第8話 撹拌

 

 翌日、そわそわしながら仕事を終えると、終業と同時に会社を飛び出した。

 もちろん、向かったのはあの現実から切り離されたような半地下のお店だ。


 その扉を開けると、たまたま誰も並んでいないレジカウンターが目に入る。そこに立っていたのは頭の上にちょこんとお団子を乗せた、いつもの女性スタッフさんだった。


「いらっしゃいま……あ!」


 彼女は昨日と同じようにぱあっと顔を明るくして、私に笑いかけた。


「いらっしゃいませ!今日も来てくれたんですね!」


 流石にあの件とは無関係な彼女にヘンな態度を取ることもできず、私は曖昧に笑って軽く会釈をした。

 その際、彼女のネームプレートが目についた。彼女はどうやら『マリ』さんと言うらしい。


 マリさんはメニューを開きながら「今日はどれにします?」と問いかけてきた。

 正直、いつものように珈琲を楽しむ気分では全くなかったのだが、注文もしないのに店に来たのか、と思われるのもなんだか面倒で「じゃあ、エスプレッソグラニータで」と適当に答える。

 マリさんはニコニコしながら「いつものエスプレッソグラニータですね!」と注文を繰り返した。


 その笑顔に少し毒気を抜かれながら、財布を取り出すために鞄を覗き込む。

 そんな私を見て、マリさんは慌てたように目の前で両手を振った。


「えっ?!お代は頂かないように、ってセイ店長に言われてるんで、お金はいいですよ?!」

「……えっ?」


 それを聞いて私は目を丸くした。


 ……ヤツは、私が「ドリンク無料なんてもういらない」と言ったことを、スタッフの人たちに伝えていないのだろうか?


 マリさんは可愛く首を傾げて笑い、また商品受け取りカウンターを掌で指し示した。


「どうぞ、今ドリンクをご用意するので、あちらで受け取ってください!あ、それからセイ店長ですけど、もう直ぐ戻ってくる予定なので!」


 私はその言葉に顔を赤くした。

 モゴモゴやっているうちに、私の次のお客さんがレジへやってきた。私は慌てて商品受け取りカウンターの方へと歩みを進める。


 ……もしかしたら、アイツ以外のスタッフさんたちは私がアイツに会いたくて毎日通い始めたと思っているのかもしれない。

 そうでなければ、アイツの不在をいちいち教えてくれたりはしないだろう。


 確かに、今日の目的はアイツにビシッと言ってやることで、それは間違いではないのだが……なんだか、全部が全部アイツの思い通りになっているようで私は思わず顔をしかめた。


 エスプレッソグラニータを受け取って、もう直ぐやってくるアイツを待つことにした私は、仕方なく席に座り、全く読むことができていない文庫本を開いた。

 その1ページ目に視線を落とそうとしたその時、扉の開く音とともに、複数の人の足音と話し声が聞こえ始めた。


 顔を上げると、どうやら何かの集まりの帰りなのだろう、30代くらいの女性が10名ほどレジカウンターへ並んだのが見えた。

 彼女たちはめいめいに「どれにする?」と何人かのグループにまとまってスタッフから手渡されたメニューに視線を落としている。

 タイミングが悪いことに、その後ろにデート中のカップルが並び、さらにいつも窓際の席で資料を作成する常連のサラリーマンが並び、さらにその後ろに大学生の女の子たちが並び始めた。


 一瞬にして店は混雑し、カウンターの中のスタッフさんたちは慌ただしく動きはじめる。


 店内にはお客さんたちの話し声とエスプレッソマシンの大きなスチーム音が響き渡り、スタッフさんたちの「いらっしゃいませ!」と言う声からもだんだん余裕が失われていく。


 レジの列はまだ途絶えないようだった。

 何ができるわけでもないのに、ハラハラしながらその様子を見守っていると、バックヤードからエプロンを掴んだセイさんが飛び出してきた。


 彼は素早くエプロンをつけ、手を洗いながら貼り付けられたオーダー表を確認した。


「……いまどこまで出てる?」


 その声に、奥から声がかかった。


「グラニータまでです、それからセイ店長!こっちのヘルプ、お願いします!」

「ああ!」


 彼がカウンターに入っただけで一瞬にして空気が変わった。


「マリちゃんと後藤くんはレジ変わって!マリちゃんは奥のヘルプに!山口くんがやってるオーダーは僕が引き受けるから、そのままカウンター出て列の後方のお客様にメニューをお渡ししてきて!戻ってきたら席の清掃!」

「は、はい!!」


 彼はドリンクを作りながらスタッフさんたちに次々に指示を飛ばす。

 列は徐々に短くなり、座れる席もほとんどが埋まりだした。


 その姿をホッとしながら見つめ、私はグラニータに刺さったストローを口に含む。


 あんなに最低なことをするヤツなのに……仕事してる時は、悔しいけどすごくかっこいい。


 ……ビシッと言ってやろうと思ってたけど……こんなに忙しい時に席を占領したり、セイさんに話しかけたりしたら、スタッフさんたちが可哀想だよね……


 私はグラニータを飲み終え椅子から立ち上がった。

 その時になって初めて、セイさんは私の存在に気がついたらしい。


 カウンターの向こうでドリンクを作っていた彼は、目が合った私にいつかと同じように顔をくしゃっとさせ笑った。


「……!!」


 その表情にどきりとして、激しく脈打ち出した心臓を思わず押さえる。


 なんなのよ……その顔!

 どうして私に気づいただけで嬉しそうに笑うのよ!

 アンタがただの、嫌味なナルシストだったら私だってアンタのこと、大っ嫌いになれるのに!

 ……なのに、なんでそんな顔で笑うのよ!!

 ずるいじゃない!!


 思わず人目を憚らず、そう彼に向かって叫び出しそうになって、なんとか言葉を呑みこむ。彼はそんな私を知ってか知らずか、私を労るような、心配そうな瞳をしながら少し首を傾げる。


 なんでそんな優しい瞳で私を見るのよ!!

 そんな瞳で見られたら……勘違いしちゃうじゃない!!


 セイさんから顔を背け、私はそのまま帰り支度をして空のタンブラーを返却口へと戻した。

 彼は私の方へ歩み寄ろうとしたが、まだ片付いていない注文があるらしく、すぐにスタッフの人に呼び止められる。

「チッ」という短い舌打ちが背後から聞こえてきたが、私は彼の存在を無視して店を飛び出した。


        *****


「……はあ」


 家に向かって歩き始めて、何度目かのため息をついた。


 結局、ヤツの顔を見ることはできたものの『婚姻無効の調停を起こす』という大事な話をすることはできなかった。


 ……明日、またあの店に行くしかないか……


 真っ暗な空には太り始めた月が出ているのだろうが、その光は薄雲に遮られて届かない。

 車が2台、ギリギリすれ違えるかどうか、という狭い道を歩きながら、またため息をつく。

 閑静な住宅街に響くのは窓を開けている家々から聞こえてくるテレビの音や、それを見て笑う声、それに猫の鳴き声くらいだった。


 いつもよりそれがひどく大きく聞こえて、私はふと立ち止まる。


 ……そうだ、2日前、そして昨日と……ここはセイさんと一緒に歩いた道だ。


 それに気がついてしまうと、あの馴染んだ熱が自分の掌を握りしめていないことが、ひどく寂しく感じられてきて、ぎゅっと拳を握った。


「……もう、なんなのよ!」


 アイツにされた嫌なことを思い出して、感傷的な気分を振り切ろうとしたが、思い出される彼の顔は、私に向かって嬉しそうに真っ黒な瞳を細めるそれで。

 思わず首を振った。


 ちがうちがう!!アイツは……私の気持ちを無視して、私をストーカー対策のために利用した、最低な男で……!!


 そこまで考えて、私はまた思考の沼にはまっていく。


 ……でも、どうして私はセイさんのあの言葉に、あんなにガッカリしたんだろう。


 勝手に婚姻届を出したから?

 それは当たり前だけど、でもアイツはそういう、自分勝手な腹黒二重人格野郎だって私は知っていたはずじゃない。

 ……本当はいい人なんじゃないか、って思っていたから?

 それとも……



 ズキズキと痛む胸を押さえて立ち尽くしていると、後ろから車が近づいてきたらしく、そのヘッドライトで照らされた私の影がすうっと伸びた。

 この道は狭く、真ん中を歩いているとクラクションを鳴らされてしまうこともあるため、私は急いで道の端に移動する。

 車が来る方を確認しようと振り向くと、15メートル程離れた十字路に、さっと誰かが隠れたのが見えた。


「…………!!」


 車が向こうからゆっくりと走ってくる。私はその車に追いつかれないよう、道の真ん中を全力で走り出した。

 車は走り出した私に向かってクラクションを鳴らす。

 自分へのクラクションに気が付いていないフリをしながら走り、目の前に現れた十字路に設置されたオレンジ色のカーブミラーを見上げた。

 先ほど隠れた人物は、私が走りはじめたことに気が付いたらしい。

 クラクションを鳴らした車の後ろにいたのは……セイさんに出禁にされた、あの女だった。

 私は走るスピードを上げ、車の目の前を横切って暗い路地へと駆け込む。


 この辺は似たような住宅街が続いていて、土地勘がある人でもたまに迷ってしまう。

 そこを振り返らず私は走り抜ける。


 街灯のないマンションとマンションの間を右へ、コインランドリーと駐車場の間を突っ切って閉店した角のタバコ屋を左へ、見えてきた人気ひとけのない公園の中をショートカットしてその先の丁字路をまた右へ……しばらくめちゃくちゃに走って、走って、走って。


 汗だくになって喉の奥から血のような味がし始めて、はじめて足を止めた。


「はあっ、はあっ、はあッ……!!」


 知らない家のコンクリートブロック塀にもたれかかるようにして身を隠し、ぜいぜいと呼吸音を立てる自分の唇を掌で塞ぐ。心臓はばくばくと激しく収縮して全身へ血を送り出し、唇を塞ぐ私の掌は震えていた。


 息が整うまでしばらくそうして、そろそろと壁に背をつけたまま、路地の方へと顔を出す。


 しばらくじっと様子を伺ったが、女の姿はどこにも見えず、どうやらうまく撒くことができたようだった。


 私は壁にもたれかかったまま、へなへなと座り込む。


 ……どうしよう。

 どうしよう、どうしよう!!


 まさかあの女がつけてきていたなんて……!!


『……本当にきみ、何にも分かってないね。このままきみの家まで送って行ってごらんよ?きみの家、あっという間に特定されて嫌がらせが始まるよ?』


 その時思い出したのは、そう言ったセイさんの言葉だった。


 ……撒いたと思ってすぐに家に帰るのは危険かもしれない。

 でも、もしかして……あの女は私の家をもう知っているのだろうか。


 ぼこぼこと湧き上がってくる不安に心臓をまた鳴らしながら、でもこのままじっとしているわけにもいかない、と萎えそうになる足を押さえ、私はゆっくりと立ち上がった。


        *****


 しばらくあちこち歩き、途中で見つけたコンビニで時間を潰したりして。

 家に帰り着いたのはその後1時間くらいしてからだった。


 自宅の郵便受けを恐る恐る覗き、何度も振り返りながら自分の部屋の鍵を開け中に入る。

 玄関の鍵とチェーンを震える手でかけた。

 やっと安全な場所へ帰ってこれたのだ、と実感が湧くと安堵のあまり、私はそのままへたり込んだ。


「ふ…っ……ゔ、う……!!」


 私は扉の前でガタガタ震えながら、漏れそうになる嗚咽を堪える。

 声を殺しても、涙が、そして感情が溢れて止まらなかった。いい大人だというのに、ぼろぼろと泣きながら膝を抱える。


 こわかった。


 全然知らない人に追いかけられたことも、もしかしたら危害を加えられるかもしれないことも。


 セイさんはいつもこんな思いをしているのかもしれない。


 ひとしきり泣くと、だんだん落ち着いてきて……お腹がすいたとか、喉が乾いたとか、汗がベタついて気持ち悪いとか、トイレに行きたいとか、生理的な欲求がポツポツと湧いてきた。


 私はそれを満たすために立ち上がる。


 ……とにかく、今不安になって思い悩んだって仕方がない。


 明日……セイさんに、また会いに行こう。

 そして、こんな馬鹿げた結婚は無効にしたいこと、ストーカーに追いかけられたこと……それから、もうこんなことに私を巻き込まないで欲しいこと。


 それを伝えて、セイさんと会うのはできれば明日で最後にしてもらおう。


 鞄を下ろすと、昨日と同じようにその中から『ひゞき 隆聖』先生の文庫本が顔を覗かせた。

 セイさんと見た、夢のような月の美しさを思い出したくなくて、私はその表紙を無言のまま裏返した。

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