優香

白井香

第1話

優花はお世辞にもかわいいと言える顔立ちではなかった。

小学校2年生の時、優花自身もなんとなくそれに気が付いた。同じクラスのかわいいと言われる女子が男子にちょっかいをかけられて、しょっちゅう怒っていた。優花も常に一緒にいたのだが、自分にちょっかいを出してくる男子は1人もいなかった。子供心にも、構って貰える友達とは何かが違うのだと感じるようになった。クラスの男子とは仲良く遊んでいたが、結局優花の事を好きだという男子は6年間1人も現れなかった。親戚のおばさん達と年に数回会う時だけ、優花はかわいいと褒められた。だが、やがてそれが容姿ではなく、身内の子供に対する愛情のようなものらしいという事もなんとなく理解する事ができるようになった。

 優花という名前は他の人からもたまに褒められる事があったが、なぜだかきれい過ぎる名前が嫌で、明子とか恵子とか普通の名前にしてくれと母親に真剣に訴えたこともあった。だがそれが聞き入れられるはずもなく、結局自分の名前が容姿の不格好さをより目立たせているような、なんとも居心地の悪い思いから逃げる事はできなかった。

 中学生になって、男子が多いクラスに入ったが、優花に好意を寄せてくれる男子は一人もいなかった。優花が好きになった男子もいたが、その相手は隣りのクラスのかわいい女子に夢中だった。女友達は優花の事をかわいいと言ってくれたが、それははっきり言って容姿についてではなかったし、多感な10代のこの頃には、自分の容姿が男子には受け入れられない事を、優花自身がはっきりと悟っていた。

 だが、優花はけなげにも他の事で認められればいいのだと考えついた。勉強や運動に励み、友達を大切にすれば、自分も大切にされるのだと気付き、その一糸に懸命にすがった。そのおかげで数年後、いい子だ、しっかりした子だ、頼りになる友人だと、男女問わず誰もが口を揃えて優花を褒めるようになっていた。優花にとっては、そう言われる事が何よりも嬉しく、自分の存在を認めてくれる唯一の褒め言葉になっていった。


 高校・大学と卒業し地元の銀行に就職した。真面目な仕事ぶりで高い評価を貰い、大口預金を扱う部署へと配属された。もちろんそこでも同僚や上司からすぐに信頼を得て、何かあれば優花に頼めば間違いないと言われるまでになった。一緒に入社した美しい同期達は、仕事はそれほどできず、この銀行でどの男性が一番出世するか、いつ結婚して辞めるかといった事にしか関心がなく、仕事で頼られる事など皆無だった。それを横目で見ながら、頼りにされ褒められる事で、優花の中に小さな自身が生まれてくるのを感じていた。容姿へのコンプレックスが少しずつ小さくなるように思えた。


 ある日、優花は同僚に誘われて、銀座で流行っているバルへと飲みに出掛けた。スペインの居酒屋という意味らしく、数十種類のおつまみを少しずつ食べられ、ワインやカバも安いのにかなり美味しかった。店は老若男女問わず客で一杯だった。普段それほどお酒は飲めないし強くもないのであまり酔う事もないのだが、サングリアという赤ワインにフルーツを入れた甘いお酒を勧められ飲んでみると、おいしさのあまりついつい飲み過ぎて、いつしかほろ酔い気分になっていた。

 盛り上がる雰囲気に気も弛み、気付くと隣り席の男性3人と意気投合し、友人と共にその3人と携帯番号やアドレスを交換していた。その中に、小さな流通会社で営業として働いているという男性がいた。学生時代はサッカー部で、今でも社会人サッカーをしているというその男性は、優花より3つ年上で、誠実そうで、短く切った髪が清潔感を漂わせていた。そして、何よりとてもきれいな目をしていた。優花は密かにときめいた。だが好意を持っても所詮自分など相手にされないと自分からは連絡することは決してできなかった。


 ところがしばらくすると、その男性から優花の携帯に電話やメールが入るようになった。最初は戸惑った優花だったが、1度だけと自分に言い聞かせながら恐る恐る会ってみた。そして、生まれて初めて自分に向けられた笑顔にあっという間に本気になった。4度目に会った夜、急に抱きしめられた時には心臓が止まりそうだったが、このまま死んでもいいと思うほど嬉しかった。そのままキスをした。うっとりするような、もちろん優花にとっては初めてのキスだった。


 その日を境に優花の中で何かが爆発した。初めてできた恋人の存在が封印してきた「女」を目覚めさせた。突然高いヒールをはき、パーマをかけた。1週間後には付け睫毛をした。ジェルネイルをし、明らかに短いスカートを履くようになった。あまりの優花の変わりように周りは驚き再三注意をした。だが優花の頭の中は、どうやったら色気のあるいい女になれるのかというそれだけで一杯になっていた。男性と会う時、頻繁に足を組みかえたり上目使いをしたりと、雑誌に書かれたいい女の仕草を真似たりもした。優花を突き動かしているのは、いい女になり、男性にもっともっと好きになって貰いたいというその一心だけだった。


 だが、その精一杯の努力と反比例するように、男性からの連絡はだんだん少なくなり、電話がつながってもそっけなく切られるようになった。捨てられるかも知れないという初めての恐怖が優花を怯えさせた。そう思うと余計になんとかつなぎとめようとがむしゃらになった。高額なプレゼントを送ったり、突然男性の家に押し掛けたりした。一緒にいる時に、男性の電話が鳴るたびに、誰からと必死に詰め寄ったりもした。


 コートの襟から寒さが染み込んでくるような肌寒い夜、「もう無理だ。」という言葉と共に男性は背を向けて優花から去って行った。男性の背中が振り返る事は一度もなかった。男性が去ってからも、優花はしばらくその場を動けなかった。そして、どこをどう歩いたのかもわからないまま、よろけるように家に帰りついた。靴を脱ぎ捨てると真っ暗な部屋の中に倒れ込んだ。落ちたバックから口紅やブラシが転がった。

「あぁ、私は捨てられたんだ」

不意に涙が頬をつたった。視線の先に右手の薬指にした指輪があった。小さなルビーが三つついた細い指輪で、男性が優花の誕生日に買ってくれたものだった。男性は何も言ってくれなかったが、優花は密かに婚約指輪なのではと心を躍らせていた。指輪を見ながら、またぽろぽろ涙が止まらなくなった。喉の奥から絞りでるような声が何度も漏れた。男性に言われた「無理だ」の意味が分からなかった。自分の何がいけなかったのか、こんなにきれいになろうと頑張っていたのに、捨てられた理由すら教えて貰えないのか。体を丸めながら、優花はしばらく号泣した。

涙と嗚咽が少し止まりかけた頃、ゆっくりと体を起こす事ができた。外からのかすかな光に照らされて、壁際の鏡台に顔が映し出された。ひどい顔だった。遠くから見てもはっきりと分かるほど、泣きじゃくった目は腫れ、ふんだんに塗ったマスカラが余計に目の周りを黒く汚し、きれいに巻いた髪もぐちゃぐちゃに乱れていた。

「私がきれいじゃないから…?」

そう言葉にした途端、また心の奥がぐぅっとつかまれたように痛くなった。その痛みに耐えながら、また鏡を見た。出尽くしたはずの涙がまた一粒すぅっと落ちた。ああ、そうだった。優花は思い出した。そうだ、自分はいつだってそういう役回りだった。ちやほやされるかわいい女友達や美人の同僚が、本当はいつだってうらやましかった。自分だって男性から好きだと言って欲しかった。かわいいと褒めて欲しかった。しっかりしている、頼りになるなんて褒め言葉より、本当はただ「かわいい」と一言言って欲しかったのだ。今までそんな願望を押し殺して、人間は中身を評価してもらえればいいのだといつも自分に言いきかせていた。でも、そんな自分を初めて女性として扱ってくれた男性に出会って、心の底から女性として美しくなりたいと思った。だが、所詮自分が頑張ったところで、きれいには程遠かった。そうなのだ。女性はきれいでないと、本当に受け入れて貰う事はできないのだ。今までの自分の努力など、なんの意味もなかったのだ。

「わたしはやっぱりダメなんだ…。」

幼い頃から自分を強く支えてきた信念のようなものが、体の中で一気にガラガラと音を立てて崩れていくのが分かった。鏡を見つめていた体が床に崩れ落ちた。

優花の姿が消えたのはそれから2日後だった。


 5年後、千葉のある林の中を、女性が飼い犬と散歩していた。日課の早朝散歩だった。散歩コースのとある角を曲がった所で、突然犬が大きく吠えたかと思うとリードをぐいぐい引っ張ってコースから外れた茂みに飛び込んだ。飼い主の女性はいぶかしく思いながら、犬の名前を呼び、リードを強く引っ張った。茂みの間から犬が何かを咥えて飼い主の元に走ってきた。飼い主の女性は悲鳴を上げて、そのまま地面にへたり込んだ。犬が咥えていたのは、血まみれの手首だった。細い指と赤いネイル、指輪から女性のものだと分かった。飼い主の通報で警察が駆けつけ、辺りは大騒動になった。その後、近隣でバラバラの遺体の一部が次々と発見された。しばらくすると、ある風俗店の店長が態度の悪い従業員を怒りに任せて殺し、遺体をバラバラにして各地へ捨てたとニュースで報道されだした。被害者の写真も引っ張りだされた。美しい女性だったが、どこか遠く暗い目をしていた。


 DNA鑑定や歯型などから、その遺体が5年前に東京で失踪届が出ている女性と同一人物である事が判明した。ワイドショーの追跡取材で、千葉の風俗店に流れついたその女性は何度も整形を繰り返しており、多額の借金を抱えていた事も分かった。日頃から口のきき方も乱暴で、お客からの評判もかなり悪いらしかった。源氏名はみゆきだったが本名は優花だと報道されると、インターネット上では出身校や勤めていた銀行の名前まで出回った。TVや週刊誌のインタビューを受けた同級生や銀行の元同僚らは、あの優花だとは信じられないと口を揃えてコメントした。そうしてしばらくは大騒ぎだったが、政治家の汚職事件報道が始まると世間の関心は次第にそちらに移り、この事件もだんだんと人々の記憶から忘れ去られていった。


 遺体を引き取り埋葬した母親のもとに来客があったのは、世間がやっと静かになったある日曜日だった。黒いスーツを着た男性が1人、焼香させてくれとやってきた。母親が娘との関係を尋ねると男性は昔の知り合いだと答えた。仏壇には、優花の昔の写真がたくさんの花と一緒に飾られていた。男性はその写真をしばらく見つめていたが、線香をあげると長い間手を合わせた。そして母親に向き直ると、遺体がはめていた指輪を見せて貰えないかと頭を下げた。母親は仏壇の引き出しから、小さなルビーが3つ付いた指輪を取り出して男性の前に置いた。男性は震える手で指輪を取るとしばらく黙って見ていたが、やがてその目から涙がこぼれ落ちた。

「どうか…許して下さい。」

驚く母親の前で、指輪をぎゅっと握りしめたまま男性は両手をついて、頭を畳にこすりつけた。

「どうか私を許して下さい…。私が優花さんを追い詰めたんだと思います。」

母親はますます驚いて、どういう事かと尋ねた。男性は頭を下げたまま言葉を続けた。

「この指輪は私が優花さんの誕生日にあげたものです。5年前私達はお付き合いをしていました。初めて優花さんと話した時、すぐに心の美しい方だと分かりました。こんな人は他にいないと感動しました。でも付き合っていくうちに優花さんは、どんどん変わって外見の美しさばかりを追い求めるようになってしまった。」

その一言を聞いた母親の目にも涙があふれた。ハンカチを目にあてながら母親は言った。

「あの子は…、あの子は、昔から外見にひどいコンプレックスがあったんです。だから整形なんて…。あんな誰だか分からん顔になってしまって。私も何でもっときれいに産んでやれんかったんか…。優花に本当に申し訳なくて。もっとましに産んでやってればこんな事にはならんかったのに。」

男性は母親の絞り出すような声を聞いて、またあふれた涙を手の甲でぬぐった。

「本当に申し訳ありません…。優花さんが容姿にコンプレックスを持っている事は、なんとなく分かっていました。でも、あの頃の私にはそれが理解できなかった。外見なんて私には関係なかったんです。ただ、ただ一緒にいるだけで安らげた。私にはそれだけで十分でした。私はどんどん変わっていく優花さんを受け止める事が出来なかった。突き放してしまったんです…。すぐに後悔して謝ろうとしましたが、優花さんは銀行も辞めていて、どこに行ってしまったのか分かりませんでした。あの時、心配ない、心の美しさに惹かれたのだときちんと言っていれば…。優花さんもこんな風にはならなかったかも知れないっ…。」

畳に頭をこすりつけて男性は泣き続けた。その喉から、絞り出すような声が漏れた。

「そのままの優花で良かったんだ。そのままの優花を愛していたのに―。」


男性が帰った後、静かな部屋で母親は仏壇に手を合わせて話しかけていた。

「優花、あの人はあんたの心を美しいって言ってくれた。そのままのあんたを愛してくれとった。あんたが大事にしとったもんが、あの人にはちゃんと伝わっとった。もう大丈夫。もう大丈夫やね。もう安心して昔の優花に戻っていいけんね。」

男性があげていった御線香の煙を見つめ、母親は涙をぬぐって手を合わせた。その言葉に答えるように、お線香の煙がふわりと優しく揺れた。            

                                   完

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優香 白井香 @koshiroi

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