アイラブユー

桂 叶野

アイラブユー

「殺したてだからね、鮮度は抜群だよ」

 そうやって彼奴が繰り返し言うものだから奮発して買ってやったというのに、自宅キッチンで包みを開けてみれば、その肉はどう考えても解体して相当な日数が経過しているようだった。

 いつもそうだ、彼奴は目先の金にばかり目が眩み、その先のことは何一つも考えられやしない。もしも僕が人並みの金を常に持っているような男だったなら、彼奴の店なんて見向きもしないだろう。「金がない」というのはつまり「選択肢がない」ということとイコールだ。


 ピンク、あるいは赤というより、赤土やエンジに近い色合いの肉を前に一つ、溜息をこぼしてから僕は渋々調理を始める。とにかく買ってしまったものはどうしようもない。今日の食材はこれしかない、ならば今日はこれを食べるほかないのだ。肉は腐る直前がうまいのだと、昔だれかが言っていた。腐る直前がうまいとするなら、半分腐っていればなおさらうまいに違いない。僕は自分を自分で洗脳し、キッチンにあるほとんどのハーブをごちゃ混ぜにして、腐敗寸前のそれに力いっぱい擦り込んでやる。

 冷たい生肉の表面へ僕の体温が少しずつ移動していく。何度触っても、僕は肉の質感を好きになれない。やわらかいのに芯があるようで、芯があるのにぐにゃぐにゃと不安定なのだ。薄気味悪くて仕方がない。“あの子”は生肉を触っても何ともないという。いい加減彼女との役割を元に戻したいなあと思いつつ、僕はなかなかそれを彼女に言い出せないでいる。


 肉塊に適量の塩と胡椒を塗しオーブンへ放り込んだところで、豪快に玄関の開く音が響き、それと同時に彼女の帰宅を告げる賑やかしい声がした。玄関で今日一日分の埃を払っている最中、彼女は肉に火が入っていく過程独特の生々しい香りを感じたのだろう、

「あー! 今日、肉? ねえ肉? 肉だよねえ!」

「うん、そう。肉。半分腐ってたけどね、まあ、食べられるとは思うよ。死にはしないかなー」

「やった! 腐っててもイッちゃってても肉は肉! 最高だ……今日も頑張ってきてよかったあ……」

「あはは、ローズマリーの香りも移してあるよ。僕、宇宙一偉いでしょ」

「あーもう……私はお前がいなければ生きていけないよ……」

「ふふ、もっと言って」

「愛してるよ、ダーリン!」

「ざんねん、僕は愛してないのよねー」

「それでもいい! 肉が食べられるのならば!」

「わはは、飯炊きとして扱われている気がする」

 彼女は全身で「嬉しい」を表現しながら飛び跳ねるように洗面所へ移動すると、手のひらに何度も石鹸を擦りつけて丁寧に洗い始める。清潔を好むことは立派だが、石鹸代も馬鹿にならないので正直あれほどまでに大量の泡を使い洗浄する癖はそろそろ卒業してほしい。けれど僕は、彼女が外で金を稼いでこなければ石鹸を買う金に頭を悩ませることすらできないのだ。

 金がなければ家には住めない。家に住めなければ外に住むしかない。それすら無理なら僕たちは死ぬしかない。

 生きるとはいつもそういう、シンプルな形をしている。


 彼女が外で金を稼ぐ役割を担うまで僕が彼女の役割を担当していて、そして彼女は何もしていなかった。いや、何もしていなかったというには語弊がある。だってそれまでの彼女は何もさせてもらえない生き物だった。

 僕に出会うまでの彼女は、勿論人間だったけれど、しかし手放しで人間であるとはどうしても言い切れなかった。簡単でいいからイメージしてほしいのだけれど、真っ白い、黒目がちな猫の姿をして、右耳に肉厚な赤いリボンを留めたあの有名なキャラクターが飼うペットは“チャーミーキティ”といって、雌のペルシャ猫なのだ。

 つまりはそういうことだ。尊厳だとか人権だとか、そういった常識をひとつ残らず無視してしまえば、やはり生きるとは酷くシンプルなことなのだろう。



 食卓に着いた彼女の前に僕のものよりも大きな肉が載った皿を置いてやると、彼女は「ありがとー」とへらへら笑い、そのまま僕が席に着くのも待ち切れずに勢いよく貪り始めた。そろそろ彼女にもテーブルマナーを教えてやるべきだろうなあとは思うのだけれど、不器用にフォークを握り締め、がつがつと粗野に僕のこしらえた食事を頬張る彼女を見ていると、まあそれは今度でもいいか、という気分になってしまうのだからいただけない。結局僕も彼女のことを人間ではなく愛玩動物として扱っているのだろうか。

 とはいえ、この一年と少しで、彼女は信じられないほど急速にちゃんとした“人間”になったと思う。常に怯えた様子で、まともに視線も合わせようとはしなかった彼女も、今や僕と卒なく会話をこなすし、冗談だって言い合える。人間らしく拗ねるし、人間らしく怒って泣いて笑って悲しむ。彼女は人間なのだと、今の彼女を一番近くで見ている僕はきちんと言い切ることができる。


 だからこそ僕は、彼女がいつの日かこの世界の「本当」に気づき、僕を憎み始めるのだろうということも充分理解している。

 だって、長いあいだ彼女を飼っていたのは僕の知り合いであるアイツであり、アイツに彼女を飼うよう勧めた人間こそ僕であるからだ。


 僕は昔からアイツが憎くてたまらなかった。

 アイツは何もかも僕より優れていて、人望があり、そのくせ小賢しく、人の心を持たず、金にがめつく姑息で傲慢で強欲で残忍だった。僕は常にアイツの行動の尻拭いをしていて、アイツのせいで貧乏くじばかり引かされる人生だった。アイツさえいなければ。僕は常にそんなことばかり考えて生きていた。

 だから、アイツを犯罪者に仕立ててしまおうという一心で、彼へ彼女を飼うよう説得した。用心深いアイツを数か月かけ説得し、彼女を購入させ、飼育させて、アイツが彼女を生活必需品だと思い始めた絶好のタイミングで、僕は警察に「ある男がとある少女を飼っている」と密告した。


 べつに、アイツが僕のことを警察に洩らそうが、僕は心底どうでもよかった。

 僕はアイツが犯罪者になってくれさえすれば、その他のことなどもう本当に、何もかも構いやしなかった。僕がアイツよりも重い罪で裁かれようが、死刑になろうが、これっぽっちも興味なんてなかったのだ。

 だから、アイツが檻の中から僕に【あの子を頼むよ】と手紙を寄越したときも、全くその意味を理解できなかった。それはアイツがそれほどまで彼女のことを狂おしく思っていたという、ただそれだけの話なのだけれど、僕には彼女がそこまでの価値を持つ女の子だとは微塵も思えなかった。ちょっと見た目が整っているだけの、頭の悪い、行儀も悪い、躾のなっていない犬猫以下の彼女を、アイツがなぜそれほどまでに大切に思うのだろう。

 僕はうまいこと周囲を説き伏せ、アイツの役割を受け継いで彼女を飼い始めた。アイツの感情を根底から否定するため、つまりは僕が彼女を愛おしいと感じずにいられることを証明するために、僕は彼女を僕のペット兼家族として受け入れた。そしておそらく、それは近いうち失敗に終わる。

 先日、アイツが刑務所の中で死んだと聞いた。自殺だとか病死だとか刑務官に殴り殺されただとか、いろいろな話も聞こえてきたが、少なくとも死罪だったわけではないらしい。僕は彼女にアイツが死んだことを伝えてある。そのとき、彼女は心底嬉しそうに、やったー! と叫んだ。ちょうど、夕飯が肉だと知ったときの彼女の様子と似ていたかもしれない。



 目の前の彼女が僕をちらちらと見ていることに気づく。僕は呆れたように笑って、はいどうぞ、と彼女に自身の皿をそっくり渡してやる。彼女は、やったー! と叫びながら破顔し、僕の食べかけの肉をうまそうに貪り始める。


 近い将来僕の罪が暴かれ、それによって僕が死んだなら、そのときにも彼女は、やったー! と心の底から笑ってくれるのだろうか。そうであったらいいなあと、僕は彼女に常々期待している。

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