21話 暖かい涙



 差し出されたあの手を掴めなかった。

 今は少し、後悔している。


 自分の気持ちと向き合う余裕のなかった瑞季を察して、新堂は「返事は急がなくてもいいですよ」と、いつもと変わらぬ笑顔で言った。


     ・・・


 新堂は出勤前に瑞季をアパートへと送り届けると、そのまま仕事へと向かった。


 それを見送り、瑞季は重い足を引きずるように階段を上った。

 質素なアパートのドアの鍵を開ける。

 先程までいた新堂のマンションとは明らかに違う粗末な我が家に溜め息が出た。


「何で、俺なんだろう。何で、俺なんかのこと、好きとか言うんだろう。」


 新堂の想いの矛先が図り知れず、瑞季はベッドにうつ伏せた。



 自分も「瑞季」も、人の愛し方が極端に下手だった。


 ストーカー紛いのことをしてみたり。

 しつこくメッセージを送ってみたり。


 人に話せば、幼少期の愛情の欠如がもたらす弊害だと哀れみの目を向けるかもしれない。しかし、おそらく性分であることを、瑞季は知っていた。


(俺は、愛とかよくわからないから、)


 だが新堂の愛は明らかに自分たちのそれとは違う。

 それはわかる。


 新堂は、施しに満ちた無償の愛をくれる。それを慈悲深いと言うのだろうかと、瑞季はぼんやり考えた。


「嬉しい。嬉しいんだけど、」


 しかしこれから先も、新堂がずっと慈悲深く自分に無償の愛を施すとは、到底考えられなかった。


 新堂が「普通」の男である以上、相互関係が成立しない愛情を、望み続けるはずはない。


 そして、自分は明らかに「普通」ではない。新堂の望む形を叶える未来を想像することさえ困難だった。


 そもそも、瑞季は「瑞季」と違って人と肌を重ねた経験さえないのだ。


「・・・無理だよ、」


 答えの出ない思案を巡らせても堂々巡りだった。瑞季はもう眠ってしまって全てを忘れようと思った。


 そんな矢先に、スマホが鳴った。


「え、」


 画面を見る。

 着信の相手は、片瀬だった。


『退院したんだってね、おめでとう』


 スマホを耳に当て、聞こえてくる声に脳が喜ぶ。全身の血が顔に集まってくるようだった。


 だが心は若干の嫌悪感を覚えて冷めている。チグハグな体は、片瀬の言葉にうまく反応できなかった。


『君からの連絡がなくなって、なんだろうね、少し寂しくてね、』

「・・・」

『俺はまだ、瑞季のことは好きだから、前みたいに時々は会いたいと思ってる。どうかな』


 瑞季はスマホをそっと机に置いて、震える手で通話を遮断した。


 もっと話がしたかったのにと、脳が、激しく苛立ち、心臓が痛いほど脈打つ。

 胸を押さえて瑞季は踞った。


 それでも、あの声を聞き続けるわけにはいかない。無理矢理にでも縁を切らなくてはいけない。


 瑞季は立ち上がり、スマホを握りしめ台所に向かうと、水道の蛇口をひねり、ボウルを置いた。水がどんどん溜まっていく。

 動きにくい震える手で、瑞季はスマホをボウルの中に投げ入れた。


     ・・・


 昼過ぎ、ベッドでうとうとしていると、不意に玄関ブザーが鳴った。


 「片瀬か?」と思い、身体が強ばる。

 思案を巡らしていると、再びブザーが鳴った。

 瑞季はのろのろと起き上がり、のろのろと玄関に向かった。


「・・・はい、」

「あ、俺です、新堂です。」

「・・・え、」


 ドアの向こうの声を聞き、瑞季は迷うことなく玄関を開けた。


 爽やかな風が一気に吹き抜ける。


 そこには、制服姿の新堂が、太陽を背に立っていた。


「どうしたんですか?そんな格好で、」

「今、休憩中なんですよ。あ、これ、持ってきました。」


 差し出されて受け取ったのは、500ml入りの黒い水筒。何か入っているらしくずっしりと重い。


「これは?」

「温めたスポーツドリンクです。胃が受け付けない時は、まずこういうのがいいらしくて、あ、水筒洗ってますからキレイですよ?」


 わざわざ自分のために、新堂は仕事の合間にこれを作ってくれた。

 その事実は、ただ温めただけのスポーツドリンクでも確かに瑞季の心に沁みた。


「ありがとう、ございます。」


 嬉しくて、嬉しくて、視野がぼやけた。


「仕事が明日の朝終わるんで、その時また来ますね。」

「・・・はい。」


 新堂は、遠慮がちにポンポンと瑞季の頭を叩くと、気持ち足早に仕事へと戻っていった。


 グレーの軽自動車の側で、大袈裟なほど手を振っている。

 瑞季はとても幸せそうに笑っていた。

 同時に、暖かい涙が頬を伝っていた。





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