第26話 草むらに気をつけろ

 家に着くと、もう夜だった。


 マクラフ婦人に言われた通り、しばらく身体を洗ってない。これは猛烈に反省だ。この世界では多少の不潔は普通だ。だが、そんな事に慣れたくない。


 小川に水を汲みに行く。しかし水を汲むなんて、この世界から戻ったら二度とないだろう。


 そういえば、と考えた。せっかく中世の世界なんだ。ここでしかできない事は、やってみるべきだ。


 部屋に戻り、本棚に向かった。あの使うことのない本を活用しよう。


 元の部屋では広辞苑の箱があった場所に、ぶ厚い辞書のような本があった。表紙の文字は全く知らない文字だ。古代文字、そんな雰囲気をかもし出している。


 最初の数ページに何か書いてあるだけで、あとは白紙だった。これはいい。小脇に抱え外に出る。草むらに向かった。


 そう、野グソだ。これは現実の世界ではできないぞ。


 家のトイレには、ケツを洗い流すための小さな水瓶とヒシャクがある。それを外に持って出るわけにもいかない。小金持ちになったら、ぜひケツ拭き用の紙を買いたい。


 場所を決め、スボンを下ろす。辞書の白紙ページを何枚か破り、くしゃくしゃに擦って柔らかくする。


 よし、その時が来た。おれは力んだ。


 しかし、草むらの向こうから、がさっがさっと近づいてくる音がする。しまった! 人がいたか。


 茂みから出てきた赤い目。おれは息を飲んだ。いつかのノラだった。


 見つめ合う。時間が止まったかのように。


 何を考えているのか。ノラは無表情だった。おれの姿勢。短剣は部屋に置いていた。チックは机の上で野菜を食べている。


 気をそらせようと、破った紙を丸めて遠くに投げた。まったく反応なし。


 もう一つ放る。違う方向に投げようとして、手が滑った。ふわっとノラの鼻先に当たる。ノラが匂いを嗅いだ。


 近くのほうがいいのか? おれはもう数枚、ノラの近くに丸めた紙を投げた。


 紙を嗅ぐと何を思ったか、ぱくっと口にした。むしゃむしゃ噛んで飲み込む。さらに、もう一つ近くの紙を食べた。おいおい、腹壊すぞ。


 ノラは大きなゲップをして、えづきだした。ほらな、言わんこっちゃない。


 げえげえ、と音はしているが、紙は出てこないようだった。


 そして茂みの奥に戻って行った。とりあえず助かった! これをもって「ペンは剣より強し!」とは言えない。


 おれは落ち着いて尻を拭き、家に戻った。破った辞書は本棚に戻す。


 よし。もう、野グソはやめておこう。


 しかし「慣れたころが一番危ない」と昔から言われる通りだ。


 自分のバカさ加減に疲れた。今日はもう寝よう。

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