと姿を変える。その運命(さだめ)を乗り越える術を我々は未だ手にしてはいない。

 だからこそ、我々はそれら一つ一つにラベルを張りコーティングし額縁に入れて飾るのだ。“初めて”もそんな額縁の一つに過ぎない。しかし、一番古いという特性を以て、心の奥の博物館の、常に先頭に立ち続ける。まるで、一族の祖が、子に孫に崇められるかのように。


 なんてなことを、古い玉ねぎのせいで少し辛くなってしまった鰹のたたきを食しながら考えていたせいだろうか。充たされた満腹中枢によって眠りに誘われ、俺は夢を見た。

 夢の中で、十一歳の僕は女の子に抱きしめられている。彼女の名前は野村みやこ。僕よりも一つ年上。夢の中の彼女は男の子で、抱かれる僕は女の子だった。


                   *  *


「君もツキ風邪なんだって?」

 回覧板を持って現れた男の子は僕の顔を見るなりそう言った。

「うわ、めっちゃかわいいじゃん。もともと男の子でこれはズルいなあ」

「怖くないの?」

 感染防止のため、もとに戻るまでは外出を控えるように。病院の先生からはそう説明を受けた。だからこそ、自宅から何時間も掛けて、山奥の田舎に住む婆ちゃんに迎えに来てもらったのだ。

 半ば拗ねたような僕の口調を意に介することもなく男の子はあっけらかんと気にしないよと口にした。

「あたしもツキ風邪引きだからさ」

 野村みやこ、よろしくね。むんずと突き出された右手を思わず握ると、にかっと笑ったみやこは僕を玄関から連れ出す。突然視界に飛び込む陽光にうめき声が出そうになった。


「大人しくしてなきゃだめじゃないの?」

 風を切る轟音で届いているか不安だったけど、みやこには聞こえていたらしい

「どうせ移んない年寄りしかいないし、こんな天気いいのに家で引きこもってる方が病気になっちゃうって」

 荷台に僕を乗せて自転車は急坂を下る。振り落とされないよう、運転手の腰に手を回してギュッと抱きつく僕には、怖くて目を開けて周りの景色を気にする余裕もなかった。


 もらってくねーと、誰もいない店に声を掛けて、みやこは冷蔵庫からラムネを二本取り出した。お代をカウンターの上に置くと、所在なく店の前に立っている僕のところに戻って来る。

「お近づきの印」

 受け取ったまま瓶を見つめるだけの僕を不思議に思ったのか、みやこは声を掛けて来た。

「飲まないの?」

「どうやって開けるのかわかんない」

 これだから都会っ子はさぁと、鼻の穴を大きくしながら蓋を開けて、もう一度僕にラムネを差し出す。

「どうぞ」

「ありがとう」

 コバルトのガラス瓶を傾けた。強炭酸が脳天を突き抜けて思わず涙が出る。けれどもそれは、決して嫌な感触ではなかった。


「村は初めてだよね」

 店の脇で野ざらしの色あせたベンチに座ったみやこの問い掛けに、僕は首を縦に振った。母さんの実家が山深い村にあることは知っていたけれど、世界中を年中無休で飛び回る母には、盆や暮れに半日近くを掛けて実家に帰るという選択肢はなく、したがって僕も今までこの村を訪れたことはなかった。

「都会と違ってなんにもないけど、なんにもないはあるからさ。治るまで、楽しんでいきけばいいよ」

 一気飲みするみやこのマネはしたくても出来ない。ちびちびとラムネをなめてはゲップをする僕を見て、みやこは笑う。

「みやこ、百円玉一枚足んねえろ」

「値上がりなんて聞いてないよ」

「今どき流行りの消費税らて」

 店主が帰宅したらしい。昨年喜寿を迎えた祖母よりもまた年上に見える老婆は、見慣れない顔を見つけて話し掛けてくる。

「どちらさんらね」

「朝倉イネの孫です」

「おうちの都合でしばらく村にいるんだってさ」

「あー穂波ちゃんの子かえ、あん子の小さい頃に似とるけど、もっと垢抜けてるやねえ。誰かさんと違うて、都会の女の子はめんこいの」

「悪かったですよーだ」

 不足分を払ったみやこが唇を尖らせつつ店から出て来る。

「お父さんカンカンだったろ。風邪ひきのくせに遊びにいくなんざふてえやつだって」

「いっけね、回覧板持ってくだけって言って出て来たの、忘れてた」

 お邪魔しましたーと店主に声を掛けたみやこに、ペコリと頭を下げた僕は再び連行されていく。


「どんな男の子だったの?」

 今まで考えたことのない、不思議な質問が飛んできたのは、きつい坂道の途中で音を上げた僕のために、道端で休憩することになったときだった。

「あたしたち初対面だし、ツキ風邪のせいで性別まで変わってるじゃん? 本当の姿を知らないんだなって思ってさ」

「普通の男だよ、普通の」

 休み時間には友達とドッジボールや鬼ごっこで、放課後にはTVゲームやカードで遊ぶ。最近は、そんな友達たちからちょっとエッチな漫画を貸してもらったりもした、普通の男子だ。

「身長は高い方だよ。喧嘩だって、上背のおかげで負けたことないんだから」

「だったらびっくりしたでしょ。ツキ風邪で背まで縮んで」

「まあね」

 高熱にうなされて、翌朝目が覚めたらこんなことになっていたのだから、みやこの言うとおりだ。本当は、身長がほとんど変わっていないのは黙っておこう。だからこそ、普段着をこうして変わらずに着ていられるのだし。

「あたしもびっくりしたけど、いろいろ気軽でいいよ。立ちションってすごい楽なんだねえ」

「女の子が立ちションとか言わないで」

「いいの、今は男の子なんだから」

 ごろんと地面に寝転んだみやこの真似をしてみる。アスファルトでなく名も知らぬ雑草に覆われた地面からは、むせ返るような土と草の匂いがした。


「ごめんね、振り回しちゃってさ」

 さっきまでのテンションとは裏腹な声に驚いて隣を見る。声の主は高い空を見上げたまま、つぶやくように話をしている。

「こんな田舎だから、年の近い子供なんていないんだ。女の子なんて、近くても5つも6つも離れてる。だから年の近い女友達が出来たみたいで嬉しかったんだ」

「べつに、嫌じゃなかったよ」

 はっとしたようにこっちを向いたみやこの、ツンツンと立つ髪の毛や日焼けで浅黒い肌、そのくせ長くてきれいなまつげに思わずドギマギしてしまう。

 柄にもないと自分でも思った。それでも口に出さずにいられなかったのは、さっきまであんなにキラキラしていた男の子の顔がこれ以上曇るところを見たくなかったからかもしれない。

 そんな僕の心の葛藤に気づいたのかはわからない。それでもその言葉に満足したのか、勢いよく跳ね起きると、上体を起こした僕に向けて手を差し出す。

「帰ろっか」

 そういったみやこの笑顔は、僕を祖母の家から連れ出したときのいたずらっぽいときのそれと少しも変わりなくて、僕も少しだけ安心してしまった。

 思えばこれが失敗だったのかもしれない。

 以来毎日、古めかしい響きの呼び鈴とともにみやこは現れ、村中の遊び場に連れ回されることになってしまったのだった。


                   *  *


 みやこが紙袋を持って現れたのは、僕が村に来てから5日目のことだった。

「またお父さんにゲンコツ貰うよ?」

「貰ってばっかりで頑丈になってるから平気平気」

 懲りもせずに毎日遊びに来るみやこを止めるのは不可能であることをこの数日で思い知っていたので、大人しく家に上げる。

「スイカあるけど食べる?」

「食べるー」

「暑いからあっちで食べよう」

「エアコンは?」

「昨日から調子が悪いんだ」

 風鈴が身じろぎ一つしないほどの無風では、茶の間で食べても縁側で食べても同じかもしれないけど、開放的な分いくらかは涼しいだろう。

 

「甘いね」

「お塩いる?」

「僕はいいや」

 婆ちゃんが切っておいてくれたスイカを二人で並んで食べる。口の中の種をテイッシュに避ける僕とは違い、みやこは片っ端から庭の植え込みに向けて勢いよく吐き出していた。人ん家なのに遠慮というものがない。試しに真似をしてみたものの、全然飛んでいかなった。

「コツがいんの」

 本気を見せてあげようと言いながら立ち上がったみやこは、ストレッチを終えると居間まで向かった。助走をつけて身体をよじり、その反動で勢いよく口から種を吐き出す。垣根を超えて、遠くの入道雲まで届きそうな特大ホームラン。

「目指せ世界一」

「すごいね、すごい品がない」

「これで村おこし出来ないかな」

「スイカ、別に名物でもなんでもないでしょ」

「じゃあ特産スイカを作るところから」

「気が長いって」

 そういえばと、みやこが持ってきた紙袋のことを思い出す。口からは、白い布のようなものが見えていた。

「何なのそれ」

「お、そうだったそうだった」

 紙袋を逆さにひっくり返す。細い肩紐にひらひらのレースで出来た裾、中身は真っ白いワンピースだった。

「ファッションショーでもやろうっての?」

「君がね」

 僕が?

「お父さんの趣味で持ってるけど、自分じゃまず着ないからさ。今の君ならきっと似合うと思って」

「趣味じゃないんでしょ?」

「着るのはね。あたしん家、下は男の子ばっかりだから、こういう格好させづらいの。みんな私みたいに焼けて真っ黒だし」

「させづらいってことは一応させたのか」

 気の毒に。

「べつに強制じゃないよ。これはあたしからのお願い。ただし、ここしばらく遊んでて、ラムネも花火も釣り竿も、その分のお金はぜーんぶあたし持ちだってことは、覚えててほしいなって、お姉さん思っちゃうわけ」

「卑怯な」

 ワンピースを僕の胸に押し付けぐいと迫り来るみやこを黙らせられるだけの理屈を、とっさには用意を出来ない僕だった。


「やっぱり似合うじゃーん」

 おずおずと扉のかげから上半身だけをのぞかせた僕を見て、やはりあたしの目に狂いはなかったと、満足気に頷きながらみやこは言った。

「もういいかい?」

「いいと言うと思ってるのかい?」

 仁王立ちしながら手招きをする姿に抵抗を諦めた僕は、すごすごとみやこの前に向かう。

「そもそも別の部屋まで着替えにいく必要ないじゃん」

「ジロジロ見られるのなんて恥ずかしいでしょ」

「いいじゃん女の子同士」

「今は違うでしょ」

 笑ってごまかしたみやこの視線は、僕の下半身へと向かう。

「どうしたの裾なんて抑えて。風なんてこの通りちっとも吹いてないじゃん」

「頼りなくて不安なんだよ」

 もし今少しでも風が吹いたら、すぐにめくれ上がってしまいそうだ。こんなにも開放的過ぎる衣類を日常的に身に着けている女性は、とんでもなく度胸があると思う。

「おしゃれは我慢ってこと。あたしは苦手だからいっつもズボンだけどねー」

 あっそうだと声を上げたみやこは勝手口へと消え、しばらくすると麦わら帽子のつばを手に持ちながら現れる。

「ばあちゃんの畑仕事用のがあると踏んでさ。大正解」

人ん家なのに遠慮というものがない。

「それをどうしようっての」

「帽子に被る以外の用途なんてないでしょう」

 のしのしと近づいてきて僕の頭上へ麦わら帽子をぽんと乗っけると、少し離れてカメラのファインダーを覗く真似をしながらみやこは呟く。

「完ッ璧」

「またそうやってふざけて」

「ほんとほんと。美少女、妖精、夏の擬人化」

 そんなこと言われたところでちっとも嬉しくなんかない。

「よし決めた。ひまわり畑まで行こう」

「ひまわりなら一昨日見に行ったじゃん」

「その格好で行って、写真取ろうよ。画になるって絶対」

「ならんでいい。カメラはどうするのさ」

「お父さんの書斎にあるの借りてくる。こんな美少女撮るんだもん、許してくれるはず」

「無理だって」

 平気平気とまた僕の腕を取って連れ出そうとするみやこ。勢いよく玄関の扉を開けるやいなや、僕の右手を掴んだ力強い左手からどんどん力が抜けていった。

「軒先から、でっかい入道雲が出てたの、見えてたでしょ」

「もう30分もってくれればなぁ」

「こんな土砂降りの中、絶対出掛けないからね」


「止まないね」

「梅雨は明けたはずなのになあ」

 あっという間に始まった夕立で、家の前の坂道は急流のように雨水が流れている。この中を帰すわけにもいかず、エアコンも効かない部屋で雨が止むのを待たざるを得なかった。

「蒸し暑いけど、この格好のおかげですーすーしていいよ」

「ごめんってば」

 あまりにかわいいを連呼しすぎたらしいと気づいたときにはもう遅く、すっかりへそを曲げた僕に向けて、みやこはさっきから謝り倒している。

「またヨイショして、ふりふりの洋服着せようって思ってるんでしょ」

「もうしないって」

 そんなに気にしてるって思わなかったからさと謝りつつの弁解を聞いてるうちに、少しずつ気持ちが落ち着くと同時に、嫌悪感が迫って来る。それは、単にへそを曲げたことだけではなかった。

「前々からなんだよ。かわいいって言われるの」

 前に倣うのではなく先頭で腰に手を当てて立つのが定位置。そんな体格と母親似の容姿のせいで、随分とからかわれてきた。

「髪が伸びたくらいで、背丈も見た目もほとんど変わってないんだ」

 だからこそ、ムキになって外で運動したり、友達からエッチな漫画だって貸してもらったりもする。だけど本当は、家で小説や漫画を読む方が好きだし、なにがどうエロいのかだって、じつはよくわかっていない。

「早く大人になりたいってずっとずっと思ってる。もっと背も伸びてガタイも良くなって髭も生えて。そうすればみんなから馬鹿にされない、いじめられなくて済むんだから」

 だというのに、ツキ風邪で女の子になってしまった。しばらくすれば普通はもとの身体に戻るとお医者さんはそう言ったけれど、本当なのだろうか。もしもずっとこの身体のままで生きていかないといけなくなってしまったら。


「大丈夫」

 不安に震えうつむく僕をぎゅっと抱きしめる強い力。背丈なんて今の僕と対して変わらないのに身体はかっちりと堅くて、こんなに幼くても男女の身体って違うのだとぼんやり考える。

「君はツキ風邪に罹ったことを後悔してるけど、あたしはちょっと違うんだ」

 腕の中で僕は、滔々と語る声を聞く。耳だけじゃなく全身に、みやこの言葉が直に響いてくる。

「去年まで―今の君と同じ歳だね―そのへんで遊んでる男子たちとちっとも変わらなかったのに、この一年で身体は随分変わっちゃった。背も伸びて、肉もついてきて、おっぱいも大きくなった」

 邪魔なばっかりなんだよ、あれってさ。そう笑うみやこの声は、少しだけ苦い。

「もう一度、なんにも気にしないで自由に駆け回れたならってずっと思ってた。だから、期間限定でも男の子の身体になれて、嬉しいの」

 そっと僕の髪を指で梳くみやこ。髪の先までこんなふうに感覚が伝わるだなんて、この身体になるまで、想像もしなかった。

「遠くない未来、君もきっとそんなふうになるよ。背も伸びて、喉仏が出てきて、声も低くなって、昔と地続きのはずなのに、いつの間にかそれが当たり前になっちゃうような。変わっていくことがあたしは嫌だった。でも、はやく君がそうなりたいって思ってるのなら、ちゃんとそうなれるよって、言ってあげたい。言わなきゃいけない。あたしは、君よりほんの少し、お姉さんだからね」

「今はお兄さんじゃないか」

 それもそうだと、みやこは照れくさそうに笑う。

「ツキ風邪で女の子になって、ひとつだけ良かったことがあったよ」

「なに?」

「男のままだったら、こんなふうにぎゅっと抱きしめられたら、恥ずかしくてしょうがなかったと思うから」

「違いないね」

 窓から聞こえてくる雨音は随分と弱くなり、代わりにヒグラシの鳴き声が聞こえ始めた。この調子なら、みやこは家に帰れるだろうし、晴れさえすれば、希望通りにひまわり畑に出掛けることだって出来るかもしれない。

「わがままを言っていいかな」

 だけど。

「聞くだけ聞いてあげる」

 顔を上げてみやこの耳元で囁いた、僕の図々しい要求から一拍置いて、抱きしめる力がまた少し強くなる。湿っているタンクトップから、汗の匂いがツンと鼻を突く。

 雨は止んでもその暑さはとどまることを知らない。その原因が、吹かない風のせいだけでないことを、ようやく僕は理解し始めていた。


                   *  *


 目を覚ますと、そこはアラサーの独身男性が暮らすワンルームの一室で、セミと木の葉の合唱が聞こえる祖母の家ではなかった。唯一、蒸し暑さだけは少し似ていて、そのせいでこんな夢を見てしまったのだろう。


 あの日も、再びの高熱が引いて目が覚めると、住み馴れた自宅の子ども部屋で、身体ももとの男のものに戻っていた。発熱で始まり発熱で終わった一週間だったから、ひょっとして長い夢でも見ていたのかもしれないと一瞬考えたけれど、あの日々が現実であったことは、机の上に置かれていたビー玉が雄弁に語ってくれた。

 今思えば、縁側でスイカを食べていた頃から発熱は始まっていたのかもしれない。抱き合ううちにぶり返してきた高熱に苦しむ俺を心配したみやこは、村で唯一の医者を呼びに梅雨さめの中を自転車でひとり坂を下った。

 俺の身体の変化が終わり高熱が引くと、今度は冷たい雨に打たれたみやこが熱を出した。その後ほどなくして元の身体に戻ったらしい。こちらも余熱に浮かされたまま、予定を前倒して帰国した母に連れられ自宅へと戻ったから、後に祖母から聞かされた伝聞にすぎない。

ビー玉は、自宅へと帰る日に、お守りにとみやこが持たせてくれたものらしい。詳しくはわからない。けれどきっと、初めて会った日に一緒に飲んだラムネ瓶の中身だという確信があった。

 次会うときにはお礼を言うんだよと、電話越しに話してくれた祖母は、それから一年と経たないうちに、脳梗塞に倒れ帰らぬ人となった。葬儀は村の麓の町で行ったから、みやこには会っていない。だから今でも、俺にとっての野村みやこは、あの一週間を共に過ごした男の子の姿のままだ。


 あれから随分と月日が流れて、俺も大人になった。沢山の人と出会い、別れ、恋をしたりもした。ツキ風邪にかかるのは人生で一度きり。あの日あの時に戻ることも、あの姿のみやこに会うことも、二度とない。

 だからこそ、僕にとっての初恋は、優しかった保育園の先生でも、バレンタインにチョコをくれた同級生でも、ラブレターをくれた後輩でもなく、華奢な女の子(僕)を抱きしめていた、真っ黒に日焼けしたタンクトップと短パン姿の男の子(みやこ)だったと、心からそう思えるのだ。

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