第61話 償い

 初夏のような暖かい一日が終わろうとしていた。寒い季節を経た後の陽気は心を踊らせてくれるものだけれど、赤々と燃えて夢を見るように滞空する夕日は、浮かれた心に重石を乗せるように寂しい色をしていた。

 私は整理していた楽譜を片付け、西棟の自室を出た。屋敷は静まり返っている。佳歩さんが台所で食事の準備をしているはずだけれど、物音一つ聞こえない。私は足音を立てずに裏口から屋敷を出て、暗い森に入った。

 春の陽気よりも森の暗さに惹かれる。日中は気分が良かったのに、オレンジ色に暮れていく空を見ているうちに心にも影が差してきた。私の存在の歪みや過ちを、みんなが眠るこの森に罰してもらいたかった。罰が欲しいなら自分で勝手に与えていればいいものを、私は他者の手からそれを与えてもらいたかった。そんな卑しい願望を抱かれてはこの森もさぞ困るだろう。私は喉が渇いた旅人のように、癒やしを求めて森の中を歩いた。

 石碑の空間は木立が取り除かれているので、枝葉のない虚空の穴隙から夕日が差し、仄かに明るかった。日が傾いているせいで日差しは地面まで届かず、石碑も影に覆われ、縁だけが白光りしている。私は石碑の前に進み出て目を閉じ、祈りを捧げた。生者である私が死者である彼らにできることと言えばこれくらいしかない。朝と夕暮れ、こうして祈るのが私の日課だった。

 目を閉じて祈っていると、突然隣に人の気配を感じた。足音も何も聞こえなかったのに、人肌の温もりだけが、ふわりと舞い降りるように私の右腕に触れた。驚いて目を開けると、隣にいたのはアリスだった。顔の前で手のひらを合わせてお参りをしている。彼女の持つアリスという称号は『私は自己の存在を受け入れない』という主張でもある。だが、私の隣でお参りをするこのアリスは極めて異端で、アリスになる前はどうだったのか分からないけれど、今は表情も豊かで自己の存在も認めている。この不思議な称号を持った彼女なら、気配なく人に近寄ることもできるんだろう。

 アリスは祈り終わると私に微笑んだ。白い頬に浮かぶ穢れのない笑顔が、目を見張るほど可憐だった。

「アリス、二番目の空種のこと聞いたよ。つらい思いをさせてごめんね」

 アリスは微笑んだまま首を横に振った。

「アリスは大人になるの、恐くない?」

 アリスはまた首を横に振った。拓真君とは違って、アリスは将来に恐れを抱いてはいないようだった。

 私は歴代のアリスたちが眠る白い石碑を見詰めた。

「僕はね、ここに眠るみんなのことが忘れられないんだ。僕の父さんがこんな習わしを生み出さなければみんながこんな目に遭うことはなかったし、君にだってつらい思いをさせなくて済んだ」

 アリスはポケットからスマホを出して文字を打ち始めた。

『わたしは生きることがつらくてこわかった。アリスの種は、わたしを『生きる』という呪縛から解き放ってくれた。アリスになって、わたしは生きることがとても楽になった。それは、ここに眠るアリスさんたちもみんな同じ。アリスの継承で、わたしもみんなも救われた。お父様には感謝しています。』

「生きることのつらさは僕にだって分かるよ。重すぎる人生を手放したい気持ちも分かる。だけど、それと命の尊さはやっぱり別だよね。何の罪もない人が理不尽に死んでしまうことはあってなはならないことだし、悲しいことだ。僕はこの習わしを生み出した血筋の人間として、厳しく裁かれたいと思っている」

 私は真っ直ぐな瞳でこちらを見上げるアリスを見た。

「僕は継承の種で裁かれたい。人の命を弄んだ父の罪を、この身で償いたい。ただ、それだけなんだ」

 アリスは物も言わず、射貫くように私を見詰めた。透き通る瞳に光を抱いている。このとき、彼女が何を思っていたのかは、浅慮な私には計りかねた。

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