第10話

 夜、病室に「あたし」以外の誰もいない時を見計らい、アイフォンを取りだす。やりたくはなかったが、これしか方法はない。今の宮本千絵では一人きりで立ち直ることは難しい。「あたし」の力が必要だ。


 これをした後のことを考えると、少し寂しさを感じる。

「パルクス」がいなくなった今、「あたし」が存在する理由もなくなってしまった。必要のなくなった「あたし」は、遠くない将来バラバラに砕け、消えてしまうだろう。


 だが、その前に宮本千絵の壊れた精神を元に戻さなければならない。そうしなければ今までの苦労も全てが水の泡だ。結果「あたし」がいなくなったとしても、それは表面上のこと。宮本千絵が立ち直りさえすれば問題ない。

 務めを果たそう。


 アイフォンを起動させ、カメラアプリを呼び出す。使うのは動画機能。撮影する方向を自分が映るよう、デバイス正面に切り替えた。

 準備は整った。


 深呼吸を一度。

 さあ、始めよう。


 さよなら、宮本千絵。

「あたし」は今、あなたの元へ還ります。



「ん……」


 病室で目が覚めた。しん、と静まり返った部屋。時間は深夜一時。消灯時間は過ぎており、電気は付いていない。暗い室内にいるのはあたし一人。時間も遅く、他の誰かがいるはずがないのに……誰かがいたような気がする。それほど遠くないところに。

 気になってきょろきょろと周りを見回すが、やはり人影はない。


「気のせいだったのかな……あれ?」


 ベッド脇の小テーブルに、アイフォンが立てかけられていた。覗きこむと鏡のようにあたしの顔が映り込む。


「動画を撮ってる……?」


 寝る前にそういう設定をした覚えはない。そもそも立てかけてすらいない。


「どういうこと……?」


 画面を見たところ、動画を撮り始めてから大分経っている。一体何が撮影されているのか、確かめるのは怖かった。知らない人が夜中病室に入り込んでいるのだろうか。胸の鼓動が速まり、嫌な予感がする。


「……見ないでいいよね」


 停止ボタンを押し、動画を止める。気味の悪いデータを早いうちに削除してしまおうと操作していると、アイフォンが押さえていたメモの存在に気付いた。

 そのメモには、こう書かれていた。


『動画を見ること。パルクス』

「!?」


 見ない訳にはいかなかった。

 保存したばかりの動画を表示し、再生を開始する。


『えーっと……これでいい、のかな?』


 最初天井が映り、声だけ聞こえてきた。画面が揺れて、すぐ固定される。さっきあたしが手に取る前の立てかけられた状態になったようだ。後ろに見える窓の暗さを見ると、時間も今と同じぐらいらしい。

 画面中央に見知った顔が映った。


 あたしによく似た顔。違う。これは――


「あたし……!?」


 その顔はあたしそのものだった。

 おかしい。こんな動画を取った覚えはない。


『こんばんはー……っと……』


 恐る恐る、小さな声で画面の中の『あたし』が喋り始めた。


『すまないね、時間も時間だから大きな声を出すわけにもいかなくてさ。見回りとかあると面倒だし』


 笑いながら話す。

 聞きたいのは、そんなことじゃない。


 あなたは、誰。


『こうしてあたしを直接見るのは初めてだったよね。一応自己紹介しておこう。あたしは……なんというのが分かり良いだろうか。宮本千絵っていう答えじゃ満足しないだろう? ううん、そうだな……』


 顎に手を当て、宙を睨む仕草。

 あたしと一緒の顔をしておきながら、雰囲気なんかが全く違う。


『さしずめパルクスと宮本千絵の仲介役、とでも言おうか。あの子が幻覚と分かった今なら、君にも理解できるはずだ』


 仲介役?

 一体、この人は何を言おうとしているの。


『言うなればあたしはパルクスと現実の帳尻合わせをしていたのさ。君は幼い頃、パルクスというイマジナリー・フレンドを作り出した。まあ、それ自体は小さな子が見ても不思議ではないんだが……君の場合は度が過ぎた。


 もしパルクスが幻覚だと気づけば、心が折れてしまうほどに。そこで登場するのがあたしというわけだ。あたしは君にパルクスが実在するものだと思い込ませなければならなかった。そうしないと君の精神の一部分であるあたしも道連れにされてしまうからね。


 軽く言ったけど、結構大変だったんだぜ? ご飯ならあたしが出て自分で食べればいいだけなんだが、ボール遊びをしようとした時なんかは本当にどうしようかと思ったよ。流石にあたしもボールに触らず方向を変えたりなんて出来ないし。


 ふふ、パルクスは可愛くて愛おしいが、悲しいかな翼が無ければ空は飛べないように、世界に干渉することはできない。なぜってあの子は幻覚だから』


 悲鳴が漏れてしまいそう。

 聞きたくもない言葉が頭の中を蹂躙する。無意識下で考えようとしなかったパルクスの正体が、その真実が、無理矢理に白日の下に晒されていく。


 幻覚であることは分かっていた。それでいいと思っていた。他の人たちがどう思おうとも、あたしがそれでいいなら問題ないと思っていた。だけど彼女は、あたし自身の言葉を使ってそれに踏み込もうとしている。それが耐えられなかった。


『そしてあの子を支えにしていいほど、世界の懐は広くない』


 これ以上は見ていられなかった。この人はあたしの大切なものを砕こうとしている。逃げるために、今すぐ動画を停止させ、削除して忘れてしまえばいい。


 なのに――指が動かない。まるであたしの中にもう一つ別の意思が現れ、最後までこの動画を見させようとしているかのようだった。

 そんなことにもお構いなく、画面の中のあたしは話を続ける。


 決定的な言葉だった。


『宮本千絵。パルクスに縋るのは、もうやめろ』


「!?」


『君が見ていたあれは幻覚だ。あたしがここにいるのが何よりの証拠だ。そんなものに頼ってはいけない』


 そんなことは分かっている。

 それでも。


「それでもあたしにはパルクスが必要なの!」


 一番言われたくないことを、はっきりと口に出され、気持ちを抑えられない。


 幻覚だからなんだというのか。見えないから、存在しないからなんだというのか!

 この世には強い人ばかりじゃない。何かに縋りつかなければ生きていけない人だっている。あたしはそれがパルクスだったというだけ。それの何がいけない! 誰もが心の拠り所を持っているはずなのに、あたしのものは認めることをせず、それどころか寄ってたかって奪い去ろうとしている。それが当たり前だから。常識に当てはめ、はみ出すあたしがイレギュラーだから。人は間違いを正すため、あたしのことを思ってあたしを傷つける。

 どうして皆――あたしのことを放っておいてくれない?


『まあ、今更頼るも何もないか。実在していたにしろ、幻覚だったにしろ、あの子は消えてしまったんだから。まさか見えなくなってもまだパルクスにしがみついている、なんてことはあるまい?』


 嘲るような笑い。

 侮辱され、腸が煮えくり返りそうだった。今すぐこの女を叩きのめしてやりたい。力一杯に噛みしめる奥歯が痛み出す。


 憎い。例え弱くても、幻覚に縋りながら必死に生きているあたしを、正論を振りかざし理路整然とした言葉で追い詰める、この女が憎い。


『だが、パルクスは消えていない』


 息を呑んだ。出鼻をくじく絶妙のタイミングで、冷水が脳天からぶちまけられたかのようだった。


『あの子は君から生まれた存在だ。君の中にしか居場所はない。どこにも行ってはいないよ。だが、パルクスのことを見失ったことも事実だ。ならばどこへ消えたのか……答えは一つ。君の中で君が知らない場所』


 あたしの知らないあたしの場所。そんな場所があったこと、つい昨日までは知らなかった。だけど今なら心当たりはある。

 画面の『あたし』は自らを指さす。


『そう。あたしだ』


 細く、微かな糸だったけど――パルクスへの手掛かりは、まだ完全に失われてはいない。


『パルクスは君の前から姿を消したが、あたしに統合され、この胸の内で今も元気に走り回っているよ』


 パルクスはまだ生きている。憎らしかった女の言葉が、先ほどとは打って変わって幸せを運ぶ福音の音色に変化する。喜びが体中を駆け巡り、暗かった世界に希望の光が射した。


 絶望の淵から救いあげられ、天にも昇る心持ちになる。その分、次の台詞は一際硬く、情け容赦なく響いた。


『会わせるわけにはいかないがね』


 浮かれた気分が一瞬にして凍りついた。振り回され続けるあたしの心は、疲弊を訴え始める。


「どうして……」


『さっきも言ったけど、いつまでもパルクスに縋って生きていくことは出来ない。現にパルクスがバレて今ここにいるんだから。あたしとパルクスは、間もなく君の元から去る。お別れだ』


「何言ってるの……一人で生きられないから今までパルクスに頼ってきたんじゃない……!」


 こんなことを言っても無駄なことは分かっていた。画面の『あたし』の目は、何を言われても絶対にそうする強い意思が感じられた。


『大丈夫。君は、強い』


 確信に満ちた声。


『あたしもパルクスも、君の一部が独立して生まれた存在だ。パルクスのいた君の強さは君自身が一番よく分かっているだろう。その全てを内包したなら……君は一人で生きていけるよ。自分を、信じろ』


 瞳に映るのは、厳しい意思だけじゃなくなっていた。優しさを孕んだ、親が子に向けるような眼差しが目に宿っている。


『だから、あたしが消えるその前にあたしの全てを君に還す。不安が無いと言えば嘘になるが、ここから先は君の持ち場だ。あとは頼んだ』


 ふうー……と長く息を吐いて画面の中のあたしは右手で喉をさすった。一気に喋って少し疲れたのかもしれない。


『最後に一つ。これまでの出来事を否定しなくていい。パルクスと育んだ思い出は本物だ。あの不思議な友達は、確かにいたんだよ。君を支えてくれていた。しっかり感謝して、しっかり生きるんだよ。……じゃあ、ね』


 動画の全てを見終わり、気を失うようにして眠りについた。



 翌朝、あたしは胸に大きな穴が開いた気分で眠りから目覚めた。心に巣食っていたもう一人のあたしから言われた言葉が蘇り、昨日のことがやはり虚構では無かったのだと知る。


 幻覚に縋るな。

 一人で生きろ。


「……はっ」


 馬鹿が。


 目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。心の中に浮かぶ風景にあの子を強く描き、細部に至るところまで鮮明に形作る。

 走り回ったり、ツナマヨを食べたり、一緒に話し合ったりした、あの子。

 ネコともウサギともつかない不思議な生き物。雪玉のように白くて丸い耳。ネコのものより細くて長い尻尾。


 ――よし。完璧にイメージ出来た。


 あたしは目を開く。


「……きゅ……」


 ぶるぶる、と濡れたイヌがやるように頭を振るパルクスが、そこにいた。

 それほど会えない時期が長かった訳でもないのに、何年も会っていなかった懐かしさを覚える。


「元気だった……?」

「きゅ……?」


 声をかけられ、不思議がる表情で首を傾げるパルクス。何もかも前のままだ。鼻がつんとして、自然と涙がこぼれてくる。


「パルクス、これからもよろしくね」


 あたしは自分のことをよく知っている。あたしは、どうあがいたって一人では生きていけない。パルクスなしでは遅かれ速かれいつかは心を病み、この病院に戻ってくるだろう。


 人はそんな簡単に変われない。だからあたしは再びパルクスに縋る。それならあたしは生きていける。挫けることなく生き抜いてみせる。


 あの人もあたしのことを買いかぶったものだ。パルクスなしであたしが生きていけるはずなどないだろうに。


 心配してくれなくても大丈夫だよ。あなたと一つになった今のあたしなら、幻覚であるパルクスを周囲の人たちから隠し続けるなど造作もない。


 他の人たちのように一人で生きていくことはあたしにはできない。

 だからといってまともに生きられない人生を送るつもりもない。

 あたしはあたしのやり方で生きていく。


 周囲の世界と合わせなければならないというのならそうしよう。

 幻覚を見てはならないと言うならそう見せよう。


 世界はそれで満足するんでしょ?

 だったらそう演じてあげる。

 それが、あたしたちの強さ。


 さあ、現実へと帰ろう。


 お母さんたちに元気な姿を見せて、あたしの望む未来へ歩み出そう。

 あたしの隣には友達がいる。何よりも、誰よりも大切な友達が。

 だからきっと大丈夫。


 あたしは生き抜いていく。

 あたしたちは、生き抜いていく。

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