"羆殺し"九道文鬼、ゴブリンに転生す。
@rain96
第1話 空手鬼
日本人。空手家。
それ以外の一切の肩書を持たない男である。
ずんぐりとした体型。
167センチと小柄ながら、ずっしりとした体幹に、鍛え抜かれた肉体を備える。
そんな男である。
拳に生きてきた。
武に殉じてきた。
齢二十、実戦空手 《
齢二十五、各地道場を遍歴し幾度もの百人組手に挑むも一度の不覚も取らず。
齢三十、山中にて羆と遭遇、素手にてこれを制し、"
齢三十五、独自の空手を完成。《
齢四十、人との交わりを絶ち、孤高の拳をただひたすらに研鑽する。
齢四十五、各地で熊と対峙。二十を超える熊と対峙し、全てを仕留める。
そして齢五十の春――
文鬼はロシア、チュクチ半島の氷上に居た。
自らが仕留めた熊の毛皮でしつらえた防寒着以外、何も身に帯びてはいない。
文鬼は餓えていた。
敵に、飢えていた。
齢五十たるは、肉体の衰え著しい歳である。
文鬼とて人である。老いからは逃れ得ない。文鬼自身、そう考えている。
なればこの身が老いさらばえる前に、武の中に死にたかった。
しかし、齢五十にしてなお、人間はおろか獣にさえ、文鬼に敵う敵はいなくなっていた。
仕合う以上は、ルールなしの決闘であると、文鬼は考えている。
故に、格闘技の大会に出場したことはない。代わりに、ルール無しでなら、どのような相手の挑戦も受ける、としている。
そんなものだから、誰も彼に挑んだりはしない。国内では決闘が法で禁止されているのもあるが、何よりそんな戦いでは誰も得をしないからだ。
"ハッタリをかまして逃げている"といった様な声も当初はあった。が、すぐに聞こえなくなった。皆、文鬼が本気であると解ると、引くのである。
一度だけ、文鬼の強さは所謂"やらせ"であるとして、当時最強との呼び名も高い 格闘家が彼に挑んだ事があった。
結果は一撃。
初撃を受け流されて僅かにバランスを崩したところへ撃ち込まれた文鬼の正拳突きは、相手の厚い胸筋に護られた肋骨にヒビを走らせたのだった。
相手は堪らず崩れ落ち、文鬼もそれ以上追い撃ちしなかった。
骨折である。誰もこれをやらせの類だと指摘するものはなかった。
こうして文鬼が誰かに挑まれる事はなくなり、自らが挑む相手に事欠く始末となったのである。
己の拳を磨く為とはいえ、戦う意思の無いものを相手取るわけにはいかない。
同様に、自身や人間に対し害意のないものを相手にするのもいけない。それでは己の都合で喧嘩を売り歩く凶人である。
文鬼は戦うに足る相手を求めていたが、人間には最早そういう者は誰一人いなくなっていた。
――ゆえの、
それも害獣と指定された、人間に害を及ぼすもののみを相手とした。
自然、羆の中でも特に凶暴な個体が相手となる。
猟銃を持った熟練のハンターが数人がかりで仕留めるような、そんな相手を、文鬼は相手にしてきたのである。
"羆殺し"の異名を持つ文鬼とて、倒した羆の全てに快勝したわけではない。
体中に大小様々な傷跡が走り、特に胸と頬には、強敵につけられた爪傷が生々しく残っている。
判断がほんの数コンマ遅ければ、ほんの数ミリ傷が深ければ、命は無かった。
そういう死線を、文鬼はいくつも潜り抜けて来ている。
そして今――
文鬼はかつてない強敵と対峙していた。
ホッキョクグマ。
いわゆる白熊である。
その体躯は熊の中でも最大。
ハイイログマ――
極寒の厳しい環境に適応するために発達した皮下の分厚い脂肪は天然の防具であり、その重量さえ武器となる。
しかし、いま文鬼が退治している相手は、それだけですら、なかった。
ここ一帯を狩場とする
直訳で《暴食の白》。
10年前、この辺り一帯の動物を狩り尽くし、更に同種である白熊をも食い殺した挙げ句、さらなる食料を求めて西へ去ったという異常個体である。
当時、この一帯が元の生態系へ戻るのに約5年もの歳月を要したという。
それが今、文鬼が闘おうとしている相手である。
つまりは熊の中で最大である白熊、その白熊の中でも恐らくは最強であろう個体に、文鬼は挑もうというのである。
《暴食の白》を眼前に捉え、文鬼は今まさに闘いを開始しようとしていた。
文鬼が前屈立ちに構える。
空手の構えの中でも攻撃的な型である。
「ぬおおおおおおお!!」
文鬼は吠えた。
宣戦布告の雄叫びである。
いきなり襲ったのでは、奇襲となる。それは文鬼の望むところではない。
互いに「命のやりとり」を承諾してからが、闘いの始まりである。
「グオオオオオォウ!」
《暴食》も、吠えた。
一人と一頭が命を賭して闘うには、それで充分な合図であった。
文鬼の意図と力量を感じ取ったのであろう。
最初から暴食に威嚇の動きはない。
既に、命を狩るつもりである。
狩って、喰らうつもりである。
一方、文鬼も
文鬼は信じている。
空手に出会い40年余、昼夜一日たりとも休むことなく鍛え上げてきた己の拳を。
しかし、今回ばかりは、
――倒せぬやもしれぬ。
そういう予感が、かつてないほどに文鬼の意識を圧していた。
己の拳がこの怪物に通じない、とは思わない。
問題は効かすまで己が五体満足で立っていられるか、である。
《暴食》の白い巨木のような腕、その先にある鋭利な爪。
それらのうちひとつに掠っただけでも致命傷だろう。
死は怖くない。
もとより、武の中に死ぬ事を求めて、この死地へ立ったのだ。
死は怖くないが、武の敗北を認めたくはない。
己の武を、この自然の驚異そのものが具現化したかのような怪物に刻みつけたい。
そういう闘争本能に近い意識で己を満たし――
雑念が、消える。
死の、存在の消失の、その先にある領域に、文鬼は足を踏み入れる。
文鬼は、《暴食》の間合いの内に踏み込んだ。
死が、鼻先を横切った。
風と共に、獣臭が抜ける。
《暴食》の、右前足による一撃である。
その死線をかいくぐって、文鬼は更に踏み込む。
極度の集中で、時間の感覚が引き伸ばされる。
《暴食》は二本足で立ち、既に左の一撃を放たんとしているのが解る。
その左が来る前に、鼻先に己の渾身の正拳を打ち込む――
と、その時、文鬼の視界が白く溶けた。
閃光――元々白い風景の白が、その白の濃さを一気に増したようだった。
――及ばなんだか。
文鬼はそう理解した。
つまりは、届かなかった。
己の生涯をかけた正拳突きが鼻先を撃つその前に、《暴食》の左腕の爪がこちらの命を掻き消したのだろう。
痛みを感じていないのは即死であるせいか。
何しろ、あの腕から繰り出される一撃である。
頭ごと叩き飛ばされたのかもしれない。
なんにせよ、自分は敗けた。
そして、これが死の光景であるのだと、文鬼は考える。
死してなお思考が続いているのは奇妙であるが、先程と同じく、死の直前のその瞬間には走馬灯と呼ばれる現象のように思考と認識が引き伸ばされて感じているのかもしれない。
文鬼がそんなことを考えていると、やがて周囲の白が徐々に薄まってゆき、周囲の風景が輪郭と色を帯び始めた。
目の前に樹木が立ち並んでゆき、それらの青々とした彩色が目に映ったのである。
――森……?
その白がすっかり晴れた時、文鬼はひとり、森に立っていた。
大抵のことでは動じない文鬼も、これには戸惑いを禁じ得ない。
極北の大地に居たはずが、いつの間にこのような場所に移動したのか。
《暴食》の一撃を受け、ここまで吹っ飛んで来てしまったのか。
かの白熊の一撃とは
あるいは、これが死後の世界か。
そして、文鬼はまだ気づいていない。
その身体が、この場所へ来る前の文鬼の身体とは異なっている事を。
それは、西洋の伝承や幻想世界を舞台とする物語に登場する小鬼――
即ち、"ゴブリン"の姿であった。
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