一人目 悠一Ⅲ

 目を開くと、見慣れた天井が広がっていた。


 背中には柔らかい感触。カチコチと小さな音で時計の秒針が動いている。

 覚醒するまでの少しの間、ぼうっとその天井を眺めた。頭がまだ起きていないようで、何かを考えようとしても纏まらない。

 遮光カーテンからは柔らかい光が溢れている。今が夜はないことだけは分かった。

 

 記憶を辿ってみるが、理解できないことだらけだ。

 最後の記憶で彼は、夜の病院で修羅場の真っ只中にいたはずだ。なのに今は自室のベッドの上。すっぽりと記憶が抜け落ちていた。

 首を動かして周りを眺めてみる。やはりここは久しぶりの自室だ。簡素な机も、無駄に柔らかいベッドも、温度計が壊れた壁掛け時計も、何もかもが懐かしかった。

 

 とりあえず、と体を起こそうとして、また違和感に気付いた。


(……痛くない)


 ここ暫く彼を悩ませていた体の痛みが、全くない。

 頬を触ってみる。切りつけられた傷も、触れるだけで痛みの走る痣もなかった。

 今度はわき腹を強く押した。骨折していたそこは特に痛くて、身を捩るだけで息が出来なくなるくらいだったのだが、それが嘘のように消えていた。もちろん千里に刺された傷もなく、何か腑に落ちない感覚に襲われる。

 

「そうだ。灯と、千里ちゃんは……」


 あの後一体どうなったのだろう。

 自分はしっかりと責任を果たせたのだろうか。

 狐につままれたような気分から一転、不安が胸中に渦巻いていく。

 ぼろぼろに崩れていく少女を思い出して、また息が詰まる。千里をあんな風にしてしまったのは自分だと思い出して、罪悪感が圧し掛かる。

 不意に目頭が熱くなった。だが、今は泣いている場合じゃない。今すぐにでも、結末を確かめなければならないのだ。

 

 慌ててベッドから降りようとする悠一を、金髪の女性が押し留める。

 その女性を見て、悠一は一気に冷静さを取り戻した。


「リリィ……」

「久しぶり、っていったほうがいいのかしら。私はずっと君のこと見てたんだけどね」


 金髪紅眼の悪魔は、いつも通り黒いドレス姿だ。

 その顔はどこか優しげだが、声は不満でいっぱいです、と隠すことなくアピールしていた。

 何が気に入らないのかはなんとなく予想がつくが、彼女には聞きたいことが山ほどある。千里や灯を探すよりも、この悪魔に訊くほうが早いだろうと判断した。

 唇を尖らせる悪魔に、悠一はいくつか質問を重ねていく。

 

「千里ちゃんや灯はどうなったの?傷もないし……これはリリィの仕業、だよね?」

「そうね、何から話そうかしら……」


 ふむ、とリリィが顎に手を当て、考え込む仕草を見せた。

 こういった芝居がかった態度が多い彼女だが、今回は真剣に考えているようだった。ぶつぶつと何かを言っているがよく聞き取れない。

 しばらくして、リリィはため息と共に答え始めた。

 

「とりあえず、おめでとうって言っておこうかしら。そうよ、彼女は君の運命の女ではないわ」

「彼女って、千里ちゃんだよね。そっか……うん、なんとなくそんな気がしたんだ」

「一人目は君の勝ち。ふふ、君のことだから、きっと情に流されてしまうと思ったのに」


 そんなことしないよ、と悠一は呟いた。

 声が小さかったのは、そうなってしまいそうな自分がいたからだ。

 なんとも複雑な心境だった。人生で他人を拒絶したのはこれで二度目だ。

 千里のことは後輩として大切に思っていたが、「君とは一緒に歩けない」と言われた彼女の心境を思うと胸が痛む。

 だからといって千里を選ぶことも出来なかった訳だが、それとこれとは話が別だった。理屈ではないのだ、こういうことは。

 

「まだまだこれからだものね。ふふふ、格好良い君を見れて、ドキドキしたわ」

「茶化さないでよ……それで、千里ちゃんは?」

「あの子なら無事よ。悔しいけど、今回は私の負けだもの。記憶を消して解放したわ」


 その言葉を聞いて、悠一はほっと胸を撫で下ろした。

 

「良かった。本当に良かった……」


 今度は溢れる涙を留めることはしなかった。

 リリィは以前、全てなかったことにすると言った。確認はしなければならない事はまだまだあるが、何はともあれ無事ならよかった。

 

「千里ちゃんは、何も覚えてないの?」

「私と出会ってからの出来事は全て消したわ。おかげでだいぶ苦労させられたのだけど」

「苦労?」

「あなたたち人間が言うような魔法も、タダじゃないってこと」


 そういえばそうだ。記憶を消したり、出来事をなかったことにするなど、いくら悪魔とは言え簡単じゃないのだろう。

 まして普段からふわふわして、それ以外は食事ばかりしている彼女なのだから尚更だと、悠一は納得した。内心でリリィのことを大食い悪魔とか呼んでいるのだ。

 

「言っておくけど、君の考えてることなんてすぐに分かるんだから」

「あぁ、ごめんなさい……」


 これも失念していた。

 勝手に頭の中を覗くほうも問題があると思ったが、悪魔に人間の倫理観を押し付けても意味がない。

 しばらく付き合っていく中で、自分の物差しで計ること自体が間違っているのだと学んでいた。

 

「まぁ、とにかく良かったよ。リリィも約束守ってくれたし」

「当たり前じゃない。悪魔は約束とか決まり事は破らないもの」

「うーん。悪魔、かぁ……」

「何よ、文句でもあるのかしら」


 誤魔化すように、悠一はリリィへ笑いかけた。

 悠一の中で(大半の人間がそうだろうが)、悪魔はやはり悪いことをする、といったイメージなのだ。

 いくら約束を守るとはいえ、呪いを掛けられているのだから良い気はしない。まして自分の周りの人間を巻き込んでいるのだから、いくら無かったことにできるとはいえ喜んでばかりもいられないのだ。

 そんな感情を、リリィは感じ取っていた。


「そういうんじゃないんだ。やっぱり僕らにとって悪魔っていいイメージないからさ」

「あら、昔は神様とか言われて崇められていたのよ?心外だわ」

「……神様?」


 嘘つけ、と反射的に心の中で呟いてしまった。

 呆けた声を返すと、自慢げにリリィは笑顔を見せる。

 自分で悪魔だって言ったくせに、と思ったが、それを読まれたのか彼女はさらに笑みを深くした。

 

「そうよ。時代や場所によって様々だけれど、神や天使、悪魔とか。呼び名は色々あったわね」

「なんか、意外。神様って感じしないもんね」

「うるさいわね」


 拗ねた彼女は、頬を膨らませてそっぽを向いた。普段は悠一を弄る側の彼女だが、逆の立場になるとこうして子供っぽい仕草をとる。

 確かに気まぐれに人を傷付けることもある。だが、普段の彼女は普通の女性と変わらないのだ。

 

 こんな神様でいてくれるなら、信じてもいいなと思えるのだが。

 

 リリィとの会話を終え、悠一は久しぶりに落ち着いた気分を味わうことが出来た。

 何はともあれ、部屋であれこれ考えても仕方ないと、悠一は久しぶりに学校へ行くことにした。

 制服に袖を通すことが嬉しくなるなんて、いつ以来だろうか。中学生になって初めて制服を着たときのことを思い出しては顔が綻んだ。

 

 リビングには珍しく、灯と真夜がいた。二人とも眠そうな顔をしているが、悠一の顔を見て笑顔で挨拶をした。

 何も変わらない、普通の朝である。悠一はこの瞬間をぐっと噛み締めた。

 ただ普通に起きて、家族と顔を合わせて、平凡な毎日を送る。それがどれだけ幸せなことか、再確認する。

 一度は家族を失った彼だ。忘れてはいけないことだと胸に刻んだ。


「おはよう、姉さん、灯」

「おはよ」

「おはよう悠くん」


 何気ない会話も、どことなく懐かしい。あの家ではあまり言わなかった言葉だから尚更だ。

 普段より遅く起きてしまったため、朝食は簡単なものにした。弁当がないことを伝えると姉妹は露骨に残念そうな顔をする。

 真夜が家を出るタイミングで、灯と悠一も登校することにした。たまには早く着いてもいいだろう。

 二人は車に乗り込む真夜に手を振って、陽光降り注ぐ道を歩いていった。

 

 


 ♪

 

 


 久々の学校はやはり楽しく、あまり好きではない授業もどこか新鮮な気持ちで受けていた。

 リリィの言うとおり悠一はこの一ヶ月間、しっかりと登校していることになっていた。教師や友人の態度はなんら変わりなく、ここでもまた浦島太郎のような気分だ。


(無かったことにするって、こういうことなんだ……)


 悪魔や神と言われていただけあって、リリィは凄い人なのではと考えてしまう。普段の彼女を見ているととてもそうは思えなかったが。

 

(まぁ、人じゃないんだし)


 人間ではないのだ。人外の、自分たちとは根本的に違う存在。

 普通に話せてしまっているから忘れがちだが、彼女は自分を呪っているのだ。心を許してはいけないとは思いつつも、どうしても甘くなってしまう。

 もやもやする心中を抱えたまま、午前の授業は終わりを迎えた。

 

 昼食は屋上で弁当を、というのが悠一の日課である。しかし今日は作る時間が無かったため、購買へ向かわなければならなかった。

 それは灯も同様で、ぶつぶつと文句を言いながら二人で歩いていた。

 それなりの生徒数を誇る学校なのだが、購買部に並ぶパンや弁当の数はさほど多くない。授業が終わったと同時に教室を出なければ買うことすらままならない程だ。

 入学して今まで毎日弁当だった二人は、当然そんなことは知らない。

 購買部へ着いたと思った矢先、圧倒的な人だかりと行列に眩暈を覚える。手当たり次第にパンやおにぎりを手に取り、何人並んでいるか数えるのも嫌になる行列に並んだ。


 五分ほど並んでいた灯が、思い出したかのように悠一へ向き直る。

 

「あ、飲み物買ってないじゃん」

「自販機じゃだめなの?」

「北校舎じゃない。あそこまで行ってたら、ご飯食べる時間なくなっちゃうわよ」


 購買は南校舎に位置しており、かつ北校舎から屋上へでることは出来ないのだ。い田舎故の敷地の大きさからか、校舎もかなり大きく作られていて、移動するだけでかなりの時間を食ってしまう。一度自販機へ向かって戻らなければ屋上へは行けない上、この並びようでは大きく時間を失うのは目に見えていた。


「悪いんだけどさ、私並んでるから、お茶だけ買ってきてくれない?」

「ん、わかった。そのまま屋上に行ってるからね」

「私、お茶二本ね」


 あとで割り勘ね、と灯は手を払うように振った。さっさと行けということらしい。

 イライラしている灯と別れ、悠一はその場を後にした。

 

 歩いて数分程。いくつか階段を超えた先に、自動販売機はある。

 ゴミが多く出てしまう、という理由から数が少ない自販機は、この広い校舎に一箇所しかない。

 ほとんどの生徒は歩く手間を掛けたくないのか、わざわざ購買から離れた自販機を使おうとする者はいない。近くに教室で授業があったり、余程喉が渇いてなければ利用されることは稀だった。


 昼休みにおいても同様で、二台並んだそれの前には、女生徒が一人だけであった。

 見覚えのある姿にドキリとする。今一番会いたくて、一番避けていたかった相手の後姿だ。

 ピンク色のカーディガンに、短めのスカート。染められた髪は金色で肌は焼けている。

 彼女は何を買うか悩んでいるようだった。だが悠一には、きっとミルクティーかカフェオレを買うのだと分かっていた。

 見た目に反して、彼女は甘いものが好きなのだ。チョコをあげると目を輝かせて喜ぶし、強がって買ったコーヒーに涙目になっていたこともあった。

 何気ない一コマにも、彼女との思い出はたくさん詰まっている。付き合いが長い訳ではないが、改めて考えると自分が千里を大切に思っていたのだと気付いた。

 

 思い出と同時に、心に暗い感情が渦巻いていく。

 そんな彼女を、自分は突き放した。

 巻き込んで、傷付けて、自分の意思と言葉で線を引いたのだ。


 彼女はまだ悩んでいる。唸りながら真剣に悩み、ふと後ろに人がいることに気付いた。

 振り返って、一瞬目を丸くした後、少し嬉しそうな顔をして笑った。

 そんな仕草にすら、胸が痛む。


「先輩、ミルクティーとカフェオレだったらどっちが良いと思う?」

「ぁっ……」


 何でもない会話の一つ。千里は何も覚えていないようで、太陽のような笑みで話しかけた。

 声が詰まり、喉が収縮する。息をするのも難しかった。

 千里はそんな悠一の様子を見逃さない。


「……?なんだよ、体調でも悪いのかよ」

「あ、いや……そうじゃないんだ、ごめんね」

「んー。なんか変だよな、今日の先輩」


 怪訝な顔をして、千里は少年を眺めた。なんとか返事は出来たものの、ぎこちなさや気まずさが残ってしまった。

 これではいけないと、悠一は気を張った。ここにいる千里はあの時の少女ではないのだ。怖がることも、まして申し訳なくなることもしてはいけない。

 何も変わらないのだ。あのときの言葉は自分の覚悟の結果だし、今さら曲げてはいけない。それは彼女への冒涜のように感じていた。


「ごめん、なんでもないんだ。ミルクティーとカフェオレだっけ?」

「ん、まあ平気ならいいんだけどよ。どっち買おうか迷っててさ」

「僕はミルクティーのが好きだけどなぁ」

「言うと思ったぜ、訊くんじゃなかったなー」


 紅茶好きの悠一は、迷わずミルクティーを選んだ。

 自分の好みではあったが、訊かれたのだから答えたまでだ。結果どちらを選ぼうが関係ない。

 少し思案して、千里は意地悪そうに微笑んだ。


「じゃあ、アタシはカフェオレにしよっかな」

「……なんで訊いたのさ」

「ははっ、怒んなよ先輩」


 カフェオレのボタンを押して、ガランという音と共に缶が落ちてくる。

 千里は手に取ると、にやにやしながら缶を振った。


「ま、ぶっちゃけどっちでも良かったんだよな。切欠だよ、キッカケ」

「いいよ、もう」

「拗ねてる先輩も可愛いなぁ」

「もう!」


 頬を指先で突かれ、悠一は憤慨した。本気ではなくもちろん冗談なのだが、子ども扱いされているようで癪だった。

 からからと笑う千里を見て、そんな気分も波が引くように消えていった。あの家での彼女とはまるで別人だ。分かっていたが、いざ彼女を前にすると体が反応してしまう。

 ちくりと痛む。考えるなと言い聞かせて、悠一は笑顔を作った。

 不自然になっていないだろうか。自然に笑いたかったが、まだ気持ちの整理はつかないようだ。

 少しの間談笑していると、千里に異変が起こった。


「ははは、は……あ、あれ?なんだよこれ……」

「千里ちゃん……?」


 千里は満面の笑みで笑っていた。

 笑っていたのだが、目から大粒の涙が零れていた。

 指先で拭っても、後からどんどんと溢れてくる。

 突然のそれに、千里は困惑した。当然悲しいことなんてないし、今この瞬間までは楽しく過ごせていたのだ。


「あれ、マジでなんだこれ……いや、別になんもないんだって、本当に!」


 涙は止まらなかった。

 大好きな先輩と話して、楽しいはずだった。なのになんでいまはこんなにも苦しいのだろう。

 カーディガンで目元を乱暴に拭った。袖に化粧が移ってしまったが気にしない。それどころではない。

 和やかな気分は一転して、混乱と切なさで塗り潰されていった。


 それを見ていた悠一も、同じく胸を苦しめていた。

 千里には涙の理由が分かっていないようだが、彼にはそれが何故だか理解出来ていた。

 全て無かったことにできる。だが、その想いまでは消すことはできない。

 リリィから言われた言葉を思い出す。それが彼がすぐに千里ではないと選べなかった唯一の理由だ。


 確かに千里との日々は全て消えてしまったのだろうが、彼女の想いはそのまま心に留まったままだ。焦がれる程、何を犠牲にしても愛そうとした少年から告げられた言葉を、記憶はなくとも心が覚えているのだ。

 理想と現実のギャップに悩んだ彼女だからこそ、このやり取りは辛いものだった。

 覚えの無い切なさや胸の苦しみが、濁流となって千里を襲う。


「待て、待ってって……ち、ちがうんだって、マジで———」

「いいんだ。大丈夫だよ、千里ちゃん」


 何が大丈夫なものか。

 上手くいった訳じゃないのだ。結局自分の為に彼女を傷つけただけだ。

 悠一は拳を握り締めた。戻ってきた日常に残された爪痕に、自分が情けなくなる。


 ぼろぼろと泣き崩れる千里は、そのまま膝をついてしまった。

 言い訳のように違う、と繰り返し、徐々にその言葉が詰まっていく。


「ち、ちがっ……ぁああ、ああぁぁあ」

「ごめん、本当にごめんね……」


 カフェオレの缶が手から零れる。茶色の液体が廊下に広がっていく。

 悠一は声を上げてなく千里の頭を抱き締めた。あの病室の時のように、髪を撫でる。

 涙をぐっと堪えて、千里が泣き止むまで奏し続けた。

 彼女と違って、泣く資格などないのだ。自販機のある廊下は特別教室しかないので、幸いにも誰も通りかかることはなかった。


 昼休みが終わるチャイムが鳴っても、悠一は撫でることを止めなかった。

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