十六 二人の時間

 国道から時折微かに聞こえて来る、行き交う車両がたてる音だけが、路地の中に響く。門大の目からは、いつの間にか止まっていた涙が再び溢れ出し、その場にしゃがんだまま、門大の意思とは関係なく、クラリスタの意思で、門大は静かに泣いていた。




「クラちゃん?」




 泣いているクラリスタが心配になり、門大は声をかける。




「嬉しいから泣いているだけですわ」




 クラリスタの言葉を聞いて、ほっとした門大は、体を動かし、その場に座った。




「そんなふうに言われたら、俺も泣きたくなって来た」




 門大は、両親の事故以来、こんなに人と親しくなるのは初めてだ。としみじみと思う。




「ありがとうな、クラちゃん」




「門大。ずっと一緒ですわ。何があっても、門大が、嫌がったとしても、わたくしは門大の傍から絶対に離れませんわ」




「ありがとう。俺もそのつもりだ」




 クラリスタが涙を拭いてから、手で足の痛む場所に触れる。




「まだ足が結構痛みますわね」




「これくらいなら大丈夫」




「けれど、このままというわけにもいきませんわ。早く治療をした方がいいですわ」




 門大は、家まで歩くのは少し辛いかも知れない。かといって、クラちゃんの言う通りだよな。このままここに座ってるっていうのもな。どうするか? と思う。




「そうだ。自転車に乗ってみよっか。その方が歩くよりも早いし、足も楽かも知れないし」




「大丈夫ですの? 余計に痛くなったりしませんの?」




「とりあえず、試してみよう」




 門大は、ゆっくりと立ち上がると、自転車の傍に行き、自転車を起こす。




「よいしょっと」




 痛む方の足を庇いながら、門大は自転車に跨がった。ペダルに痛む方の足をそっとのせ、痛みのない方の足で勢いよく地面を蹴って自転車を進ませてから、痛みのない方の足をペダルにのせ、ペダルを漕ぎ出そうとした。だが、前輪のホイールが発するおかしな音が大きくなった事で、前輪のホイールが歪んでいた事を思い出した門大は、慌てて自転車を止めた。




「どうしたのですの?」 




「前輪の音が気になって。ちょっと様子を見てみようと思って」




 門大は、自転車に跨がったままペダルを漕がずに、痛みのない方の足を使って、ゆっくりと自転車を走らせ始める。




「大丈夫みたいだな。歪んでるみたいだけど、走るには問題なさそうだ」




「門大。くれぐれも気を付けて下さいまし」




「うん。ありがとう」




 門大は言って、一度自転車を止めてから、先にやったのと同じ要領で、自転車を走らせ始めた。




「行ける行ける。痛い方の足に力を入れなければ大丈夫だ。これで家まで行こう」




 門大は、痛む方の足をペダルの上にそっと置くだけにして、痛みがない方の足の力だけでペダルを漕ぎ、自転車を走らせて行く。




「門大。痛みはさほど感じないようですけれど、足は本当に大丈夫ですの?」




「心配してくれてありがとう。大丈夫。歩くよりもこっちの方が楽だし」




「無理はしないで下さいまし。こういう怪我は動かさないのが一番ですわ」




 そこまで言って一度言葉を切ったクラリスタが、それにしても、門大は、器用ですわね。片方の足の力だけで、こんなふうにできるなんて。と言葉を付け足すようにして言う。




「やってみれば分かるけど、全然難しくない。そういえば、向こうにはこんな乗り物なかったよな。クラちゃん。自転車の乗り心地はどう?」




「気持ちいいですわ。実は、門大とこうしてお話ができるようになる前から、門大が乗っている時に、面白い乗り物だと思っていましたのよ。向こうで走る乗り物といえば馬車ですけれど、この、自転車という物は、自分で走っていると思えるところがたまりませんわ。この風を受ける感覚がいいですわ。こんな乗り物があるなんてとても素敵ですわ」




 クラリスタの言葉を聞いた門大は自転車を止めた。




「どうして止まったのですの?」




「クラちゃんが乗ってみる? 乗り方教えてやる」




「え? でも」




「遠慮なんてしなくていい。折角だからさ」




「足が心配ですわ。また今度でいいですわ」




「いいからいいから。じゃあ、えっと、まずは、そうだな。一応、これは言っておこう。転ぶと、下はアスファルトだし、怪我とかするから、くれぐれも気を付けて。それと、自転車とはいえ、乗り物だから、慣れるまでは俺の言う事をちゃんと聞いて乗らないと駄目だ。他の人とか轢いちゃったら今時は洒落にならないから」




「もう。断っていますのに、門大は強引ですわね。分かりましたわ。けれども足が痛むようだったらすぐにやめますわ。それで、えっと、門大の言う事をちゃんと聞けばいいのですのね。あとは、転ぶと危ないから気を付けて、それで、下が、アスファルト? ですの?」




 クラリスタが門大の体を動かし、小首を傾げる。




「そう。この、地面の事っていえばいいのかな。そういう物でできてるんだ。凄い硬いから転んだりしたら大変だから」




「これは、石とかではないのですのね。門大。これはなんですの?」




 石ではないよな。そういえば、アスファルトってなんなんだ? 考えた事もなかった。門大は、そんなふうに思い、言葉に詰まる。




「門大?」




「ごめん。アスファルトが何か、知らない」




 クラちゃんが、聞いてる事に答えられないというのは、これは、なんだか、寂しいぞ。帰ったらネットで調べてみよう。門大はそう思いながら言った。




「門大。誰にだって知らない事はありますわ」




「アスファルトの事は後で調べてみる。ちゃんと教えるから」




「分かりましたわ。教えてもらえるのを楽しみに待っていますわ」




 クラリスタが嬉しそうに言う。




「ええっと、それで、なんの話を、そうだそうだ。自転車の乗り方。もう一回、俺が乗ってみせるから、その後で交代。絶対に無理や無茶だけはしちゃ駄目だ」




「了解ですわ」




 門大は、じゃあ、行くよ。と言ってから自転車を走らせ始める。




「曲がる時は体重をかけるというか、体を傾けるっていうか、こんな感じで。後は、走る事に関しては、特に操作とかは必要ないんだけど、止まる時にはブレーキを使うんだ。このブレーキレバーを握るとブレーキがかかる。力加減でブレーキの利き方が変わるから気を付けて。こんなふうに、握っていくんだ。どう? 分かるかな?」




「優しく握っていけばいいのですのね」




「そうそう。いきなり強く握ると、ブレーキが一瞬で強くかかるけど、転ぶ事があるからできるだけそういうふうにはしないようにするんだ。そういうブレーキの仕方を急ブレーキっていうんだけど、そんなふうにならないよう運転するのが大切かな」




「分かりましたわ」




 ブレーキの使い方を教えつつ、自転車を止めると、クラリスタと交代する前に、一応確認をしておこうと思い、門大は周囲を見る。




「うちのアパートが見える。あっという間に帰って来ちゃったんだな」




 クラちゃんといるのが楽しくて、痛みも全然感じなかったな。と門大は思う。




「アパートとは、あの門大が目が覚めた時にいた場所の事ですの?」




 門大は、クラリスタの言葉を聞き、うん。あそこに住んでる。一部屋だけだけどあれが家なんだ。と言ってから、あれ? と思った。




「電気つけっ放しだったか」




 アパートの自室の窓のカーテンの隙間から漏れている光を見て、門大は言った。




「どうしたのですの?」




「なんでもない。大した事じゃないから、放っておこう。それより、自転車」




「門大。このまま家に帰った方がいいと思いますわ。足の治療をした方がいいですわ」




「足は大丈夫。折角だしさ。さあ、次行ってみよう」




 門大は、もう亡くなってしまっている、あの有名なコメディアンであり、俳優でもある人物の真似をしつつ言った。




「なんですの? その、次行ってみようのところの言い方は」




 クラリスタが笑う。




「この世界で有名な人の真似。面白かった?」




「はい。面白かったですわ。次行ってみようですわ」




 クラリスタが「次行ってみよう」のところを門大の言い方を真似て言う。




「おお。そう来たか。クラちゃん。いい。かわいい。じゃあ、乗ってみよう」




 門大は「乗ってみよう」のところを「行ってみよう」と同じ言い方で言う。




「またですの」




 クラリスタが笑いながら言い、自転車を門大と同じように、片方の足の力でペダルを漕ぐ方法で走らせ始める。痛みのない方の足で地面を勢いよく蹴って、走り出してから、その勢いがなくなって、一度速度が落ちたところで、車体が安定しなくなり、しばらくの間はふらふらとしていたが、ペダルを漕ぐ事で、速度が乗って来て、車体が安定して来ると、その後はまったく問題なく、スムーズに自転車は走り出していた。




「凄いな。俺なんて、最初はかなり転んだのに」




「先生がいいからですわ」




 クラリスタが言い、クラリスタの意思で、門大の顔が笑顔になる。




「そんなふうに言われると嬉しいけど、凄く恥ずかしい」




 これは、なんて、幸せな気分なんだろう。と門大は思いつつ言った。




「わたくしも、そんなふうに言われると嬉しいですわ」




 二人の意思で門大の顔が綻ぶ。




 そのまま、しばらくの間、幸せな気分の余韻に浸っているかのように、門大もクラリスタも何も言わずに黙っていた。




「こっちはさっきとは反対の方向ですわね。こっちに行くと何がありますの?」




 門大の住むアパートの敷地の前を通り過ぎ、少し行った辺りでクラリスタが言い、沈黙が優しく破られる。




「こっちには駅と、商店街がある。この時間だと、どうかな。人がまだ結構いると思うから、行かない方がいいかな。もっと、慣れるまでは、この辺の人のいない場所で練習した方がいい」




「駅と、商店街ですの? 駅は、馬車の駅ですの? 商店街は分かりますわ。お店がいっぱいある所ですわね。行けないのは、ちょっとだけ残念ですわ。けれど、そうですわね。自転車は結構速度が出ますものね。これは危険だと思いますわ」




 クラリスタが言って、自転車を止めると、自転車の向きを変え、元来た道を戻り始める。




「駅も商店街も今度連れてくよ。きっと、見たら凄い驚くと思う」




「そんなに驚くような物がありますの?」




「うん。向こうの世界とは全然違う。なんて言えばいいのかな。まあ、見てのお楽しみというところかな」




「気になりますわ。そんな言い方ずるいですわ」




 クラリスタがわざとらしく大げさに不満そうに言う。




「じゃあ、少しだけ、行ってみる?」




「それは、また今度でいいですわ。そんなに驚くような所でしたら、思いっ切りはしゃいでしまうかも知れませんもの。門大の足が心配ですわ」




「確かに、クラちゃんは時々、とんでもない事をいきなりするからな」




「そんな事ありまして?」




 門大はあえて何も言わずに黙っていてみる。




「門大? どうして黙っていますの?」




「クラちゃんがどんな反応するかなって思って」




「もう。酷いですわ。門大は意地悪ですわ」




 クラリスタが言って、自転車を止めると、顔を俯ける。




「クラちゃん?」




「門大のバカ。そんなふうにからかって」




 クラリスタが、まるで、泣いているかのように声を震わせて言う。




「なんで? ちょっと、ごめん。冗談だから。そんなに、何も泣かなくっても」




 門大は狼狽えながら言う。




「冗談ですわ。門大。騙されましたわね」




 クラリスタが笑いながら楽しそうに言った。




「くうぅー。やるな。すっかり騙された」




 門大も言って笑う。




「門大。ちょうど、アパートの前まで来ていますわ。そろそろ帰った方がいいと思いますわ」




「本当だ。でも、ちょっと待って。これを教えておこう。いちいち止まらなくても、運転に慣れてくれば、速度を落としてそのまま、ユーターン、えっと、ユーターンっていうのは、方向転換の事でいいのかな。ができるようになる」




 門大は自転車を走らせると、ユーターンをしてみせ、そのまま止まらずに、自転車を走らせ続ける。




「門大。えっと、あの、そろそろ」




 クラリスタが遠慮しがちにそれだけを言う。




「ん? どうした?」




「ですから、その、ええっと、このまま、乗っていてもいいのなら、えっと、交代、して欲しいですわ」




 クラリスタが、恥ずかしそうに、小さな声で、先ほどよりももっと遠慮した様子で言った。




「ごめん。なんだか自転車に乗るのが楽しくなって来ちゃって、つい」




 自転車に乗るなんて、いつもならなんでもない事なのに。そんな事すら楽しくなるんだな。なんか、こんな感覚、ずっと忘れてた気がする。そんな事を、門大は思う。




「じゃあ、交代。俺はもうこのまま何もしないから、ここからクラちゃんね。好きに乗っていいから」




「いきなりですの。ちょっと、いえ、分かりましたわ」




 一瞬だけ取り乱したクラリスタだったが、すぐに落ち着きを取り戻すと、自転車の速度を落とし、少しふらつきつつもユーターンを成功させ、道を戻り始める。




「門大。アパートに着きましたわ。自転車の乗り方を教えてくださってありがとうございました。とても楽しかったですわ」




 アパートの敷地の前で自転車を止めると、クラリスタが言う。




「もういいの? もっと、乗ってていいのに」




 ひょっとして、クラちゃん、さっきの、交代したいって言ったのは、足の事を心配して気を使ってくれたのか? まったく。俺の方が年上なのに。これ以上、気を使わせても悪いから、今日はもう家に帰るか。そう思いつつ門大は、アパートの部屋の方に目を向ける。




「あれ? 電気が消えてる」




「どうかしましたの?」




「いや。別に大した事じゃ、あれ? また電気がついた。誰か、中にいるのか?」




 門大は言ってから、まさか、泥棒か? と思い不安になった。

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