君の蜃気楼

 僕は目の前の君を見つめた。


「どうしたんだい?」


 不思議だったのは、君がいつもと変わらない姿だったことだ。


 君はにっこりと笑うだけ。


 古ぼけた田舎の一軒家。


 僕が祖母から譲り受けた一人ぼっちには広すぎる家。


 僕は帰って来た。


 君も一人で寂しかっただろう?


 沢の水の音がする。


 二週間の海外出張はいささか僕には刺激が強すぎたよ。


 ローマは初めてだったからね。

 あの有名すぎる映画を観ては君と行ってみたいと、言ってたろ?


 出来れば仕事ではなくて君と行きたかったよ。


「ここは良いね。君もいるから」


 君は裾にレースをあしらった白いワンピースを着て、手には麦わら帽子。


 僕と君は縁側に座った。


 僕は夕暮れの幾つも色のついた布を広げたような空と、君を交互に見ていた。


 一番星とまだ満月になりきれない、欠けた丸の少し黄色い月が出ている。


 僕はスイカを食べながら君をスイカ越しに見た。


 君はしっとりとした肌の指をすうっと伸ばして、庭の奥を指さした。


「どうしたの?」


 少しずつ夜の闇の膜は暗く広がる。

 庭は小さな森に繋がっている。


 一応、そこも僕が祖母からもらった森だけれど、なんだか森は薄気味悪くて、僕は小さい時から近寄らなかったし、手入れもおこたっていた。


 君は立ち上がるとズンズンと森に向かって入っていってしまった。


「待って! 待って!」


 僕が大声で呼び止めようとしても、君は構わず進んで行ってしまう。


 僕は慌ててサンダルをつっかけて、ちょっとすくんだ足を動かして君を追いかけた。


 丈の長くなった雑草をかきわけ、かきわけて、僕は君の影を追った。


 5分ほど森を歩いただろうか。



 ぼんやりとした光がポツポツと浮かんでいた。


 小さな池があって、月の光が一筋だけ森の樹々のあいだから、池に射していた。


 浮かぶ光の玉は……。


「ほたるか」


 僕の隣にはいつの間にか君が立っていた。


『ほたる、綺麗ね。あなたに見せたかったのに。あなたったら怖がりなんだから』


 僕と君の前には、ほたるがチカァ…チカァ…と美しくゆっくりと点滅しながら、幻想的に光り輝いている。


「君は僕の妻で良かったのか? ずいぶん寂しい思いをさせて来たね。仕事とはいえ、僕は家をあけがちでさ。身にしみたよ。ここは一人には静かすぎて寂しすぎる」


『とても幸せだったわよ。そろそろ、あなた』


 僕は切なそうな君の顔を見て、焦った。


「駄目だ、駄目だよ」


『あなたの妻になれて良かった。さようなら』


 君の姿はふわりと飛び上がって、黄色い月光をまとう。


「待ってくれー! 行かないでー!」


 君の蜃気楼は夜空に消えた。


 幽霊だったのかもしれない。


 ずっと前に亡くした妻は一度きりだけ、僕に会いに来てくれたんだ。


 とうてい信じられない話だろ?


 良いんだ。

 信じてくれなくたって。


 友達だから、話しただけさ。


 ただ聞いてもらいたかっただけかもな。


 妻が恋しいかって?


 そりゃあ恋しいさ。



 僕は縁側でふるい友人と酒を呑み交わし、スイカや枝豆や焼き魚を食べながら、昔懐かしい話をいくつもした。



 僕は月を仰ぎ見た。


 少し欠けてる月だな。


 あの時のように。


 僕には、欠けた月とほたるの光と君の透き通った姿が、今でもまぶたに焼きついている。





          了







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