#5

 ――――熱い。


 最初に感じたのは、熱だった。それも、感じた事のない高温。まるで、熱した鉄の槍で脊椎を貫かれたような――感覚神経の閾値を遥かに超える灼熱。それが知覚の全てを一瞬で焼き尽くした。

 自分が今、立っているのか座っているのか、あるいは倒れているのか。それすらもわからない。

 闇、そして無音。神経を介し脳に送られてくるのは、知覚を凌駕した概念としての熱、ただそれだけだ。


 アメツチ……。


 彼女の事がふと脳裏に浮かんだ。僕の脳を依代にして存在している彼女は、僕とその命を共有している。つまり、僕が死ねば、彼女も死ぬ。

 こんな事なら、アメツチだけでもサーバーに移しておくんだった。普通のタルパなら、主人格が死んでも、サーバーがある限り存在し続けることが出来る。

 僕は……。


 僕は死ぬのだろうか。


 何者にもならないまま、何もやり遂げないまま、ここでカオスフィールドの一部となって、死ぬのだろうか。

 でも僕は……僕は一体――


 何になりたかったのだろう。

 何をやり遂げたかったのだろう。


 虚構創り? でも、何のために……? 認められるためか? 賞賛されるためか?

 自分が特別だという事を、誰かに見せつけたかったのか?


 違う……。


 僕は……自分が特別じゃない事を知っている。



 僕はただ、自分が特別だと……本物だと信じたかったんだ。



***


 

〝――ビィーーーッ! ……ビィーーーッ! ……ビィーーーッ! ……〟


 

 意識には質量がある。そう錯覚させられる心地良い重力に全てを委ねかけていたその時、まるでその落下を咎めるかのように、攻撃的な電子音が鳴り響いた。

 ……アナライザーのアラート……?

 ああ、でももういいんだ。きっと、信じ続けるより、終わりを告げられる方が楽だから。

 希望は毒だ。持っているだけで蝕まれていく。蛍光色に輝くラジウムのように、希望の放つ甘美な光が遅効性の毒を持つ事を、僕は知っている。

 誰もがその輝きに惹かれ、歩み寄り、素敵なものを見つけたと大切に抱えて暮らしていく。でもいつか気付く時が来るんだ。その輝きがいつの間にか自分自身を蝕んでいた事に。

 僕は、手にした石が宝石じゃない事を知っているのに、それを宝石だと信じたがった愚か者だ。あまつさえ、それが宝石であることを証明しようとまでしていた。


「ご主人様ッ!! しっかりしろ!!」


 アメツチ……。君は僕の事をどう思う? 僕はみじめでつまらない。きっと、どう頑張っても『あの人』のようにはなれない。


「オオイッ!! あんたが死ねばあたしも死ぬんだ!! こんなとこでくたばるんじゃねえ!!」


 アメツチ。


「ああそうだ! さっさと起きやがれご主人様!」



 ――――――ッ!!



 長い潜水から戻って来たかのように、大きく息を吸い込む。酸素と共に、知覚が身体を駆け巡った。誰かに胸倉を掴まれ、身体を揺すられている。

 朦朧とする視界。けたたましく鳴り続けるブザー音。

「熱い……。何がどうなって……」

 再び、脳が焼けるような感覚に襲われる。ああ、そうか、僕達は歪みに飲み込まれてそれで……。

 僕は……絶望しかけていた?

 瞬きをする。揺らぐピントの中、アメツチの顔が青白い光に照らされていた。仰向けに横たわる僕に覆いかぶさるようにしながら、右腕を頭上に向けて伸ばしている。

 その先には、ノイズゲートの光輪――それが、押し寄せる灰色の毛細血管の濁流を、分水嶺のように防ぎ、切り裂いている。そうか……カオスに対して透過性の無いノイズゲートを盾のように使ったのか。

 歪みの奔流に生じた、体一つ分だけの中州。そこに、僕とアメツチは折り重なるようにして横たわっていた。

 でもノイズゲートだけでこの空間が生じたのか……? いや……まさかこれは……。

 視線を下げると、彼女と僕の身体に挟まれるようにして、スティンガーベルが淡い光を放っていた。

「発動していないのに、発振している……?」

「ノイズゲートじゃカバーしきれねえ! 早くレゾナンスをッ!」

 アメツチが叫んだ。考えている余裕は無さそうだ。言われるがまま、スティンガーベルを掴む。

「エフェクト発動! 共鳴レゾナンス!!」

 耳鳴りのような音が僕とアメツチの間で鳴り響く。ブザーがその音にかき消され、僕達の周りで流れるように蠢いていた毛細血管はその動きをピタリと止め、収縮し、灰となって僕達の上に降り注いだ。

 やがて、灰の雨が上がると、その向こうに異様な光景が広がった。

「ここは……!?」

 アメツチが僕の上に馬乗りになったまま、目を見開いた。彼女の視線を追うように、顎を上げ頭上を仰ぎ見る。

 そこは、先ほどまでいたあの白い家の通路では無かった。

 喩えるなら、巨大な卵の内側――内壁はしかし、あの毛細血管に覆い尽くされている。光源は遥か頭上、卵の頂の部分に穿たれた巨大な円形の穴。その向こうから頼りない光が差し込み、歪みに充たされた不気味な光景を浮かび上がらせていた。

「別の……虚構か……?」

 歪みに飲み込まれたあの瞬間、引き波にさらわれるような感覚があった。恐らくあの直後、ドアの向こうに吸い込まれたのだろう。 

 『Victoria』と書かれていたあのドアは、部屋ではなく、別の虚構へ繋がっていたようだ。

 傍らの床に手をつく。柔らかな感触。驚いたことに、床一面、カーペットが敷かれているようだ。

「どうなってる……?」

 体を起こすと、アメツチがようやく僕の上から降りた。

「この虚構……多分、全体がカオスフィールド化してるぜ」

 カオスフィールドが全体に及んだ虚構に足を踏み入れるのは初めてだ。これまで調律してきたものは、全て虚構の一部に留まっていた。

 僕は、てっきりあの白い家だけを調律するものと思っていた。でも実際には、この場所で発生したカオスフィールドが別の虚構であるあの白い家のある虚構に漏れ出していたというわけだ。

 ブザー音を鳴らし続ける腕のアナライザーに視線を落とす。赤い文字で表示された警告は、懸念していた事実を容赦なく突きつけてきた。

「侵襲15%……。くそっ……!」


 仮想世界でカオスの侵襲を受けると、その度合いによりまず感覚と意識が侵される。先程から感じている熱は、恐らくその影響によるものだ。

 過去の調律師達の記録によると、10%で知覚異常、30%で幻聴や幻視、50%でせん妄状態、70%で発狂、90%で自我を失い、100%に至ると現実世界の脳が不可逆的に破壊され、死亡するとされている。

 現在、15%――でも、この程度で済んでいる事にむしろ感謝すべきかもしれない。アメツチの強力なシールドのお陰で侵襲が最小限に食い止められたんだ。


 スティンガーベルを支えに立ち上がり、周囲を見回す。先ほどまで僕達を覆っていた巨大な毛細血管の塊が、二十メートルほど前方、巨大な空間の中央で、深海調査艇に発見されるのを待ち望んでいた新種の海綿動物のように、真上から降り注ぐ淡い光に照らされながら不気味に蠢いていた。

「ここがあのカオスフィールドの淵源なのか……? もしそうなら、形骸化した人格を探さないと……」

「いや、その必要はねえよ。あたしの勘じゃ多分、あの馬鹿デカい塊の中だ」

 アメツチが毛細血管の塊を睨む。


 カオスフィールドを調律するには、淵源に居る形骸化した人格を浄化――いや、実際の行為に即して表現するなら、『破壊』する必要がある。

 歪みを生み出し、カオスを放出する形骸は、共鳴レゾナンスでは完全に浄化することが出来ない。スティンガーベルの刃を突き刺し、直接振動を与える必要がある。

 アメツチの勘が当たっているとすれば、あの塊に近づいて共鳴レゾナンスで散らさなければならない。


 視界の端、左腕に巻かれたアナライザーの文字盤が僅かに瞬いた気がして、再び視線を落とす。僕は思わず目を見開いた。

 数値が、16%になっている。

「侵襲率が上がった……!?」

「ご主人様、ここのカオス濃度はあたしのシールドの許容範囲を僅かに上回ってる。早く片付けねえと二人とも死ぬぜ」

 アメツチは低い声で告げると、左腕を真横に真っ直ぐ突き出した。

「攻器使用許可申請! 目録番号ARM026――」

〝――申請が受理されました。攻器使用を許可します〟

「――『デルタストリングス』!」

 アメツチの発声と共に、彼女の手の中で光の粒子が攻器を具現化していく。間を置かずして現れたそれは、奇抜と形容するにふさわしい形状の短弓だった。

 そのボディは弓というよりも、まるで両端を鋭利にした巨大なブーメランのようだ。その中心の頂点部分が漢字の『了』の形に抉られており、二画目の縦線部分がグリップになっている。何より異様なのは、通常の弓であればつるが張られているであろう部分には何も存在せず、その代わりに『了』のグリップより前方の部分に、竪琴のようにいくつもの鉄弦が張られている事だ。


 『デルタストリングス』――その奇抜な形状の弓こそが、アメツチの最も得意とする攻器だ。デルタストリングスは遠距離特化型の攻器であり、攻撃時に光の矢とつるが顕現し、グリップの前方に張られた鉄弦が射出の振動で打ち鳴らされ、その振動を纏った矢は歪みに大穴を開けながら貫通する。有効射程は『攻器レベル』によって異なり、アメツチの場合100m先の歪みを射抜くことが可能だ。


「やってやろうぜご主人様。向こうも準備が出来たみてえだ」

 アメツチが前方を睨みつける。その視線の先で巨大な海綿動物のようになっていた毛細血管の塊が、雨上がりに咲く花のように中心からゆっくりと四方に開いた。真上から差し込む光の中、そこに現れたのはあまりにも不気味で、悍ましく、しかし同時に悲哀と憐憫を禁じ得ない姿になり果てた、異形の少女だった。

 アメツチの予想は外れていたんだ。

「あれはまさか……ホストの娘、ヴィクトリア……。いや、彼女はとっくの昔に死んでいる。あれはきっと、ホストが娘に似せて作りだしたタルパだ」

 下半身は無く、胴から下が毛細血管の塊に繋がっている。眼窩からは、まるで冥界に群がる亡者のように毛細血管が飛び出し、不気味に蠢いていた。頭髪と、腕の肘から先もまた、束ねられた毛細血管により鞭のような形状になっており、胴体以外ほとんどその原型を留めていない。

 歪みにより、汚染されたタルパの行き着く姿、『異形』である。


〝パパ……? 違う……パパじゃない……。おじさん達……誰?


 異形――ヴィクトリアが小首を傾げる。生理的嫌悪感と同時に、悲しみが湧いてきた。

「僕達は……君のパパが創った虚構を直しに来たんだ」

 スティンガーベルを握る手のひらに汗が滲む。出来ることなら、悲しい戦いはしたくない。

 ヴィクトリアは俯き、数秒間沈黙し、やがて再び顔を上げた。


〝……嘘つき。パパは虚構なんか作らないもん。嘘つきは泥棒の始まりなんだよ? ヴィクトリア、嘘つく人、嫌い……〟


「――来るぞッ!!」

 アメツチの叫び声と同時に、異形の少女が毛細血管の塊を触手のように動かし、僕達の方へ凄まじい速さで迫ってきた。

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