閑話① 迎えにゆきます
第65話 副官佐原が見た暁という男
皆さん、わたくし佐原の事をあまりご存じないかと思いますので少しここでご説明いたしましょう。
副官という言葉をご存知でしょうか。将補以上の部隊長に従属し組織運営を手助けする人間であります。ですから、暁航空幕僚長の副官付であって秘書とは異なりますので間違いないようお願いいたします。
とは言え、実際は秘書のような仕事ばかりをしておりますので、そう思われても仕方がないのかとも思います。
本来、暁航空幕僚長ともなると私の様な副官を4名までつけることができるのです。その中には必ず女性自衛官が含まれることになっているのですが、なぜか副官は私ひとりなのです。
以下、空幕長と略させて頂きますが、暁空幕長は基本的になんでもご自分でされてしまいます。ご自身のスケジュールはおろか、航空自衛隊の大まかな年間スケジュールまでも頭の中に入っているようです。その詳細を私が再確認しているだけなのです。
おっと、今はそれどころではなかったのでした。
「星羽さん。もう一度言いますからようく聞いてくださいね」
「さはらしゃん、あい!」
「はい。よいお返事です。あなたのおじい様のお名前はアカツキ・タカ
「タカトしゃん、しゅき」
「はぁ......星羽さんにはヒが聴き取りづらいのでしょうかね。タカヒトですよ」
「タカトしゃん。さはらしゃんも、しゅきー」
「っ......(なんとう爆弾を投下してくるのでしょうか)」
まだ2歳ですから、今から厳しく言ってもいけませんね。そのうち言えるようになるでしょう。
それにしても星羽さんは亡くなられた月子様にどことなく似ています。
「すまんな佐原くん」
「いえ、お電話で解決したのでしょうか」
「まあ、今回の訓練の簡単な報告をもらっただけだ。あとは幕僚会議で……おっ、星羽。お絵かきか」
「タカトしゃんのテーホー(T-4)、かいた」
おじい様がおじい様ならお孫さんもお孫さんです。たった2歳の女の子の口から、中等練習機の名前が出てくると誰が思いましょう。
そうはいえ、暁空幕長もかつては現松島基地の斎藤司令と共にブルーインパルスのライダーでしたし、あんなに反発されていたご子息も跡を継いでしまいましたからね。星羽さんがこうなるのも致し方がないのかもしれません。
「星羽は飛行機が好きか」
「しゅき。ひこーきもおそらも、おほししゃまも、おつきしゃまもしゅっき」
「そうか、好きか」
暁空幕長は星羽さんの可愛らしく下がった目じりをそっと指の甲で撫でられた。私はそれを見て、反射的にその場から離れてしまいました。
なぜならば同じように撫でられたお方に過去、お目にかかったことがあったからです。無意識だとは思いますが、そのような仕草が自然に出るのは亡き奥様である月子様にやはり似ているからでしょう。
とくに目元はそのように思われます。
「タカトしゃん、ママは?」
「ん? ママは今、お空でお仕事だよ。もう少ししたら帰って来るよ。ほら高い高ーい」
「うわぁぁ、きゃはっ、たかい~」
本当にお利口さんな星羽さんですが、まだまだ母親が恋しい2歳です。時々こうしてお母様を思い出しては問いかけてきます。それを、暁空幕長はあの手この手で紛らすのです。
孫は目に入れても痛くないようですよ。
「イダダ、星羽。お顔蹴ったらだめだ」
「きゃははっ」
ご子息の時は防空任務や試験に追われ、海外出張は毎月の様におありでした。着実に階級を上げていく代わりに、愛息子を奥様ひとに任せきりになってしまった。それでも休暇の日は家族で過ごされていました。
今となってはあの時の事件さえなければと、悔やんでも悔やみきれません。
「佐原くん。もういいぞ。あと1時間もしたら千斗星たちも帰って来るだろう。さっき模擬戦は終わったと報告を受けた」
「大丈夫ですか」
「大丈夫だよ。イデッ、星羽っ......まったく元気のいい子だな」
「では、あと1時間だけ残りましょう」
「いつも悪いね」
「いえ。一応、勤務に含まれていますから」
もともとは私は安全班という所に所属しており、飛行群や訓練活動などの管理をしておりました。
暁とは会議などで顔を合わせていたのですが、副官になった時になぜか暁は私だけを拾い上げたのです。
中学生になったばかりのご子息と月子様にその時にお会いしました。そのとき暁は航空総体の司令を務めておりましたが、まさか幕僚長になるとは思ってはおりませんでした。
「おしっこー」
「おしっこか。おトイレに行こう。おズボン脱いで、まだだぞ。まだがまんだぞー」
「でるー、でたー!」
「ああああああ」
振り向くと暁空幕長が星羽さんのおズボンを下ろしたところで「でたー」のお元気なお知らせが。
暁空幕長はその場で固まっております。星羽さんはたくさんお出しになられてご機嫌でございます。
「おしっこ、でたー。おえかきしゅる」
星羽さんは脱ぎ掛けのおズボンとパンツをそのばで脱ぎ捨てリビングに戻ってしまいました。可愛いお尻が丸見えでございます。口をあんぐり開けたままの暁空幕長に取りあえずの助言を。
「まずは雑巾ですね。濡れたお洋服は軽く水で洗ってバケツでしょうか。このお時間ですから、星羽さんとお風呂に入ってはいかがでしょう。上がるころには天衣さんもお戻りになるでしょう」
「ああ、そうだな。あと少しだったんだがなぁ」
そう、あと少しだったのです。トイレのドアを開けて、その前でおズボンを脱がしていたまさにその時、星羽さんのロックは解除されてしまいました。
「お手伝いしましょうか」
「いや。大丈夫だ。えっと、雑巾、雑巾。星羽、お風呂に入ろうか。今度はお
「はいるー。おふね、しゅきー」
我らが航空幕僚長は雑巾がけをして、濡れたお孫さんの服を水洗いしています。そのあと手早くバスタブにお湯を張り始めました。こんなこと、ご自分のお子さんにはして差し上げたことはないでしょうに。
孫の力たるや、本当に恐ろしいことです。絶対にこの姿は部下たちには見せてはなりませんね。
「では、私はそろそろ」
「ありがとう。君の冷静な助言にいつも助けられているな」
「いえ。では明日、機材の手配が整いましたらまいります」
「さはらしゃん、ばいばい」
「はい星羽さん。さようなら」
実際、私が口にする助言はお孫さんやご子息のことくらいです。職務にあたっているときは何も言う事はございません。まるで人が違いますから。
私は日が傾き始めた西の空を見上げ、雲一つない茜色の空を見ながら門を出た。
あの日もこんな空だったことを思い出します。
『私が、行きます!』
『いや。もう海上自衛隊に任せてある。我々が出る幕ではない。気持ちは分かるが、待つしかないんだ。君はひとり家で待つお子さんの傍についていなさい』
『くっ』
『佐原三等空尉、司令を自宅まで』
『はっ!』
官舎までの道のりは無言のままでした。あの報告の時点で既に航空機は爆破され海に墜落していたのです。
「あれから15年ですか。早いですね」
「佐原さん! お疲れ様です」
よく通る澄んだ声に視線を向けると、天衣さんが走って来られました。
「天衣さん。片づけは終わりましたか」
「はい。あの、いつも申し訳ございません。お忙しいのに、ほんとに」
「いえいえ。実は私も星羽さんに会うのを楽しみにしているのですよ。それを言うと、空幕長がしょっちゅう何かと理由をつけて飛びたがりますからね。内緒にしていただけると助かります」
「え、あっ。ふふふ。分かりました」
天衣さんもこの頃は体調もよろしいようで安心です。手術すると決断されたときは希望と絶望の間をゆらゆら行ったり来たりでとても危うかった。
なによりも驚いたのは、ご子息が彼女のために父親である暁によろしく頼むと頭を下げたのです。天衣さんはもしかしたら月子さんがこの父子のために探してきてくれた天使かもしれませんね。
修復不可能と思われたお二人の関係を、自分の身をもって繋ぎ止めたのですから。そして、命がけで星羽さんをお産みになられました。
「さて、暁の退官後の行き先を探さなければ。このまま孫一筋もよいのですが、まだ日本の防空のために知識をばらまいていただかないと。どこが良いでしょうかね」
そしてまた、あの季節がやって来ます。月子様の命日といわれる日。
今年もインド洋へ花を手向けに行くでしょうから、その前後は大きな訓練など入れないように圧力をかけねばなりませんね。
あと2年もすれば空幕長も定年退官を迎え、その年は奥様の十七回忌がやって来ます。
そう言えば、珍しくご子息が私にあることを打ち明けてくれました。
『佐原さん』
『おや、坊っちゃん。どうなされました』
『坊っちゃんて……あ、いや。その、母の十七回忌なんですけど』
『ええ』
父である暁にはまだ内密にしてほしいと、ご子息は仰った。自分も今度はインド洋へ一緒に行く、と。
星羽さんもその頃になれば聞き分けも良くなっているだろうし、天衣さんも落ち着いた頃だろうからと。
わたくし、泣いてもいいでしょうか!
まだウイングマークを返納したくない我が儘なおじい様は、何も知らない。
「あと2年、全力でお仕え致します」
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