12:BOY LIKE A DEADMAN

 兄の部屋を出て、階段を降りると、リビングで待っていたサキナさんと目が合った。

「……あかる?」

 ゆっくりと、サキナさんの下へ向かう。

「……大丈夫か?」

「はい」

 口を動かすと、頬をぬるりと伝うものがあった。多分、返り血だろう。

「あの、ちょっと待っててください。洗ってきます」

 確か、両親の寝室にウォーターサーバーがあったはずだ。替えのボトルがどこかにしまってあるはず。

「あ、あかるっ」

 寝室に向かおうとして、サキナさんに呼び止められた。

「はい?」

「……お前、本当に大丈夫なのか?二階で、何があった?」

 サキナさんは、困惑しているような表情を浮かべていた。

「別に、何も」

 それだけ言うと、寝室へ向かった。




 ボトルを調達し、脱衣所で服を脱いでいる時に、ふと気が付いた。

 着替えが無い。

 脱ぎ散らかしたジャージとTシャツを見る。血まみれで、とても着られたものではない。

 どうしよう。脱衣所に僕の着替えは置いてないし……。

 あっ、と思い出した。

 そうだ、リュックに着替えを詰めておいたのだった。

 洗濯機の上に置いておいたリュックを漁る。確か、奥の方に。

 あった。あったけど、パンツとシャツ、靴下しかない。そういえば、インナーしか持ってきていないのだった。

 どうしたものかと考えていると、漁ったリュックから、制服の裾がはみ出しているのが目に付いた。

 引っ張り出し、手に取る。YOUトピアに辿り着いた時に脱いで以来、ずっと着ていなかった。一応、洗って血を落とすなどの手入れはしていたが、シワだらけで薄汚れている。

「……」

 躊躇っていたが、着ないよりはマシだろうと考えて、丁寧に畳んで置いた。服をすべて脱ぎ、ボトルを抱えて浴室の中へ入る。

 キャップを開けると、中の水を洗面器に注いだ。手で水をすくって、何度も顔に打ちつけると、赤黒いドロドロしたものが、真っ赤に濁った水と一緒に流れ落ちていった。

 ひとしきり顔を洗った後、残りの水を少しずつ頭からかぶった。鏡を見ながら、真っ赤に濁った水が次第に透明になっていくのを見届けていると、映り込んだ自分と目が合った。

 鏡の中の自分は、随分と死んだ目をしていた。

「…………」

 目を閉じ、ボトルから直接水をかぶった。手探りでシャンプーを手に取り、髪を泡立てる。ボディーソープも手に取って泡立て、身体にこすりつけていった。

 丹念に身体を洗い、何度も水をかぶった。

 でも、何度身体を洗い流しても、僕の身体は清められていかないような気がした。




「ここにいたんですか?」

 タオルで髪を拭いながら、玄関に座り込んでいたサキナさんに声を掛けた。

「……あ、ああ」

 サキナさんが立ち上がる。なぜか、どことなく力が抜けているように見えた。

「えっと、じゃあ、行きましょうか」

 リュックを背負い直し、扉へと向かうと、

「あ、あかるっ」

 と、サキナさんに呼び止められた。

「はい?」

「……お前、もういいのか?」

「いいって、どういうことですか?」

「どういうって、その……」

 言葉に詰まるサキナさんを尻目に、扉を開けた。

「あ……」

 いつの間にか、外は雨が降っていた。土砂降りではなかったが、傘無しでは出ていくのを躊躇うくらいの雨が、ザアザアと辺り一面を濡らしていた。

「……雨が止むまではここにいろ」

 サキナさんに諭され、扉を閉めた。

 スクーターはカーポートに停めてあるから、荷物が濡れる心配はないだろう。

「あかる」

「はい?」

「お前、無理してねえか?本当に、大丈夫なのか?」

 サキナさんは、心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。

「別に、無理なんかしてませんよ?何ともないし」

 正直に答えたが、サキナさんは不安げな表情のままだった。

「あっ」

 忘れていたことを思い出し、リュックを置いた。中から、痛み止めの塗り薬を取り出す。

 すっかり忘れていた。だいぶ痛まなくなってきてはいるが、これを塗っておかないと炎症を起こすかもしれない。

 脇腹の傷口に塗りつけていると、

「まだ痛むのか?」

 と、サキナさんが訊いてきた。

「いえ、もうあんまり感じなくなってきてます」

「……そうか」

 そのまま、しばらくの間、玄関で待っていたが、降り続ける雨が止むことはなかった。




「ここなら、大丈夫です」

 サキナさんを両親の寝室に案内した。

 あれから、ずっと待っていたが、雨は一向に止まず、暗くなってきてしまい、結局、家で一夜を明かすことになったのだ。

「でけえベッドだな」

 サキナさんがボソリと呟いた。広い部屋の奥の壁の真ん中に堂々と位置するクイーンサイズのベッドは、きちんとベッドメイクされていた。

 久しぶりに――といってもさっき立ち寄ったが――この部屋に入ったが、相変わらず家具が丁寧に整えられている。ウォーターサーバーや空気清浄機、ベッドサイドライト、テレビラックなど、すべて色調が合わせられているのは、母のこだわりだろう。

「ここに、水もありますから」

 収納の扉を開けると、ボトルが入ったダンボール箱を引っ張り出した。

 ついでに、他にも何かないかと収納の中を漁ったが、布団収納袋や衣装ケース、加湿器などがあるだけで、特に役に立ちそうなものは見当たらない。

「……?」

 ふと、除菌消毒シートのパックが上に乗っている小さな棚が目に付いた。棚というよりは、三段式の小物入れだ。黒いプラスチック製で、ツヤツヤ光っている。

 一番上の引き出しを開けると、パッケージに数字の書かれた紙箱がたくさん入っていた。これはなんだろう、タバコだろうか?父も母も、タバコは吸わないはずだが。

 こんなもの要らないと、二番目の引き出しを開けると、今度はよく分からない色とりどりの変な形をした物がいくつか入っていた。これは、肩たたき棒かなにかだろうか?

 三番目の引き出しには、大量の乾電池が入っていた。

 しめた、これなら役に立つと、乾電池をごっそり取った。ついでに、上に乗っていた除菌消毒シートも頂戴した。

「お腹、空いてます?」

 調達した物をリュックに詰めながら呼びかけたが、サキナさんはベッドを見つめたまま、

「……いや」

 と、小さく呟いた。

「分かりました。じゃあ、ちょっと、色々役に立つ物が無いか探してきます」

 そう告げると、僕は寝室を出て廊下を抜け、キッチンの方へ向かった。

「……うぇっ」

 扉を開けた途端、酷い臭いが鼻に付いた。多分、父と母の死体の臭いだろう。

 鼻をつまんでキッチンの中に入ると、シンクに置かれているまな板の上に、黒い塊が乗っているのが目に付いた。その横に、汚れた包丁と、スパイスの小瓶と、〝ローストビーフ・ソース〟と書かれたパックが置かれている。


「スペアリブよりも、あれがいいな。ローストビーフ。この間作ってたやつ」

「まあ。あれ意外と手間がかかるのよ」

「そうなの?でもローストビーフの方がいい」

「父さんも、ローストビーフの方がいいな」


 脳裏に、あの日の朝のやりとりが蘇った。

 ああ、と理解する。

 このまな板の上の黒い塊は、ローストビーフになる予定だった牛肉なのだろう。ハエもたからないほどカラカラに渇いてしまっているが。

 ふと、ローストビーフ・ソースのパックを手に取った。パッケージには、〝約3人前分〟と書かれていた。

「……」

 僕はパックを破くと、どろりとしたソースをまな板の上の黒い塊にかけた。

 その後、キッチンの棚とパントリーを漁って、インスタント食品や缶詰などの無事な食料だけを調達して戻った。冷蔵庫の中は、腐り切った食材が朽ち果てているばかりで、父と母の死体よりも、もっと酷い臭いがこもっていただけだった。




「本当に、いらないんですか?」

「……ああ」

 ベッドに腰かけて頬杖を突くサキナさんを尻目に、トマト缶を平らげた。水を飲んで、口の周りを拭う。

 まだ降っているのか、カーテンを閉めきった窓の向こうからは、シトシトという雨音が微かに響いていた。

「えっと、トイレは廊下を出て右です。その隣が洗面所なんで、歯磨きするならそこで」

 家の勝手を説明しながら、空き缶を片付けた。ベッドの上のランタンライトの灯りを頼りに、スプーンを除菌消毒シートで丁寧に拭いて、カトラリーケースの中にしまっていると、

「あかる、お前、着替えないのか?」

 と、サキナさんが訊いてきた。

「え?」

 自分の格好を見る。確かに、制服のまま寝るのはあまり気が進まない。

「えっと……」

 ベッドを見つめる。

 ……ここで、寝るのか?

 ここで。

 父と母が、毎日寝ていたこのベッドで。

 父と。

 母が。

「……あかる?」

 サキナさんの声で我に返った。

「えっと……僕は二階で寝ます」

「……は?」

 いそいそと荷物をまとめて寝室を出ようとすると、

「寝るって、お前、部屋は……」

 と、サキナさんが口ごもった。

「……いいんです。僕は、あそこで」

 それだけ言うと、僕は寝室を出た。真っ暗な廊下を抜け、階段を上がっていると、

「ま、待てよ、あかるっ」

 と、サキナさんが追いかけてくる気配がした。

 構わずに、勝手の分かる暗闇の中、僕の部屋であるクローゼットへ向かい、扉を開く。

 埃と黴の混じり合った臭いが鼻を撫でた。僕の部屋の臭いだ。僕がこの家で唯一与えられた居場所、懐かしい、寝床の臭いだ。

「ここって……」

 いつの間にか追いついていたサキナさんが、僕越しにランタンライトを掲げてクローゼットの中を覗き込んだ。

「ここが、僕の部屋です」

 中に入ると、あの日の朝から放り出されたままのタオルケットを床に敷き直した。

「お前、まさか、ずっとここで寝てたのか?」

「え?……はい」

 サキナさんは言葉を失っているようだった。

 確かに、考えてみれば、無理もないだろうか。

 窓も無い、二畳ほどのクローゼットの床に、タオルケットを敷いただけの粗末な寝床だ。隅に学校で使う教材と、制服の替えや下着、靴下などの僅かな衣服と、小さな卓上時計と、タオルやティッシュ、ゴミ箱代わりのビニール袋が置いてあるだけで、それ以外には何も無い。壁には棚が取り付けられているから、余計に狭苦しく見える。天井に灯りはあるが、小さいせいで、ぼんやりとしか中を照らしてくれなかった。

 こんな場所、部屋とは呼べないかもしれない。それでも、僕はもう一年以上、ここに住み着いていた。ここで寝て、ここでご飯を食べて、ここで宿題をして、ここでウォークマンから流れる音楽を聴いて……、ここで時間が過ぎるのを待っていた。

 だから、僕にとって、ここは自分の部屋だ。

「よせよ、あかる。もうこんなとこで寝る必要はねえんだ。下のでっかいベッドで……」

「いいんです。……多分、ここじゃないと、寝られないから」

 リュックを降ろすと、いつものように壁にもたれた。ようやく自分の居場所に帰ってきた、という安心感が身体に満ちていく。

「……」

 サキナさんは無言で、横に座り込んだ。

「本当だったのか?家族全員から……無視されてたって」

「はい」

「でも、食い物とかどうしてたんだよ」

「玄関の靴箱に毎日、百円玉が三枚置かれるんです。それが僕の生活費で、それで食パンとか買って食べてました。一日三百円だから、あんまり高いものは買えなくて。だから、ノートとか、消しゴムとか、買いたいものがある時は食事を抜いて、お金を貯めて買うんです。それでも、百均みたいな安いとこでしか買えないんですけど」

「……風呂とか、服とか、どうやってたんだ」

「お風呂は家族が寝てる間に、こっそり入ってました。僕が入る頃にはお湯が抜かれてるから、シャワーで身体を洗って。シャンプーとかタオルとかは、別に使ってもいいんです。どうせ、何も言われないし。でも、服は洗ってくれないし、放置してたら捨てられちゃうから、汚れた時だけ、お風呂の時に水で洗ってました。それも、下着と靴下くらいしかなかったから、休みの日も制服を着て過ごしてて……」

「でも、学校で使う道具とか、どうやったって親が用意しなきゃならない物もあるだろ」

「そういうのは、いつの間にか靴箱の上に置かれてるんです。サインがいるプリントとかも、靴箱の上に置いておいたら、いつの間にか済ませてあるんです。無視はされてましたけど、最低限のことはしてもらえてて――」

 不意に、サキナさんから抱きすくめられた。

「……サキナさん?」

「……俺も、ここで寝るから」

 サキナさんの肩が、顔に触れていた。

 サキナさんの肌は、とても温かった。

 反対に僕の身体は、まるで死んでいるかのように冷えている気がした。

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