本の虫
何某 名無し
第1話
私は両親の顔を思い出せない。
なにせ最後に見たのがもう13年も前になる。正確にいえば13年と76日だ。13年と76日前、私は誘拐されずっと監禁されている。
あの時のことは今でも覚えている。小学生に上がり二回目の夏休みを満喫していた私は、その日も友人と公園で蝉取りをした後帰宅する途中だった。人気のない道で車から一人の男が降りてきた。当時、人見知りという概念がなかった私はその男に何も警戒心を持っていなかった。その男は私に近づくと親しげに声をかけてきた。
「やあアリサちゃんだね。おじさんはお父さんの仕事仲間でね。お父さんが仕事が忙しいから迎えに来てもらうように頼まれたんだ。」
優しそうな声だったこともあり、私はなんの疑問もなくその男の車に乗ってしまった。そこでもらったオレンジジュースを飲んでからの記憶はなく、気づくとこの部屋に監禁されていた。
この部屋は一面に本が並んでおり、図書室、いや図書館と表現した方が正しい程の広さがあった。初めはそこで待っていたら父親が迎えに来てくれるものだと勘違いしていたが、何時間たっても迎えに来るわけもなく、この部屋から出られるわけもなかった。
誘拐されたことに気づいてからはひたすら泣いた。来る日も来る日も泣いていたが何日目かでそれも無駄であることを悟った。
その後脱出を図る。しかし窓がないこの部屋で出入りできるのは食事が運ばれるあの扉のみ。食事はドアの下に開いた隙間から定期的にトレイに乗った食事が出てくるだけ一度もあの扉が開いたことはない。叩いたり引っ張ったり、体当たりしてみたり、思い当たること全て試したがその扉が開くことはもちろんなかった。
これでは埒が明かないと思った私は周りのものを利用しようと思った。私を取り囲むのは大量の本。おそらく一生かけても読み切れないであろう量がある。その中に何か脱出できるヒントがあるのではないかと思ったのだ。
とはいえ、当時小学二年生だった私に読める本なんて限られている。ふり仮名が降ってあるものでなければ読めない。国語辞典と漢字辞典を両脇に添えて自分が理解できる本から読んでいった。初めは小学生低学年の図鑑や小説、歴史の教科書もあった。
そこから少しずつ漢字や言葉の言い回しを学び理解できる本を増やしていった。正直な話その過程は面白かった。ゲーム感覚とも言える。本を読んで漢字を覚えてレベルが上がると読める本が増える。この過程は私の大いなるモチベーションとなった。
4年もその生活が続くと専門書以外の本は読むことができるようになった。その時点で脱出するヒントは手に入っていなかったが、私はそんなことはもうどうでもよかった。本を読む楽しみが脱出するという当初の目的を凌駕していた。本来なら中学生から高校生に上がる年齢の頃には簡易的な専門書も読み始めるようになった。特に医学書と心理学に興味を深く持った。
こんな生活がいつまで続くか見当もつかなかったが、不満はあまりなかった。しいて言えば新しい本が入らないことぐらいだった。
そして今日、唐突にこの生活が終わったのだ。
本で作られた世界の崩壊は朝食から始まる。いつもは八時に朝食が乗ったトレイが来るはずなのにそれが来なかった。
こんなことは今まで一度もなかった。13年間で一度もだ。いつもなら昼食が来る一二時まで待ったが何もくる気配がない。明らかに何か異変が起きている。そう感じた私は意を決してドアノブに手をかけた。13年という時間をいとも容易く崩壊した。
音もたてずに開いてしまったのだ。立場からすれば喜ぶべきなのだろう。けれどそんな感情は私の中には微塵もなく、戸惑いしかなかった。13年積み上がった日常が非日常となった瞬間だった。
空いたドアの隙間からは上り階段が見える。なんとなく想像していたが、この図書館は地下にあるようだ。
私には今二つの選択肢がある。ドアを閉じて日常に戻るか、この日常から出て元の生活に戻るか。
「現状維持バイアス」といったか。本の記憶を呼び起こす。人間は慣れた環境から新しい環境へ変わることに拒否的な反応を起こすとか。まさにこの状況なのだろう。この時私が築いたものは知識であって経験ではないことを実感した。
私は本で読んだ内容しか知らない。俗っぽく言えば頭でっかち。そんなことを思っていると腹の虫がここから早く出ろと催促した。朝から何も食べていない。階段を上る以外に選択肢はなかった。
階段は三〇段。それが何階分に当たるか検討つかない。普通に生きていればそういう感覚というものがつくのだろうか。階段を上りきるともう一つドアがあった。そこも鍵はかかっておらず簡単に開いた。
本の虫 何某 名無し @nanigashinanashi
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