11話 君の過去、君の居場所
退院まであと一週間となった頃、相変わらず窓の外を見ていた瑞季の元へ、初老の男性が訪ねてきた。
「こんにちは、瑞季さん。今回は大変だったね、大丈夫かい?」
初老の男性はとても柔らかく笑って瑞季を労った。
誰なのかと思うよりも早く、脳裏に濃い哀愁が浮かんだ。懐かしい。そして記憶に違わない優しい顔。
鼻の奥がつんと痛んだ。
「・・・工場長、来てくださったんですね」
「来るのが遅くなってすまなかったね。私たちも君がなぜ二ヶ月近く無断欠勤していたのか、ずっと、わからなくてね。」
「・・・いえ、」
涙が止まらず、瑞季は両手で顔を覆う。初老の男性は、瑞季の背中を擦りながら、「一人でよく頑張ったね」と、しわしわの顔をさらにシワだらけにして涙を流した。
田村が工場長を勤める食肉加工の小さな町工場は、下咲瑞季の母親が、未婚で瑞季を身籠っていた頃から勤め続けていた。瑞季も、高校を卒業してすぐ、迷うことなくこの工場に就職した。
「まさか、祥子さんと同じ病気になるなんて。・・・でも、助かって本当によかったよ」
田村はそう言うと、何度も何度もハンカチで顔を拭った。
「・・・ご心配、おかけしました」
瑞季の母親は、四年前、勤務中に心筋梗塞で倒れ、一週間後、一度も意識が戻ることなく、あっけなく亡くなった。
瑞季が24歳になったばかりの春。
母、祥子はまだ54歳だった。
田村と瑞季は二人で小一時間ほど泣いて、顔を見合わせ笑いながらまた少し泣いた。
窓から差し込む光もすっかり弱くなってきている。
「瑞季さん、少し話をしても大丈夫かい?」
顔を二度ほど軽く叩いて深呼吸をして、田村は改めて瑞季に向かい合って言った。
「あ、はい。・・・休憩室がありますから、そちらで、」
そして二人は病室を出て、並んで休憩室へと向かう。その間、一言も話さなかった。
休憩室の小さなテーブルを挟んで座り、田村はどこか言葉を選んでいる風だったが、息を一つ吐いて、真剣な眼差しで瑞季に言った。
「瑞季さん、2ヶ月近く無断欠勤だったこともあって、一部の社員さんから辞めてもらいたいと申し出があった。けどね、事情が事情だ。私は君の有給を消化する形での休暇扱いにして、戻ってきてもらいたいと思っているんだけど、どうかな?」
「おれ、いや、私は、ぜひ、・・・働かせていただきたいです。」
瑞季の中で今、意識を独占しているのは石田だった。石田は自分の要領の悪さを知っている。だからこそ、瑞季の脳や身体が覚えている仕事なら、なんとか自分でもこなせるかもしれない。そうすれば、瑞季に「居場所」を残せるかもしれない。
田村の話を聞きながら、ずっとそう思っていた。
「働いてくれるか。そうか。よかった。・・・ただ、君も最近の工場の様子をよく知っているだろうけど、あの頃より、その、少し君には厳しい状況かもしれない。それでも、大丈夫かい?」
田村の心配が痛いほど伝わる。
同時に、瑞季のここ最近の記憶が、駒送りのように脳裏に浮かんでは消えた。
瑞季は、20名ほどの小さな職場で、女性社員から無視されるというイジメを受けていた。
「君島さんがね、君の入院を教えてくれたんだよ。・・・その、山岸さんたちが噂しているってね。」
田村も、数年前から始まったそのイジメに気がついていた。だが、どうすることもできず手をこまねいていた。
「・・・君島さんが、・・・そうですか」
君島は、下咲瑞季の母親と仲の良かった社員だった。だが今若い社員たちが幅を利かす中で、定年まではと、誰にも与することなく黙々と働いていた。
それなのに、君島は田村に瑞季の入院を進言してくれたのだ。
「・・・」
瑞季の中の「瑞季」の怒りが伝わってくる。
「私はね、瑞季さん、君が辛い状況の中でも、大きな声で『おはようございます』と、帰る時は『お疲れ様です』と言い続けてくれたことが、本当に嬉しかったんだよ。・・・元気に見えたけど、元気なはずがないよな。君の心労を思うと、私は、」
そして田村は再びハンカチで顔を覆った。
瑞季は、「瑞季」の居場所を守るために、頑張らないといけないと、膝の上で強く、爪が刺さるほど拳を握りしめた。
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