第9話 落下

 

「……はあ」


 キーボードを叩く音、誰かから香る煙草の匂い、営業をかける電話の声。

 どこにでもある灰色の事務用片袖机に頬杖をつき、ため息を溢しながらPCで作成中の注文請書をぼんやりと見つめる。


 結局、昨夜はほとんど眠れなかった。


 ……セイさんが言っていた、『嫌がらせ』ってどんなことをされるんだろう。


 眠る前にうっかりネットでそれを調べてしまったのが全ての間違いだった。


 つきまといから始まって盗撮や盗聴、無記名での手紙や荷物の送りつけ、ありもしないでっち上げの中傷、果ては殺害……


 そんなストーカー被害の実例を目にして、不安で頭がいっぱいになって。


 セイさんと一緒に歩いていた時に見た、あの女のじっとりとした視線を思い出した私はぶるっと震えて、その記憶を追い出そうと頭を振った。


 ……いけない。今は仕事に集中しなくちゃ。


 私は作成していた注文請書に会社印をつくため、作成中のそれを印刷するボタンをクリックし机から立ち上がった。


 FAXも付いている複合機のそばへ行くと、そこには田口さんが立っていた。

 田口さんは私が印刷した請書をぺらっとめくってそこに視線を落とす。

 その内容に目を通した彼は眉を寄せたまま私にそれを渡してきた。


「瀬谷……これ、俺の請書だよな?」

「あ、はい」

「……注文数ヤバイぞ、ちゃんと確認したか?0が1つ多い」

「えっ、ほんとですか?!」

「ここの担当者の人、すごく神経質だからこんなの送ったら速攻でクレームの電話入るぞ?まあ、俺が対応するからいいんだけどさ」

「……す、すみません、すぐ直します!」


 慌ててその数を見直すと、確かに田口さんの言う通り数が間違っていた。

 思わず唇を噛み締める。

 こうした書類関係にもきちんと目を通す彼がたまたま見つけていなければ、きっと私はそのまま間違った注文請書をお客様に送っていただろう。


 ……こんな凡ミスしちゃうなんて。


 朝から底を這っていた気分がさらに落ち込んで俯いた。


「……瀬谷?……悪い、もしかして言い方キツかったか?」


 そう声をかけられて、顔をあげる。

 田口さんは少し膝を折って私と目を合わせ、お日様みたいな笑顔でそのまま笑いかけてきた。


「瀬谷はさ、可愛いんだからもっと顔を上げといたほうがいいぞ?課長とか、オッサンたちも『今日は瀬谷ちゃん元気ないなあ』って心配してたし」

「……そんなこと言っても何も出ませんし、私は可愛くないです」


 つい口を尖らせて可愛くないことを言うと、田口さんは困ったように眉を寄せ首の後ろを掻いた。


「……困ると思って今まで言わなかったけどさ……俺は瀬谷が可愛いって言うの、本気だから」

「えっ?」

「……なんていうかさ……俺は瀬谷のこと、すごくいいなって思ってて……その、こんなとこで言うのもあれなんだけどさ……俺は、瀬谷のこと好きだから」


 私は田口さんを見上げたまま言葉を失った。


 田口さんが……私を?


 呆然とした私の顔を見て、田口さんは焦ったように視線をうろうろさせながら言葉を重ねる。


「いや……だからその、もしよかったら今度2人で飯でも行かないか?」

「2人で……?」


 唇はそう繰り返したが頭の中に浮かんだのは、格子窓のこちら側で一緒に月を見ながら口元の黒子ほくろを僅かに持ち上げた、セイさんの姿だった。


「……ご、ごめんなさい……少し、考えさせてください」


 思わず俯いてそう言うと、田口さんはわざとらしく「あははっ」と笑い声を上げた。


「そ、そうだよな、瀬谷だっていろいろあるよな!……その、返事はいつでもいいから!」


 田口さんはそう言いながら複合機から出てきたFAXを鷲掴み「じゃあ!」と声をかけて自分のデスクへと歩きだした。

 遠ざかっていく田口さんは耳まで赤くしていて、それを見た私は胸の前で掌を握りしめる。


 ……きっと数日前の私が、営業トップで人格者でもある田口さんからああ言われていたら飛び上がりそうなほど喜んですぐに彼と食事に行っていただろう。

 お日様みたいな笑顔の、誰にでも優しい田口さんから好きだと言われて嬉しくないはずがない。


 注文数の違う請書を二つに折り畳んで、私はそれをシュレッダーの口へ差し込む。


 ……でも、今は彼の気持ちに応えることはできない。


 何にも縛られていない、左の薬指に視線を落としてため息をついた。


 私は……セイさんと戸籍上結婚している。

 役所に行って確かめたわけではないけれど、きっと彼はタチの悪いジョークを言うような人ではない。


 そっと瞼を閉じた。

 もし、セイさんが田口さんみたいに『杏子ちゃんのことが好きだから付き合ってほしい』そう言って、時間をかけ好きだという気持ちを証明してくれていたなら。


 そうしたら、私はきっと……


 瞳を開いた。

 シュレッダーに飲み込まれた注文請書はバラバラに切り刻まれ、もうその姿は影も形もなくなっていた。


        *****


 正しい数字に直した注文請書に会社印をつきながら、私はまたため息をついた。


 ……とにかく、今日こそはセイさんと話をしなくては。


 昨日路地をひたすら駆け抜けた、あんな思いは二度とごめんだし、それにそもそもこんな状況は絶対におかしい。


 好きでもない私と結婚したってセイさんが幸せになれるはずなんてないし、ストーカー女に私が付きまとわれるのも……よくよく考えたらおかしいじゃない!!


 だんだんストーカー女が怖い、とかそういうことよりセイさんに対して腹が立ってきた。


 元はと言えば、セイさんがあの女の前で「彼女と今から入籍しにいきます」なんて宣言しなければ私が目をつけられることもなかったし、婚姻届を出したりしなければ婚姻届無効の調停について考えることも無かったし!


 それにヤツは店では猫を被っているのだから、そのニセイケメンスマイル目当てで店に通う女の人だって沢山いるに違いない。

 入籍だって私みたいな平凡な女ではなく、そういう、ヤツの顔面が好きであの性格に耐えられる積極的な女性としたらいいのだ。


 危ない!!流されるとこだった!!やっぱり全部全部あの人のせいじゃない!!


 そう思い直すと、頭の中の脳内セイさんが「チッ」と舌打ちしたのが聞こえた。


        *****


 終業時間まで何度も時計を見上げながら過ごした私は、終業を告げる鐘とともに会社を後にした。

 電車に飛び乗って向かうのはもちろん、ヤツの店だ。


 真っ暗になった街に灯る明かりを、その車窓から眺め考える。


 まず店に行って、アイツを見つけたらビシッと人差し指を突きつけて『アンタの出した婚姻届を無効にする調停を起こしてやる!』と面と向かって言ってやろう。

 きっとアイツは、いつもカフェに行って本を読んでいる、自分に逆らわなさそうな女だから私を入籍相手として選んだに違いない。


 そんな相手が突然牙を向いたら、慌てふためいて私の話を聞くつもりになるだろう。

 私が思い通りにならない面倒な女だと認識したら、ヤツはこの結婚話をもっと仲がいい女性や自分のファンの女性に持ちかけることになるはずだ。


 私との結婚を白紙に戻して、彼はその女性と再び入籍する。

 それが、誰も傷ついたりしないハッピーエンド。


 そうしてセイさんが誰かと嬉しそうに寄り添う姿を想像すると、まるで二日酔いの朝のように胸の中心がぐうっと焼ける感触がした。

 電車の車窓には、眉をしかめ泣きそうな顔をした自分の顔が映っている。


 ……どうしてよ。

 どうして、私はそれで納得できないのよ。


 ニヤッと意地悪そうに笑う顔、唇を持ち上げる妖しい笑み、少年のような笑顔……いま思い出せるヤツの顔はどれも笑顔ばかりだった。

 笑顔のセイさんは私に向かってあの言葉を繰り返す。


『きみさえ頷けば、全部まるく収まる。僕たちが結婚すれば、僕はストーカーに悩まされなくて済むし、きみは彼氏や結婚相手について悩まなくて済む。いい提案だと思うけど』


 違う。

 違うの。

 そうじゃなくて、私があなたから聞きたかったのは……


 その時、車内アナウンスが流れ始めた。

 私はハッとして次の駅で降りるために考えを中断して開くドアを見つめた。


        *****


 半地下のお店が入る、タイル張りのビルの階段を降り、いつものように鉄と硝子でできた店の扉を開けようと手をかけた。


 扉の透明な硝子越しに見えたのは誰も並んでいないレジに立っているマリさんと、その隣で話をしているらしいセイさんだった。


 ……今日こそ、アイツにビシッと言ってやる!


 さっき電車の中でやったシミュレーション通りにしてやる!と意気込んだ私は扉にかけた手にぐっと力を込める。


 ちょうどその時だった。


 マリさんが何事かをセイさんに向かって言い、それにセイさんは顔をしかめる。

 きっと舌打ちしたのかもしれない。

 マリさんはそんなセイさんを見て、口を大きく開けて楽しそうに笑った。


 私は開きかけていた扉から思わず手を離し、そのまま2、3歩後退あとずさる。


 …………本当は、私なんかよりずっとずっと可愛くて、セイさんを理解していて、仲のいい人がいるんじゃない。


 じゃあ、私は何。

 ……なんでよりによって何も知らない私と結婚したのよ!!


 手を離した扉は、僅かに音を立てたらしい。

 レジカウンターにいたセイさんは、ハッとしたようにこちらを見た。


 私は彼の視線を避けるように顔を逸らし、そのまま踵を返して階段を駆け上がる。

 頭の中はぐちゃぐちゃだった。


 どうして私なの!

 どうして私に優しくしたの!!

 どうして私の気持ちをめちゃくちゃに引っ掻き回すの!!


 こんな思いするくらいなら、あなたのことなんて好きにならなければ良かった!!


 地上へ戻り、そのまま駅の方向へと駆け出そうとすると、ちょうどビルの入り口あたりに立っていた人とぶつかりそうになった。


「す、すみませ……」


 とっさに謝ろうとして顔を上げる。

 その相手はなぜか私の腕をぐっと掴んできた。


「!!」


 私の腕を掴み上げていたのは、あのストーカー女だった。


「やっぱり今日もここに来たわね!アンタ、本当にセイとあの日入籍したの?!」


 そう尋ねられて、私はパニックになり死に物狂いでその腕を振り払った。女はそれに驚いたらしく、私を掴んだ腕を離す。


「もう私に構わないで!!」


 悲鳴のようにそう言って私は駆け出した。


「ちょっ……待ちなさいよ!!」


 女の怒声が聞こえたがそれにも振り向かず、私は駅目指して走る。すぐに女は私を追いかけ始めたようだった。私の後ろからは女のものらしい足音がついてくる。

 運の悪いことにあのカフェがあるこの場所は大通りから道を一本入ったところで、帰宅ラッシュの時間を超えると人通りが極端に少なくなる。


 とにかく走って大通りまで出れば、手を出される可能性は低くなるはずだ。

 それに、駅の近くには交番がある。どうにかそこへ逃げ込めれば……!!


 そう思った瞬間だった。


 ぐっと鞄を引っ張られて、私はつんのめって転んだ。


「ああっ!!」


 とっさに両手を前に出して体を支えようとしたが、私はそのまま地面にずしゃっと倒れ込む。

 その拍子に右側のパンプスが脱げた。

 体を支えようとした両手、そして右膝はアスファルトに擦れ、ひどく痛んだ。

 ……もしかしたら血が出ているかもしれない。


「ひ、ぐ……!!」


 痛みに顔を歪めていると、ぐい、と腕を引っ張られた。


「はあ、はぁ…はあっ……アンタねえ、ほんといい加減にしなさいよ…!!」


 私を覗き込むようにそう言った女の顔はひどく歪んでいた。

 私は誰でもいいから道ゆく人に助けを求めようと口を開ける。

 しかしその喉から漏れ出たのは助けを求める声ではなく、ひゅうっという風音かざおとだった。


「……!!」


 もしかしたら、このまま殺されてしまうかもしれない。


 その恐怖から全く動くことができなくなってしまい、私は女に腕を掴まれたままぎゅっと瞼を閉じる。


 その時だった。

 私たちの背後から、低く甘い声がかけられた。


「……いい加減にするのはあなたの方ですよ。オーギュ株式会社、経理部課長の巳波田みなみだ くみ子さん」

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