一人目 千里Ⅷ

「君島あぁッ!」


 咄嗟に閉じられた瞼にナイフの先端が触れたと同時に、灯の叫び声が響いた。

 病室内の空気が固まり、同時に千里の動きが止まる。歯をぎしりと鳴らして、無言で感情を爆発させた。

 恐らく人生で最も嫌いだと言える人物が邪魔をしに現れたのだ。ただでさえ頭に血が昇っているのに、いい加減どうにかなってしまいそうだった。


「ほんっとタイミング悪いよな、お前……」

「……やっぱりアンタは先に殺しておくべきだったわ」


 瞼からナイフの先端が離れていく。

 悠一がそっと目を開けると、目の前には憎々しげにドアの方を向く千里がいた。

 怒りを堪えているような、全てが嫌になって泣き出したくなっているような、複雑な表情をしていた。


「クソっ、どいつもこいつも邪魔ばっかしやがって」

 

 舌打ちをして、千里はベッドから降りた。

 右手に鈍く光るナイフ。堅いローファーの底が、クリーム色の床を鳴らしていく。

 上手く事が運ばない苛立ちからか、歩き方もまともではなかった。ゆらりゆらりと振り子のように歩を進めて、息を切らす灯を睨み付ける。

 狂気に満ちた視線を向けられても、灯は怯むことも怖気づくこともなかった。所詮箍が外れた獣のような女の視線だ。そんなものなど恐れるに足らない。

 灯はそれを真っ向から受け止め、大きく息を吐いた。

 

 地面には血に塗れた看護師の女性が倒れていた。大量の血を流し、ぴくりとも動かない。

 ベッドの上で悠一は腕を押さえて苦悶の表情を浮かべている。シーツが赤くに染まっているところを見る限り、千里にナイフで傷付けられたのだろうと判断した。

 

「アンタ、悠一のこと好きなんじゃなかったの?」

「当たり前だろ。先輩以外に好きなもんなんてねーよ」


 千里からの返答を聞いて、灯は吹き出してしまう。

 口元に手を当てて、さも馬鹿にしたような仕草をした。その行為がさらに千里の怒りを煽っていく。

 

「何がおかしいんだテメー」

「ははっ……何がって、好きだって言うわりには簡単に傷付けられるのね。殴って、犯して、さっきはナイフで突き刺そうとしてたじゃない。言っちゃ悪いけど、アンタ頭おかしいんじゃないの」


 可笑しくて仕方がなかった。

 愛しい人を傷付ける神経が理解できないし、そもそもそんな事をして彼が離れていくとは思わなかったのだろうか。

 

「あぁ、そういえばアンタは元々そういう人間だったわね。怖がらせれば誰でも言う事聞くようになるとでも思ってた?馬鹿じゃないの。今の悠一を見てみなさいよ。今あの子がアンタを好きになるような理由が一つでもある?」


 あの女の性癖など知ったことか。

 加虐趣味があろうがどうでもいい。それを悠一に向けたことが罪だ。

 どうせ狂っているのだからと、灯は徹底的に千里を責め立てた。こういった手合いは心を折ることこそ優先すべきで、その後ゆっくり止めを刺せばいい。元より手加減などするつもりだってなかった。

 首だけになっても噛み付くのがこういった野犬のような女なのだ。

 心を粉々に砕いてからその首へし折ってやる。心の奥で静かに炎が揺らめく。


 千里はその言葉に、口を噤むことしか出来なかった。言い訳をすることも、違うと一言否定することさえ叶わない。

 喉から出掛かってはいたものの、意識してしまった自覚があったからか、何もいう事が出来なかったのだ。

 耳鳴りがして、また奥歯が鳴る。頭に直接響いているようでとても不愉快だ。

 わなわなと体を震わせて、千里は頭を振った。自分の思考から都合の悪いことを消してしまいたかった。


(うるせぇ、本当にうるせぇよ)


 イライラする。

 悠一に大切に想われているこの女も、自分を好きになってくれない悠一も。

 何より普通に恋すらできなかった自分が、この上なく腹立たしい。

 


 自分だってもっと普通に、告白して手を繋いで一緒に帰って、笑ってキスをしたかった。

 どこでボタンを掛け違ったのかすら分からない。

 何故もっと冷静に、いつか漫画で見たような普通な恋をできなかったのか。

 悔しくて涙が溢れそうになった。

 あの女の言うとおりなのだ。自分はもうどこかおかしくて、こんな女を悠一が好きになってくれるはずがない。

 一度気付いて認めてしまったら、後はもう崩れていく積み木のように壊れていくのみだ。

 千里はナイフを持つ手を強く握り締めた。


「アンタだって自分で分かってるんでしょ。攫って監禁でもしなきゃ、あの子に振り向いて貰えないものね。それで、楽しかった?傷だらけで無理矢理笑わせた悠一と過ごせて幸せだった?」

「……うるせーよ」


 顔を下げてしまう。

 俯くと前髪が顔を隠した。影になった視界がじんわりと滲み出す。

 ついに涙が出てしまったと、千里は決壊する感情の波を止められずにいた。


(幸せだった?)


 あの家で過ごした日々がフラッシュバックする。

 だがどの思い出も色褪せていて、灰色の悠一が悲しそうに笑っていた。

 血を流して、涙を押し殺して笑っている彼ばかりだった。思い出すほどに切なくなって、胸が苦しくなっていく。胸を押さえても気休めにすらならなかった。


 視界がどんどん歪んでいく。

 頬を熱いものが流れていって、足が震えて立っているのも辛い。膝を突いてしまいたかったが、すんでのところで持ちこたえた。


「分かったでしょ。アンタはもう終わってんの」


 分かってるよ、と掠れた声が喉から漏れ出た。

 小さな声だったが、静かな病室でははっきりと聞こえる。自分の心底から零れ出た言葉だった。


 袖で涙を拭った。

 泣いていることを隠すことすら面倒になっていた。今さらそれを隠して意地張ったところで、もうどうにもならないのだ。

 まだぼんやりとした視界に、愛しい少年の姿があった。

 腕を押さえて、こちらを心配そうに見つめている。目が合っただけでまだ嬉しくななれる心があって、なんだか救われたような気がした。


「なんでこうなったんだろーな……」

「知らないわ。アンタの考えることなんて興味ない」

「だろーな」


 まぁもうどうでもいいけどな、と千里が呟いた。

 どこかスッキリしたような声だった。その声に灯が警戒する。

 千里は自分の覚悟を思い出す。こんなことで揺れてはいけないのだ。


「でもな、アタシも遊びでやったわけじゃねーんだよ。頭おかしくても、無理だって分かってても、やっぱ先輩が好きなんだよ」

「だから何?やって良い事と悪い事も区別できないんなら、アンタにそんな資格はないわ」

「言ったろ。もうどうでもいい、って!」


 言葉と同時に、千里が灯へ突進した。

 無駄のない動作でナイフを突き出して、灯の首を狙う。月明かりに反射した銀色が、その細首を掻き切ろうとした。が、その殺意は目の前の少女に届くことはなかった。 


 警戒していたのが幸いして、灯はなんとか避ける事ができた。

 一瞬でも反応が遅れていたら、あの刃は届いていたかもしれない。殊勝な態度で反省したのかとも思ったが、やはりただ吹っ切れただけだったのだ。ケモノの考えることなどお見通しだ。


「死ねよ、クソがッ!」


 避けられようとも、千里は殺意を露にして灯へ襲い掛かった。

 喧嘩なら負ける気はしない。実力行使になれば、圧倒的に自分が有利なはずだ。

 言葉でどうこう言われようが知ったことか。もういいのだ。哀れな女で結構。

 ただ、後悔ばかりで引き返すのは自分が許さない。たとえ彼に完璧に嫌われようが、生涯恨まれようが構わない。それで彼が自分を見てくれるのであれば、それが自分の幸せだ。そう決めたのだ。


「灯ッ!」


 少年の声が耳に入る。

 自分ではなく、やはりあの女の名前を叫んでいた。

 胸はざわつくが、これが自分と灯の差なのだ。今さらそれに悲観することも、焦る必要もない。最早自分にとっては意味のないことだ。

 自分に言い聞かせて、千里は悪役に徹することにした。悪役ならそれらしく、勇者を殺して姫を攫おう。

 それが自分の覚悟だ。何を犠牲にしても、彼の傍にいたいのだ。


「悠一、こっち来ちゃダメ!」

「でもっ……」 

「さっきからごちゃごちゃうるせーっつーの!」


 冷静沈着だった灯が、ここで初めて動揺を見せた。

 ナイフはまだ掠りもしていないし、隙を見て反撃することだってできる。だが、悠一の前でそういった姿を見せたくもない。正当防衛とはいえ、人殺しをする瞬間など見られてしまえば、彼はきっと自分を避けるだろう。少なくとも、なんらかのしこりは残ってしまう。


(っ、めんどくさいわね……!)


 なにより、悠一は千里を止めに入ろうとしていた。

 血塗れの腕を押さえ、それでも割って入ろうとする。何が彼をそこまでさせるのか、灯には理解できなかった。


「千里ちゃんも、お願いだからやめて!」


 千里は止まらない。

 聞こえてはいるし、名前を呼んでくれるだけで体が暖かくなった。一瞬止めてあげてもいいかな、と頭を過ぎるが、馬鹿げた考えだと無視をした。

 返事は後でしっかりしよう。この女を殺して、泣き喚く彼を抱き締めよう。

 もしかしたら怒り狂った彼に殺されてしまうかもしれない。それはそれで良い結末だ。彼に殺されるなら悔いはない。一生彼の中で生きていられる自分がいるなら、ある意味ずっと自分を見てくれることと同義だろう。

 

(あぁ……やっぱ、アタシっておかしいのかもな)


 夢はもう思い出せない。

 あの家での日々は、もう黒く塗り潰されてしまった。

 戻る場所なんてとっくにないのだ。

 

(先輩、ごめんな。こんな狂った女が、好きになってごめんな)


 心の中で、精一杯謝罪を繰り返す。

 でも、その謝罪に行動を伴わせるつもりはない。最後まで我を通して、彼を傷つけていく。その代わり、自分なりに最後まで彼を愛していこう。


 千里は背後で叫び続ける少年を無視した。

 我武者羅になってナイフを振り回し、邪魔者を排除しようとただ行動する。

 息は荒れ、手足はもう感覚がない。ナイフを握っているのかさえ分からない。

 目は霞んでほとんど前は見えていなかった。なんとか狭まった視界の端で動く物目掛けて、腕を突き出し振っていく。


「あは、あはははははっ……」


 涙が止まらない。

 こんなに辛いとは思わなかった。

 乾いた笑いが無意識に溢れ出た。

 心は彼と幸せに過ごしたいと思っていても、自分がすると決めたことはそれと真逆の行為なのだ。そう覚悟を決めたはずなのに、悠一の傍にいる手段はそれしかないのに、何故こんなにも心が捻じ切れてしまいそうなのだろう。

 

「死ねよッ!もう、全部ぶっ壊れちまえ!」

「しつこいのよ、このっ!」


 灯が反撃に出ようとする。

 彼の前で止めを刺さなければいい。彼を危険に晒す事自体が間違っていたのだ。

 まずは殴って千里を行動不能にする。始末するのはあとでいい。間違いが起きる前に潰してしまえと、心が警鐘を鳴らしていた。


 千里はもう限界といった様子だ。

 放っておいても勝手に倒れるだろうが、悠一がそれを止めたがっている。あれだけ酷い目に遭わされても、お人好しが過ぎる彼は放ってはおけないのだろう。

 これ以上彼が傷付けられるのは見過ごせない。千里が暴走して悠一を殺してしまう前に、先に自分がやらねばならない。


 灯は千里の顔目掛け、思い切り拳を振るったときだった。


「灯、ダメ……っ!」


 重い体を引き摺って、悠一が灯を止めに入った。

 鮮血が流れる腕は動かないのか、だらんと垂らしたままだった。それでも空いた手と体で、千里と灯の間に割って入った。


「悠一、何してんの!危ないからどいて!」

「ダメだって、お願いだから……少しだけでいいから待って……っ!」


 悠一の必死さは、どこか鬼気迫るものがあった。

 待ってという彼の言葉も、傷だらけになってまで千里を庇おうとする彼の行動も、今は全て気に入らない。

 家族である自分より、こんな女を優先されているように感じることが、何よりも屈辱だった。 


「桃山ぁあッ!!」


 千里の視界、涙と疲労で歪みきったその中で、彼女は灯の声と激しく動く影を捉えた。しばらく見失っていた彼女をやっと見つけたのだ。ここで逃がす手はない。

 体はもうボロボロだ。

 心と体がスレ違いをずっと続けていて、壊れかけた人形のようになっている。

 そうであっても、ここでケリをつけなければならなかった。


 全力で、ナイフを前へと押し出す。

 首なんて贅沢なことは言わない。体のどこかに深々と突き立ててやれば良い。

 叫び声と共に、握り締めたナイフが真っ直ぐ影のほうへと突き出された。


 腕が伸びきる前に、ずぶりとした感触。

 少し抵抗があって、それを押し切るかのように体重を乗せ、体ごと突き刺した。逃がさないとばかりに、刺さったままのナイフを捻りこむ。

 喉から空気が漏れ出るような声。苦痛に満ちた声なき声が、千里を満足させる。


 と同時に、あの家で何度も嗅いだ柔らかい匂いを知覚した。


「がっ……ぁあッ!」


 千里はナイフを手放す。刺さったままのそれは抜けることなく、入院患者用のパジャマを赤く染めていった。


「……ぁああぁぁあッ!!悠一!ゆういちッ!」


 その場に膝をついて、灯が錯乱する。

 自分の命よりも大事だと公言していた少年が、自分の目の前でナイフで刺されてしまったのだ。

 千里がどうとかそんなことよりも、ただその事実が恐ろしかった。

 喉が張り裂けそうになるくらい、灯は少年の名前を叫んだ。

 手は届かず、彼に触れようとしても、わずか数歩の距離が詰められなかった。


「せん……ぱ、い……」


 悠一の腹部に、刃渡り全てが埋まっている。

 じわりじわりと朱が広がっていき、悠一は大きく咳をしては苦痛に顔を歪めた。

 それでも力を振り絞って、少年はそのまま千里を抱き締めた。何故か小さく感じた体が震えていた。

 喉から血がせり上がってくる。腕はほとんど感覚がなく、腹部には痛みというよりは焼けるような熱さを感じた。


 だが、言わなければならない。

 それが自分の責任で、千里をここまで追い込んでしまった自分が為すべき贖罪だ。

 血を飲み込んで、悠一は千里の耳元で一言囁いた。


「ごめん、ね。千里ちゃん……君は悪くなっ、いから……本当に、ごめん」

「せんぱい……せんぱ、いっ……ちがっ、そんな、アタシが……!」

「いいんだ。もう、ぜん、ぶ……終わるから……ッ」


 喉がひりつく。

 力が抜けていく。

 声は徐々に力を失っていった。

 灯は腰が抜けてしまったのか、その場に座り込んでしまう。

 震える手を伸ばし、なんとか悠一に触れようと懸命に足掻いていた。

 

 悠一が千里の髪を撫でる。

 ぴくりと反応して、涙が溢れる目で悠一を見た。

 優しく触れる掌が暖かい。いつかの、出会って間もない頃を思い出した。

 

 ぼやけた視界の真ん中で、夢で見たように、悠一が優しく笑っていた。


「リリィ、聞こえて、る……よね」


 少年は千里から視線を外し、天井を見上げる。


 ひとつ咳き込んでから、悠一ははっきりとした声で言った。


「僕は、千里ちゃんを―――」

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