また兄弟になる

カネヨシ

見知らぬ弟

 男は昨日と同じように帰宅した。

 キーケースから見慣れた鍵を取り出し開錠する。玄関に入り鍵を再度閉めて、廊下の間接照明をつけ、週末に手入れした革靴を脱ぎ、最近着始めたコートをハンガーラックに掛ける。常と違わない行動だ。ふうと息を吐くと仕事の疲れが押し寄せて、明日の仕事を思い憂鬱になった。休日まであと二日。翌日のプレゼン内容を反芻しながらリビングへ向かう途中、洗面所のドアの向こうから物音がした。

 目を向けると同時にドアが開いた。ドアを開けたのは若い青年だった。薄暗い廊下に浮かび上がるような生白い肌、細すぎるほどの体躯がいかにも不健康そうだったが、少し伸びた黒髪を耳に掛けたかんばせは、ちょっと驚くくらいに美しいものだった。

 「おかえりなさい」と微笑む彼には悲哀がとても良く似合う。薄幸の美青年然として精一杯の好意を湛え男を見つめる彼に、男は思わず口を開いた。



 「誰だ、お前は」


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 青年の名前はルチヨといい、男の弟であると自称した。しかし、男はルチヨのことを知らなかった。当然彼を見たこともなければ、そのような兄弟の存在を聞き及んでもいない。

 通報しようとする男を制して病院へ行くことを勧めるルチヨの様子に妙な真剣さを見出した男は、ルチヨが逃げないようにその右腕をつかみながら、保険証を取りに行く体で貴重品を保管している自室へ向かった。つかんだ腕から彼の体がこわばるのを感じたが、不審者に気を配る必要はなかった。

 もしルチヨの言い分が正しければ彼の保険証は家の中にあるはずだった。引き出しを開ける直前に、男はルチヨに声をかけた。


 「ああ、保険証は持ち歩いているんだった。お前のはここに置いているのか?」

 「ええっと、忘れてしまったけれど、たぶん。そういうのは全部兄さんが管理しているから」


 いい歳してそんなことがあるのか、と訝しく思いながらも男は引き出しのダイヤルを開けた。ルチヨへの不信感が拭えない男はその間も常にルチヨの動作に注意を向けていた。男が異常であることとルチヨが不法侵入者であることのどちらが真実らしいかと考えれば、男がルチヨを疑うのも当然のことだった。むしろ即時通報せずに交渉の余地を与えてやっていることは不用意であると非難されるべきだろう。譲歩を重ねた男であったが、確固たる証拠を示せないのであれば迷いなく警察を呼ぼうと考えていた。


 予想に反し、果たしてルチヨの保険証はあった。男の預金通帳やその他重要な物品が入れられた引き出しの隅っこの方に、まるで置き忘れられたかのように、しかし確かに保管されていた。

 『萩原流千代』。それが彼の名前だった。男と同じ名字を有し、男とは八歳の年の差があるとわかった。


 「本当に、あるな」


 ルチヨは戸惑った様子で男の顔色を窺っていた。男は手にしていた保険証を置き直し、引き出しに鍵をかけた。そして、ルチヨに向き合ってこう言った。


 「お前は、俺の弟なんだな。俺がおかしいんだな」


 ルチヨははっとしたように返した。


 「おかしいわけじゃないよ。きっと何か理由があって、今はこうなっているだけで。……ねえ、冗談じゃ、ないんだよね? なら、やっぱり病院に行ったほうが……」


 男は首を振った。明日の仕事もあり、そもそも一般外来は既に閉じている時刻だった。男自身は先程まで何の支障も来していなかったのだ。ただ一つの問題は見知らぬ弟ルチヨの存在だけであり、それ以外に致命的欠陥があるようにも思えない。ルチヨがいるという強烈な違和感に目をつぶれば今日をやり過ごせる。せめてそうして次の休日までは持ちこたえたかった。


 「とりあえずはお前を信じよう。明日明後日は外せない仕事があるから、それまでこれは後回しにする」

 「でも、他にも何か問題があったらどうするの?」

 「そうだな。今日は電話で医師に相談するだけにしておこう。何か言われれば流石に行く」


 男はそう言ってリビングへ歩き出した。ルチヨは一歩後ろの距離感でその後をついてきた。リビングにある電話機の前で医師に相談しようと電話番号を調べる間も、ルチヨは男を見つめ続けていた。視線を煩わしく感じた男はルチヨを見つめ返した。ともすれば睥睨にもなりかねない鋭い眼差しだった。


 「心配するな。そこに座ってテレビでも見ているといい」


 ソファーの方を見やって言うとルチヨは素直に従い、そしておもむろにエアコンのスイッチを入れた。先程までルチヨはリビングにはいなかったのだろう。リビングは随分と冷えていた。


 男は調べた電話番号を打ち込みながら、緊張した面持ちのルチヨを気に掛けていた。本当に彼が弟であるのならば同居する兄を心配する気持ちも理解できた。いや、それよりも自分を忘れられてしまったショックが強いだろうか。「おかえりなさい」と微笑んだ時の柔らかな雰囲気がぎこちなく崩れていた気がする。以前の兄弟仲が良かったのかはわからずとも、男の記憶障害は彼の精神に影響を及ぼすだろうと推測できた。

 電話は無事つながった。男が現状を伝えると、医師は弟と相談の上で様子見をするように言った。男は、念のためと弟同伴での診察を勧められたので、土曜日の午前診療にかかることにした。通話を終えてルチヨに声をかけると、ちょうどチャンネルを決めてリモコンを置くところだった。驚いたように彼の肩がびくりと震え、「どうしたの」と控えめな声で言った。


 「次の土曜日の午前中に診察を受けに行くことにした。お前にもついてきてほしい」


 半ば強制的な同伴の誘いにもルチヨはためらいなく頷いた。それならばこれ以上することはないと男は判断し、遅めの夕食をとることにした。冷蔵庫を開けて食材を確認すれば適当な料理が思い浮かんだ。そういえば彼は既に食事を済ませたのかと男は思った。


 「夕飯は食べたか?」

 「いや、まだだよ」

 「俺を待っていたのか? 準備はしていないようだが」

 「食事は全部兄さんが作ることになってるんだ。僕はかわりに掃除を請け負ってる」


 そうか、と言って男は料理を作り始めた。冷蔵庫の中の食材も記憶にあるものと変わりなかった。男二人分にしては少ない気がして、ルチヨの痩身を思い出す。薄い肩、胸、細すぎる腰回り。無理につかんだ腕の骨の感触を手のひらが覚えていた。男は痩せているわけでもないのに、同居人の彼はやけに痩せている。弟の分の食費を削るほど自分は落ちぶれていないとは思えど、見直さねばならないことはきっとあるだろう。


 無意識が自分一人分の食事を作ろうとするのを抑え込んで、食材を足して彼の分も含めた夕食を完成させた。手の込んだものではないにせよ食べられる形ではある。しかし、先に帰宅している弟に任せてしまったほうが無難であるだろうに、なぜ自分は頑なに食事をすべて担当していたのだろうか。


 「できたぞ。一緒に食べるか?」

 「え、ああ、うん」


 歯切れの悪い返事をして、ルチヨはダイニングテーブルまで移動してきた。男は食器棚から二人分の食器を取り出し、箸を用意しようとして手が止まった。男の家では箸は自分のものが決まっていた。男は自分のものを選び取り、他の箸を見て違和感を覚えた。


 男の住む家はいわゆる実家である。今は男の一人暮らしだと男は認識しているが、以前住んでいた家族のものはすべてそのままに置いてある。それらを除くと、ルチヨの分の箸がない。他の食器は同じものが複数枚置かれているが、箸は用意されていなかった。


 「お前の箸はどれだ?」


 椅子に座るでもなく居た堪れないように立っているルチヨは男に「どれでもいいよ」と言った。どれが自分のとは決まっていないんだ、と続けたルチヨに、男はふうんと言ってかつて父のものだった箸を選んだ。


 いやいや、おかしいだろう。父も母も、他の兄弟も、自分の箸を使っていた。皿は共同だったが、マグカップや茶碗はそれぞれ自分のものを揃えていた。よく見ればそれらはルチヨの分がない。自分のものとしてあるはずのものだけが不自然にない。

 急に沸き上がった不信感を隠しながら、素知らぬ顔でテーブルに料理を置いていく。「座れよ」と言えばルチヨはそれに従った。

 素直というよりも従順に近い。ますます得体が知れない。彼が窺うように男の様子を見るので、男は何も言わずに食事に手を付けた。



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 つつがなく夕食は終了した。食事作法も問題なく、不審な行動もしなかった。ただし、食事の量が普段よりも多かったのか、しばらくするとルチヨの箸が止まりがちになったため、残りはラップをして冷蔵庫行きとなった。

 夕食の片づけは男一人で行った。ルチヨは食事後におずおずとソファーの端へと戻って、ぼんやりとテレビを見つめていた。片付けが終われば既に九時半を過ぎていた。男はルチヨに一声かけてシャワーを浴び、自室に入った。

 自室にも昨日から変化したところはない。シーツの皺の寄り方、机の上の小物の配置、椅子の傾き、カーテンの開き具合、それらは記憶にある範囲で何も変わっていない。その他こまごまとしたものにも違和感はなかった。すなわち、部屋を荒らされた痕跡はないということだ。


 ルチヨが弟であるということは信じるべきだろう。彼が男に害意を持たないということもおそらく正しいだろう。しかし、どうしても拭いきれない不信感がある。これからなすべきことは、彼の為人を把握し以前の関係を探ること、そして真実を知ることだ。

 スマートフォンで日付を確認するが、認識している日付と同じである。スケジュールを見ても記憶と異なる点はない。連絡先は知っている人間だけが登録されており、抜け落ちた者もいなかった。やはり、ルチヨの存在だけが記憶から抜け落ちているように思われた。

 男はルチヨの容姿を思い出した。一目見てわかるほどに自分と似ている、ということはない。しかし、家族であると紹介されて否定するほどに似ていないわけではなかった。ルチヨの隣に立てば影は薄れてしまうが、男は生娘の一人二人なら微笑んで少し会話するだけで惚れさせられるくらいの美男子だ。くっきりとした二重やすっと通った鼻筋、額や頬骨や顎の美しい輪郭が黄金比のパーツ配置を包んでいる。美と冠するに迷う余地がないということについては、男とルチヨとで共通していた。

 だがしかし、あの体格である。男は上背があり、脱いでも情けなくならないようにある程度鍛えている。つまり体格は良いほうだ。いくら食事量に差があるとはいえ、ルチヨがあそこまで痩せており、背も男より十センチ低いことには疑いの余地はある。兄弟として同じ環境で過ごしながら出る範囲の差なのだろうか。せめて従弟であったり、別居していたりすれば納得もしやすいものだが。


 男はルチヨについて考えながら就寝準備をした。明日の仕事はいつまでかかるかわからないが、明後日は定時上がりできるはずだ。まとまった時間が取れれば彼から話も聞けるだろう。存在さえ知らない家族が唐突に現れた状況で重要なのは、記憶障害の原因ではなく現状の把握である。頭の片隅にルチヨが男を騙している可能性を残しながら、明日に備えてアラームの時刻設定を昨日より三十分早めた。

 ルチヨの自室はどこにあるのだろうかという疑問が浮かんだので、男は記憶を探り、一つ空き部屋があったことを思い出した。おそらくはそこだろうと見当をつけるが、男の自室から離れていることを確認して一先ず気にしないことにした。隣室でないのならば心理的距離がある。弟であると仮定しているとはいえ、今日会ったばかりの人間と一つ屋根の下というのはストレスになりそうだった。仕事に支障が出ては事だと考えた男は、せめてもの安心のためにドアの内鍵を閉めてから眠りについた。



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 朝は静かにやってきた。まだ日の射さない室内で目を覚ました男は、枕もとの置時計を見てアラーム前に起きたことを知った。

 覚醒した瞬間にルチヨのことが頭に浮かんだ。男は自室の鍵を見て閉まったままであることを認めてから部屋を出た。朝の支度を始める前に、男はルチヨがいるだろう部屋の前まで足音を立てぬように移動し、ドアの取っ手に手をかけた。そして、そのまま押し込もうとして鍵がかかっていることに気が付いた。ルチヨはやはりここにいるのか、と理解した男は取っ手から手を離し、今日のプレゼン内容を思い浮かべながら朝の支度をした。


 さて朝食を作ろうかというところでルチヨが起きてきた。彼は男を見留めると初対面時とよく似た微笑を浮かべ、その後息を詰まらせたような気配を男は感じた。


 「おはよう、兄さん。今日は……ずいぶんと早いね」

 「ああ、早く起きすぎてしまった。そうだ、今から朝食なんだが、お前の分も作ればいいのか?」

 「え、と、いつもは僕のほうが早く起きるから、兄さんは自分の分だけ作ってるんだけれど……」

 「お前が構わないならついでに作る。昨日の残りも食べてしまえ」

 「それなら、お願いします。わざわざありがとう」


 ルチヨは話し終えてソファーに座り、昨日と同じようにテレビを見ることにしたようだった。朝のニュースをキャスターが爽やかに伝えている声がする。男がルチヨを一瞥すると、彼はぼんやりとテレビ画面を見つめていた。


 ルチヨが動揺していることが男には伝わっていた。昨日は心配の色が強かったが、今はショックのほうが強いと見えた。以前の彼を知らない男に悟られてしまうほど精神的に参っているようだった。

 ルチヨをまだ疑っていた男も流石に彼に同情した。男に彼の記憶がない以上、彼との会話のたびに彼を傷つける可能性があった。

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