第62話 彼

 里奈さんは今週後番らしく、この日、屋敷に来たのは夜の八時前だった。この四月からは三歳児を受け持つことになったとかで、0歳児を受け持っていた去年とは勝手が違うと漏らした。

「0歳児に比べて楽になったなと思う部分もあるし、大変だなと思うところもあります」

 疲れた笑顔でそう言った。忙しい佳歩さんに代わって私が里奈さんにお茶を出す。里奈さんは両手でカップを包み、お茶に口を付けた。少しは気が楽になったんだろうか。里奈さんは吐息をついて、「おいしい。何だかほっとします」と微笑んだ。お茶を入れてくれたのは例によって佳歩さんなので、私が里奈さんを癒やしたわけではない。私は自分の分のお茶も注ぎ、里奈さんと向かい合って座った。顔にカップを近付けると、伊達の黒縁眼鏡が曇った。

 裕次郎さんが亡くなってからもう七ヶ月が経とうとしている。私は生前の彼とは面識がない。屋敷に関わる人たちのことはほとんど佳歩さんから教えてもらうが、裕次郎さんのことに関しては心做しかみんな口が重く、触れてはいけないタブーのように感じた。その分、私の中で裕次郎さんは神秘めいていた。里奈さんに優しい人と称され、死の間際まで好意の言葉を絶やさなかった人、それ以上の人柄は闇に包まれていた。彼の最期の『好きだよ』というメッセージを私に見せてくれた時の里奈さんの恥じらいがちな微笑みは、裕次郎さんの人柄を間接的に物語っているようでもあった。木漏れ日のような優しい時間が二人の間に流れていたのだろう。そんな想像が容易くできた。

「里奈さん」

 私の口は遠慮なく動いていた。

「裕次郎さんというのはどういう人だったんですか?」

 私が脈絡なく訊ねたからだろう。里奈さんは不思議そうに首を傾げた。

「裕次郎ですか?」

「はい。裕次郎さんは優しい人だったのだと以前あなたの口からお聞きしました。その時の里奈さんの顔は慈愛に溢れているように見えました。どんな人だったのか気になります」

 里奈さんは俯いて「ええっと」と言葉を探し始めた。膝元に落ちた視線があたたかい旧懐の海を泳ぐように、在りし日の裕次郎さんをなぞっている。

「裕次郎はとってもシャイな人だったんですよ。本当に恥ずかしがり屋な人。物静かで、自分のことはあんまり話してくれなかったな。でも、優しい眼差しを持ってた。困っている人にさり気なく手を差し伸べたり、寂しそうにしている人を放っておけなかったり。思い返してみれば、裕次郎はいつもタイミングが良かったなぁ。私の勘違いかもしれないんですけど、本当に寂しくて心細い時に電話が掛かってきたり、出掛ける約束をしてくれたり、何度も救われました」

「裕次郎さんを好きになったきっかけはあるんですか?」

 里奈さんは真っ赤な花のように頬を染めた。

「今日は随分深いところまで訊いてくるんですね。何だか恥ずかしいな」

「せっかくの機会ですから聞かせてください」

「中学の体育祭で一緒にダンスを踊ったのがきっかけなんです。一生懸命な姿に惹かれました」

「そうですか……」

 ちょうどきりのいいところで佳歩さんが里奈さんの夕食を運んできた。私は自分の使った茶器を持って席を立った。

「里奈さん、お疲れのところお付き合いいただいてありがとうございました。裕次郎さんは凄い人ですね。一人の女性をここまで幸せにしたのですから」

 里奈さんは寂しげな笑顔を浮かべた後、その寂しさを打ち消すように、大きく誇らしげに頷いた。

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