2章

二人目 悠一Ⅰ

 悠一は真っ暗な廊下をひたすら歩いていた。


 もうずいぶん長いこと彷徨っているような気がする。それでも依然先の見えない状態のまま、とにかく歩を進める事しかできなかった。

 頭の片隅に付きまとう違和感。自宅の廊下はここまで長くないし、その間ドアが一つもないなんてことはあり得ない。けれども悠一はその疑問を深く考えることはなかった。

 

 時計もなにもないのだから、どれ程歩いたかは分からない。

 何時間も歩いているように感じる反面、まだ数分しか経っていないような感覚もある。あやふやな自分がそこにいた。

 思考も定まらず、視界は狭く、目に映るのは暗闇に飲み込まれている空間と、板張りの廊下、真っ白な壁だけ。

 悠一は当たり前のように、暗闇の先へと進んでいった。恐怖はなく、何故か進まなければならないと思った。

 やがて突き当たり差し掛かると、見覚えのある扉が現れた。シンプルな木製の扉に、背筋がぞくりと震える。

 

(あれ、あのドアってどこかで……)


 見たことのある扉だが、どこで見たのかが思い出せない。

 ふいに頭の中で警鐘が鳴り響く。開けてはならないと誰かが叫び、危機感が全身を襲った

 それでも体は止まることなく、ドアノブに手を掛けた。まるで自分の体が乗っ取られて、自分の意思とは無関係に動いているようだった。

 やめろ、と叫ぶ。が、喉は震えず、静かな呼吸が続いている。体は冷静なままなのに、精神は発狂するかの如く荒ぶっていた。


 ドアノブが回される。

 ドア一枚隔てたその向こうで、不釣合いな金属音がした。じゃらりと重そうな金属が摺れる音。聞き覚えのある、不吉さを孕んだ音だ。

 

(ダメ、ダメ、ダメ……お願い、開けないで……!)


 何度叫んでも、声は出ない。

 ここにきてやっと恐怖が湧き上ってきた。逃げ出したい気持ちに駆られ、今すぐにでも泣き叫んでしまいたい。

 パニック寸前の悠一の体は、躊躇うことなくドアを開いた。

 

 ごとりと床へ何かが落ちる音。続いて、音を立てずに扉が開いていく。その向こうは変わらず、吸い込まれそうな暗闇のままだ。

 何も無い空間が広がっていた。ばくばくと鳴る心臓を押さえて、悠一は一歩を踏み出す。

 何かを踏む。無骨な鎖が転がっていて、得体の知れない不気味さを感じた。

 

(鎖……あれ、これは)


 考える間も休まずに、悠一はまたゆっくりと歩き出した。

 ドアより先は先程の廊下とは比べ物にならないくらいに暗く、踏み締めている床すら見えなくなってしまった。上下の感覚すら失ってもなお、歩く足は止まらない。

 やがて視線の先に、ゆらりと蠢く何かを見つける。だんだんと大きくなっていき、すぐにそれが人だと気付いた。

 暗闇にぽっかりと浮かび上がるその人物は、こちらをずっと見つめていた。瞬きもせずただひたすら悠一を凝視している。

 顔がわかる距離になって初めて、それが誰なのか理解した。

 

「せんぱい」


 小さく、しかしはっきりと話しかけてくる。

 少しハスキーで、荒っぽい声。でもどこか明るい、笑顔と同じで太陽を思わせるそれ。

 闇の中で金髪を揺らして、千里が手招きをしていた。

 

(――――ッッ!!)


 声が出なくて助かったと、今初めて思った。

 全身から汗が吹き出てくる。終わったはずの悪夢が、また口を開けて待ち構えていた。

 

(なんで……いやだ、いやだ。もう、いやだ……)


 ここにいる彼女はあの時の千里じゃない。あれはもう終わったことで、今の彼女は違うのに。

 頭では分かっているはずなのだが、体がそれを忘れていない。かつての笑顔を取り戻した彼女でも、恐怖が拭いきれていない。

 頭の中を掻き混ぜられているようなパニックが悠一を蝕んでいく。そこで初めて悠一が歩を止めた。


 ぴくりと千里の眉が跳ねる。暗闇には不釣合いな笑顔が途端に色を無くした。

 彼女の気に障ったのはすぐに分かった。あの家でそれが分からなければ命取りになるのだから、ある種の防衛本能だった。


(行かなきゃ……でも行っても……)


 このまま逃げ出してしまえ。いや、彼女の元へ行かなければ酷い目に遭う。

 酷い目?またあんな日々を送るのか。

 

(いやだ。次はもう、耐えられない……!)


 足はぴくりとも動かない。金縛りにあったかのように全身が固まっている。

 そんな悠一を前にして、千里が手招きをやめた。幽鬼のように濁った眼光を向けて、ゆらゆらと近づいてくる。

 一歩が遅く、それゆえに恐怖が増していく。距離が縮まるにつれて心臓が破裂しそうなくらい鼓動する。

 気付けば必死になって呼吸する自分がいた。必死に吸えば吸うほど、息が苦しくなるように感じる。

 

 手を伸ばせば触れられる距離にまで近づくと、千里は覗き込むように悠一を睨みつけた。

 見たことがある、あの紅い瞳。光っているのかと思うくらいに爛々としている。

 

「せんぱい」


 今度は低く唸るような声。あの家で聞いた、恐ろしい鬼の声。

 答えを求めていないのか、千里は返事を気にせず言葉を続けた。

 

「何で逃げるんだよ、なあ。……なんで、アタシじゃなかったんだよ」


 恨みを全て籠めたかのような言葉と同時に、千里の手が首を捉えた。そのままぎりぎりと締め上げていく。爪が皮膚を突き刺し、ぬるりとした液体が首を流れていく。

 

「……ぁッ!」

「なんでだよ、なんでだよ、なんで……なんでアタシじゃないなら、優しくしたんだ」


 感情のない瞳から涙が流れる。紅く淀んだそれは血のようだった。

 頬に一筋、流れていく。見開かれた瞳同様紅く、深い悲しみが篭っていた。

 

「先輩の……お前の、せいだ……!」


 千里は悠一の首を両手で掴み、そのまま持ち上げる。空気を遮断され、視界が一気に暗くなっていく。

 千里は掴んだ細首をそのまま捻じり上げた。首の骨がごきりと砕け―――

 

「———ぅいちっ!悠一ッ!」


 肩を思い切り揺さぶられ、視界が一気に開けていった。

 ぜえぜえと荒い息。汗がびっしょりとワイシャツを濡らしていて、頬は涙で濡れていた。

 我に返ったように周囲を見渡す。肩を揺さぶったのは灯らしく、彼女は心配そうに悠一を見つめていた。


 陽光降り注ぐ屋上、そこに備え付けられたベンチの上。そこに千里の姿はない。

 どうやら食後にそのまま眠ってしまったようだ。最近は寝つきが悪く、睡眠不足の日々が続いていたためか、うとうとしてしまうことが多くなっていた。授業中に寝てしまうこともあり、真面目な悠一としては由々しき事態であった。

 

「どうしたの?急に泣き出すし、どんな夢見てるのよ」

「はぁっ、はぁっ……わかんない。ごめん、覚えてないや」


 自分の首を触って確かめる。当たり前だが、折れても傷付いてもいなかった。

 ほっとして胸を撫で下ろす。呼吸は戻り、しばらくしてようやく落ち着きを取り戻した。

 

 それにしても酷い夢だった。

 あんな夢を見るなんてどうかしている。そもそも千里は呪いから解放されたのだから、もうあんなことはする筈がないのだ。

 憔悴した悠一を灯が覗き込む。あまり見たことのない少年の様子が、彼女をさらに心配させた。


「なんか最近変じゃない?あんまり寝れてないみたいだし……」

「ほんと、大丈夫だから。暑くなってきたから、寝苦しいだけだよ」

「ならいいんだけど。何かあるんだったらちゃんと言うのよ?」


 灯は眉を顰めて、悠一の頭をくしゃくしゃと撫でた。手の平に湿った感触。髪が汗で濡れていても灯は気にしない。

 スマートフォンを取り出して時間を確認する。午後の授業まではあと数分で、丁度予鈴が鳴り始めた。

 

「そろそろ行こっか。それとも保健室で休んでおく?」

「いや、ちゃんと授業に出るよ。いいから行こう、ね?」


 悠一は立ち上がると、灯の手を引っ張った。体調は悪くないし、気分も大分戻ってきている。あまり不要な心配はかけさせたくなかった。

 灯は不満げな顔をしつつも、それ以上は言葉を重ねなかった。

 

 季節は初夏。少年にとって忘れられない夏が始まった。

 

 

 

 

 マスターからの差し出された給与明細を見て、悠一は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。働いたことになっているとはいえ、実際は一ヶ月近く無断欠勤をしていたのだから当然だった。

 とはいえ、「本当は働いていなくて、事実が捻じ曲げられているんです」なんて言えず、悠一は苦笑いをして明細をカバンへ仕舞った。変な奴だな、と笑う店長に、さらに悠一は恐縮してしまう。

 

 この町は山々に囲まれているため、気温が高くなりがちだ。今日も朝から蒸すように暑かった。

 そのため、衣替えの時期も必然と早くなる傾向にある。学校は元より、悠一が勤めるアルバイト先でも同様だった。

 長袖のワイシャツは半袖となり、ネクタイは外される。あまり変わらないように見えるが、ネクタイがないだけで首元は大分涼しくなるのだ。


「うん。素敵ですよ、悠一さん」


 にこにこと悠一に笑顔を向けるのは、同じく夏用の制服に着替えた栞だ。

 視線を集める胸元以外は悠一と変わらないはずなのだが、着こなしているという点では彼女のほうが上だった。


 彼女といると自然と顔が綻んでしまう。

 少しばかり高揚した気分のまま、悠一は栞に言葉を返した。


「栞さんのほうが似合ってますよ」

「本当ですか?ふふ、悠一さんに褒めてもらえるのは嬉しいですね」


 ほとんど反射的な、社交辞令に近い言葉ではあったが、栞は全身で喜びを表現した。

 栞は彼女の通う大学内はもちろん、この町では知らない者はいない程の美女であった。柔らかい雰囲気に整った顔立ち、加えてその性格は優しく、しっかり者だと評判だ。完璧な女性だという者も多いが、付き合ってみれば意外と抜けているところもあり、それがさらに彼女の魅力を引き上げていた。


 そんな彼女が働くカフェがあるともなれば、人気が出ないはずもない。元々マスターの人柄もあって繁盛していた店だったが、彼女が働くようになってから客が絶えることはなかった。

 

「お、二人とも良いじゃねえか。……悠一のはちっと大きかったか。一応Sサイズなんだけどな」


 咥えタバコのまま、店長がカウンターから顔を覗かせた。髪をゴムで束ねた彼は、整えた顎鬚を撫でながら悠一を見て言った。

 

「店長が用意したんじゃないですか……」

「いや、悪いな。レディースにするべきだったかな」

「修さん!」


 からかうような店長に栞が声を荒げる。見れば頬を膨らませた彼女が不満げな目で睨んでいた。


「いや、これでSサイズだぞ。これよりサイズ下げるならメンズじゃもう無理だろ」

「わざわざ言わなくてもいいじゃないですか。悠一さん、結構そういうの気にしてるんですよ」


 ねえ、と悠一に同意を促す。悠一は苦笑いを浮かべるしかできなかった。

 気まずそうに唸って、栞の視線から逃げるように悠一へ向き直る。栞は本気で怒ってはいないようだが、あまり冗談を続けると後が怖い。さっさと謝ってしまった方が得策だった。


「悪気があった訳じゃないんだけどな・・・まぁなんだ、悪かったな」


 ぐしゃぐしゃと悠一の髪を乱暴に撫でた。修に悪気がないのも、人のコンプレックスを本気で攻撃するような人柄でないことは知っていた。悠一も本気で落ち込んでいたわけではないため、笑ってその手を受け入れた。


「ほら、そろそろ仕事してくれ。お客が増えてきたからしっかりな」


 時刻は夕方四時を回った頃。部活動のない生徒や、買い物帰りの主婦たちが顔を出し始める時間帯だ。

 修の言葉に応えるように、店のドアに付けられたベルが頻繁に鳴り出した。あっという間に席が埋まる。あちこちからオーダーを頼む声が上がり、悠一たちは仕事に取り掛かった。

 

 オーダーを一通り取り終え、落ち着きを見せ始めた頃、悠一は常連客である女子生徒と談笑していた。

 学校ではそれなりに人気のある彼だが、それはこの店でも同じことである。半分は犬猫を可愛がる感覚に近いのだが、もう半分は純粋な恋心からだ。主に楓や灯のせいで学校では近付き難い存在になっているが、ここでは店員とお客と言う関係からか、彼女達も話しかけやすいようだった。


 悠一も当然、愛想よく接客をする。

 仕事は真面目にこなすという誠実さと、マスターから「客とは仲良くしておけよ」という言いつけを忠実に守る健気さを彼は持っているのだから、当然の如くどんなお客が相手でも笑顔で接するようにしていた。それ以前に、お客と話すこと自体嫌いではないのだ。

 それが例え理不尽を振りまく相手だろうが、にやにやとセクハラを働いてくる相手だろうが同じことだ。今日はそういった無粋な客はいないようだが、それを快く思わないのが栞だった。


(悠一さん、とても楽しそうですね)


 彼が楽しく仕事をしているのはいい事だ。

 特に笑顔でいる悠一は天使だと思えるくらいに輝いている。笑顔だけでなく、落ち込んだ顔も泣き顔も堪らなく魅力的だ。きっと天使が本当にいるのなら、彼とそっくりなのだろう。少なくとも、栞は疑いなくそう思っていた。


 とはいえ、にこにこと見守る栞の心境は複雑なものだった。

 端的に言えば気に入らない。今彼が見せている笑顔は、自分以外の手によるものだからだ。


 彼が笑うのは自分の前だけでいいし、泣くのも自分の胸の中だけでいい。

 彼を喜ばせるのも、悲しませるのも、生かすも殺すも自分だけでいい。

 自分以外が彼の心を動かすなど、腹立たしいことこの上ない。


(あんな子たちに、悠一さんの何が分かるっていうのでしょう)


 少年は優しい。

 優しすぎて、自分より他人を優先してしまうきらいがある。

 仮に目の前で死に掛けている人間がいれば、自分の命と引き換えにでも助けようとするだろう。それくらい純粋で、自己犠牲を厭わない聖人君子みたいな男の子なのだ。


 だからこそ、誰かが守ってあげなければならない。

 彼を理解して、彼を最大限幸せにできる者が守るべきだ。

 見守って、導いて、傷つかないようその腕に包み込まなければ。


(ふふふ……仕方のない人ですね、悠一さんは)


 にこにこと栞の笑顔は崩れない。

 楽しそうに女生徒と笑い合う姿を見て心中穏やかでなくても、悠一のいる前では崩したくない。


(そろそろ間引きの時期ですかね)


 常連客だが仕方ない。一度や二度なら許せるが、あの女生徒はやりすぎだ。

 口で言って理解できるならよし。解ってもらえないなら、解るまで教えてあげるしかない。何時間でも、何日でもかけて教えてあげよう。 


 栞は女生徒に掛ける言葉を考えながら、栞はくすくすと笑った。

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