たそがれフィクション
波流人
第1話 夢の後先
仏壇の鈴の音が響くと線香の香りが仄かに流れ出す。手を合わせた先には、いつもの見慣れた顔がある。子供の頃はほとんど見られることがなかったこの稀有な笑顔も今は気が済むまで拝むことができる。それでもたった数秒のことだ。そのうち雷が落ちてこないとも限らない。
子供の頃はまわりの大人が恐かった。学校の先生はもとより、塾の講師、近所の住人、駄菓子屋のおばさん。なかでも父哲樹は別格だった。その名からあだ名はテッキンで、筋金入りの頑固さは命名された時にすでに約束され、なるべくしてなったに違いない。まわりの愛情に育まれていた幼児期ではまだ父親の人格などわからず、物心がついた頃に体罰を受けて初めて恐怖心が芽生えた。反抗期になると付かず離れずの家族付き合いという処世術を体得し、立場が同等の社会人になってからは口を利くことはおろか目を合わすことすらなくなった。
それでもこの世からいなくなる時期がそう先ではないことを本人から聞かされたときは、今まで感じたことのない喪失感に見舞われた。まるで大男に両肩を掴まれ真っ二つに引き裂かれたような痛みの表現の仕様のない衝撃が貫いた。今さらながら、もっといい親子関係が気づけていたらと後悔が立つも時すでに遅し。葬儀で喪主を務めた後は、ほとんど記憶に残らない程憔悴した。
毎夜の就寝前の線香は一日の無事の感謝と報告を兼ねたもので欠かすことなく続けているが、時折あることが気になっていた。
リビングに戻ると妻がソファーに足を投げ出し、所在無げにスマホを弄っていた。
「最近、夢によく出てくる人がいるんだよ」
「だれなの」
「親父」
「へえ、あんなにお父さんのこと嫌ってたのに」
「それとこれとは関係ないだろ」
妻の前では最期まで父と不仲だったことをいつも口にしていた。
「でも夢ってその時一番思っている人が出てきやすいのよ」
「そんなもんかな」
「何か心当たりないの」
「今さら親父に言い寄られてもなあ」
「あら、若い女の子だったらいいみたいね」
夢についてネットで検索してみると、睡眠前の心理状態が視覚化された心像とあった。つまり寝る前に見た父の遺影が何らかの感情や意識として残り、それが夢に出てくるのかもしれない。だとすれば寝る前に父以外の顔を拝んでみてはどうだろうか。まだ遺影はないが、一人うってつけがいた。
ベッドで背中を向けて眠っている妻の反対側に回り、顔を覗き込む。起こさないように枕元に戻ったとき微かな寝息とともに背後から聞こえてきたのは知らない男の名前だった。
その後、父の連続出場記録は途絶えたが、代わりに寝つきが悪くなりその原因を追究するべきか否か迷っている。
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